人はなぜ二者択一で迷うのか?
人生の難しい決断に関する思い込みとは

Ruth Chang: How to make hard choices

どちらの仕事を選ぶか、誰と結婚するか、都会に住むか田舎に住むか、そんな人生の重要な決断を下さねばならない時の決断の仕方と選択することについて、哲学者のルース・チャンス氏が語る(TEDより)。

人生を左右する決断が難しい理由

ルース・チャン氏:近い将来下すことになるかもしれない難しい決断について考えてみてください。それはひょっとしたら、アーティストになるか会計士になるかというキャリアの選択かもしれません。

または都会に住むか田舎に住むかという居住地の決定かもしれません。またはベティかロリータ、どちらの女性と結婚すべきかという決断かもしれません。または、子供を持つべきか、親と同居すべきか、またはパートナーが望む宗教で子供を育てるべきか、またはこれまでの人生で貯めてきた貯金をチャリティに寄付するかという決断かもしれません。

皆さんが「あぁ、難しい。なかなか決断できない。これは人生が変わってしまう決断だ」と思うこと、考えるだけで疲れてしまうような決断がありますよね。しかし私は、我々がこれら「難しい決断」が人生に対して持つ意味を取り違えているような気がするのです。「難しい決断」を理解すると我々各自が実は持っていた力を得ることになります。

その決断が難しいのは、もう一つの選択がその決断に関連するからです。簡単な決断というのは、他の選択肢よりもその決断のほうが明らかに有益である場合のものです。難しい決断においては、一つの選択肢がもう一方よりもある点では優れているけれども、もう一方の選択肢にも良い点があります。つまり全体的に考えればどちらの選択肢を選んでも変わらないということです。

現在住んでいる街に留まって今の仕事を続けるか、田舎の街で自分を試すことができる仕事へ移るのかで思い悩むのは、今の仕事を同じ街に留まって続けることがある点では有益に思え、引っ越しをして新しい場所で新しく始めるのもまた違う点で有益に思えるからです。そして、全体として考えればどちらの選択肢がより優れているという問題ではないのです。

全ての「難しい決断」が人生に関わる大問題である訳ではありません。例えば、朝食に何を食べようか悩んだとします。食物繊維が豊富なシリアルを食べるか、チョコレートドーナツを食べるか。ここでの選択は健康を取るか、甘くておいしいものを取るかです。シリアルは身体に良いが、ドーナツはシリアルよりもおいしい。つまり全体として考えればどちらの選択肢がより優れているという問題ではないのです。

小さな決断も「難しい決断」となり得ることに気がつけば、「人生における重大な決断」を下すことへの悩みの程度が小さくなりませんか? 

最終的に朝食に何を食べるかを決定することができるのですから、同じ街に留まって同じ仕事を続けるか田舎の街で新しいチャンスに繋がる仕事を選ぶのかだって決断できるはずです。

また、「難しい決断」を下すのが難しいのは自分がバカだからだと思ってはなりません。私は大学を卒業したての頃、哲学の道を進むべきか法律の道に進むべきか決めることができませんでした。

(会場笑)

私は哲学がとっても好きなんです。哲学者になればすばらしい世界を学ぶことができます。しかし、私は保守的で質素な移民の家族のもとに生まれましたので、お弁当箱にジャムのサンドイッチがたんまり入っていることが贅沢の代名詞でした。なので、肘掛け椅子に座って思考を巡らせ続ける一生を送るなんて、なんと人生を無駄にして浅薄なことであろうかと考えました。

そこで紙を取り出し、その真ん中に縦に線を引き、哲学者になることと法律の道に進むことそれぞれについての長所と短所をできる限り書きだしました。こう考えたことを覚えています「あぁ、それぞれの道を進んだらどうなるかわかればいいのになぁ。神様かテレビストリーミング会社(Netflix)が私の人生がどうなるか、二つの道を歩んだ場合の人生をそれぞれ録画したDVDを送ってくれたらなぁ」と。

(会場笑)

それさえあれば、二つを比べてどちらか都合の良いと思うほうを選ぶことができて、この決断を下すのは簡単なのに、と思ったのです。もちろんそんなDVDはありません。

未来への不安が安全な道を選ばせる

そしてどちらが自分にとって良い道なのかわからなかったので、多くの人が困難な決断を下さねばならない時にすることをしました。そうです、最も安全な道を選んだのです。

哲学の道を進んでも仕事がなければどうしようもないという恐れが、私を弁護士のキャリアに進ませました。しかし後に弁護士は私には向いていないということがわかりました。そして現在の私は哲学者となり「難しい決断」について研究しています。皆さん、「未来、どうなるかわからないことに対する恐れ」が私達が「難しい決断」をする時の決め手となるのです。

そしてこれは、難しい決断をする時にどちらか一方の選択肢がもう一方よりも優れているという思いこみが原因です。そして私達はどちらの選択肢が良いか知るほど優れていないため、最もリスクの低い選択肢を選ぶのです。

二つの選択肢を横に並べて、それに関する全ての情報を羅列したとしても、それでも決断することが難しいのです。難しい決断を下すのが難しいのは、私達がバカだからではありません。それが難しいのは「最高の決断」など存在しないからです。

最高の決断が存在しないのであれば、一方の選択肢がもう一方よりも優れているなんてことがあり得ないのであれば、この二つの選択肢はどちらも同じ程度に良い選択であるということですよね。

つまり、「難しい決断」とは両方とも良い選択である選択肢が複数ある状態を指しますね。でもそんな訳がありません。どちらを選んでも良いのであれば、ただコインを投げて裏か表かで決断を下せばいいのですから。でもコインを投げてキャリアや居住地、結婚相手を決めるのはなんだか人でなしみたいですよね。

そして「難しい決断」とはどちらも同じ程度に有益な二つの選択肢のうちどちらかを選択するということではない理由がもう一つあります。

仮に二つの仕事、どちらかを選ばねばならない状況にあるとしましょう。選択肢は投資担当の銀行勤めをするかグラフィック・アーティストになるか、このいずれかです。その仕事を楽しんでやれるか、年収はどのくらいになるのか、家族との時間を取ることができるかといった考慮すべき項目があります。

アーティストになれば新たな分野を開拓して有名になるかもしれない。銀行員の道を選んでも新たな境地を開拓して成功するかもしれない。その二つの仕事に就いたらどうなるかをどちらに優劣をつけることもなく、同程度の魅力を持たせて自分の好きなように想像します。

そしてそこからいずれかに少しだけ付加価値をつける。例えば銀行に勤めればアーティストになるよりも5万円程度多い給与を受け取ることができる。少しだけ給与がいい銀行の仕事はアーティストとして働くよりも魅力的になるでしょうか? そういう話でもないんですよ。

5万円多かったら? と考えることはつまり銀行に勤めることに対する魅力が少しだけアップしたということであり、必ずしも銀行員になることがアーティストになるよりも好ましいという結論にはならないのです。もしもどちらか一方の条件が少しだけ良くなったとして、それがもう一方よりも魅力的に感じなければ、そもそもその二つの選択肢は同程度に好ましいものであったということにすらなりません。

二つの同程度に好ましい選択肢があって、そのうちの一つの選択肢の条件を少しだけ好条件にしてみる場合、それは必ずもう一方の選択肢よりも好ましいものになるはずです。しかし、選択肢が二つあってどちらにしようか決断を下すのが難しい時は、そう簡単にはいかないものです。

二つの仕事があります。そしてどちらにも優劣をつけることができませんし、同じ程度に好ましい選択です。このような場合どちらを選ぶべきなのでしょうか? なんだかおかしくないですか? 

二つの選択肢に優劣をつけようとする考え方自体を見直す

「選択すること」自体が問題で、二つを比較することなど不可能なのではないでしょうか? でもそんなはずはありません。だって比較することが不可能な二つの選択肢から一つを選べ、と言っている訳ではないのですから。ここでは二つの仕事のそれぞれのメリットを比較しています。

私達がよくよく考える機会がない「当たり前」の価値観に問題があるのではないでしょうか? 正義、美、親切といった価値観を長さ、質量、重さといった数学的数値で測ることはできません。例えば、そこに個人の価値観が介在しない比較問題を考えてみましょう。「どちらのスーツケースが重いですか?」という問題です。それに対する答えは三つのうちのいずれかです。

一方がもう一方よりも重い、軽い、または同じ重量である。ものの重さは数字で測ることができます。そして二つの数字の比較には三つの選択可能性しかありません、一つの数字がもう一方の数字よりも大きいか、小さいか、または同じか、です。

でも価値観はそうではありませんね。というのは啓蒙時代後に生きる私達は数字で測ること、数学的考え方が最も重要であると考える傾向にあるのです。しかし価値観の世界は数学の世界とは違います。

数学の世界では数字でものを測ることができるかもしれませんが、価値観の世界ではそうではありません。世界の全てが長さや重さで測れるものと、私達がすべきことがイコールであるという前提を立てないことです。

子供の幸せ、パートナーへの愛が自分にとって重要であるとして、それを数字で表すことはできないのです。そして人生で決断を下さねばならない時、そこには一方の選択肢がもう一方よりも優れている、劣っている、または全く同じ程度の有益さであるという三つの可能性しかないと思いこむ必要は全く無いのです。

「困難な決断」を下す際に一方がもう一方よりも優れているか劣っているか、または同等であるという考え方を超えて、私は「on a par(同等)」という考え方を提案したいと思います。

選択肢二つが同等なのであれば、どちらを選んでも変わらないですよね。この二つの選択肢は同じ分野の価値観に関連するものでありながらも異なった価値観からくるものであると考えるのです。

これが選択を下すことが難しい理由です。このように決断を下すことについて考えると、私達は自分自身が知らなかった自分を知ることになります。つまり私達一人ひとり、誰もが「理由」を生み出すことができるのです。

自分の理想に基づいて選択を下し、その選択に理由をつける

決断を迫られた時、それは全て簡単な決断で、他よりも確実に優れている最高の選択肢が用意されている世界を想像してみてください。最高の選択肢があるのであれば、それを選べばいいだけの話ですね。理論的に考えればダメな選択ではなく最高の決断を下すことが当たり前です。それを選ぶ理由があるものを選ぶのです。

そのような世界では、ピンクの靴下ではなく黒の靴下を選び、ドーナツの代わりにシリアルを食べ、田舎ではなく都会に住み、ベティではなくロリータを結婚相手に選ぶ理由を私達は持つのです。私達がその選択肢に理由づけをするのです。

考えてみてください。それを選ぶ理由が自分の外から与えられるなんておかしいと思いませんか? 皆さんが自分の趣味を選び、住む家を選び、仕事を選ぶのです。現実にはそれと同等の選択肢が他にもありますが、皆さんが自分で選択し、それに理由づけをするのです。

選択肢の二つが同等である場合、外部からそれを比較するための理由が与えられます。そして間違った選択をしたくないがために、どうしたらよいかわからなくなるのです。「困難な決断」の中で自分自身の決定理由を生み出し、自分がなりたい自分になるのです。

そして同等である二つの選択肢から一つを選ぶとき、私達はすばらしいことができるのです。決断を下すことで、これが自分自身である、これが私の決定である、私は銀行家になるのだ! チョコレートドーナツを食べるのだ! と自分をしっかり持つことができるのですから。

あんな人ではなくこんな人になりたいと決断してきた結果、今日の自分自身があるのです。「自分の人生の著者」は自分、と言ってもよいでしょう。

人生で困難な決断を迫られても、どちらを選べばいいのかわからないとパニックを起こす必要はありません。最高の決断なんてないのですから! そして決断するための理由を外部に求めるのではなく、その理由を自分自身に聞いてみます、「どんな人になりたいのか?」と。

あなたはピンクの靴下を履いてシリアルを食べて田舎に住む銀行員になることを選ぶかもしれないけれど、私は黒の靴下を履いてドーナツを食べ、都会に住むアーティストになることを選ぶかもしれない。人生で決断を迫られる時、その決断をどのように下すのかは私達個人個人に委ねられているのです。

このように自分の人生で自分の決断を下さない人々は、コロコロと意見が変わって落ち着かない人です。私も最初は弁護士になりました。自主性を持って情熱的に、というわけではありませんでした。落ち着かない人々というのは、自分自身で自分の人生を描きません。報酬や罰のメカニズムに伴い、褒められるかどうか、恐れの感情、そしていかにそれが楽かどうかで人生の決断を下します。

自分の下した困難な決断からわかるのは、自分が何に主体性を持って取り組みたいかということです。そして困難な決断を下していくことで、下した決断の通りの自分になるのです。

困難な決断を下さねばならないことに狼狽する必要はありません。私達は自分の選択に自分だけの理由を生み、それを通じて自分自身になることができるのです。ゆえに、「困難な決断」に思い悩む必要はまったくないのですよ。

ありがとうございました。

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