起業家として差別化する方法

ジェニファー・リュー氏(以下、ジェニファー):「起業家として差別化する方法」についてのパネルディスカッションにようこそ。成人の約55パーセントが人生のある時点で起業しており、小規模ビジネスが米国の全ビジネスの99パーセントを占めています。

起業家であることは難しいことです。では、どうすれば他の多くの善意ある、素晴らしいアイデアと差別化できるのでしょうか? このセッションでは、過去の失敗から学び、自分らしさを見つけることで、起業家として成功する方法を明らかにします。

CNBC Make Itのシニアリポーター、ジェニファー・リューです。今回はケンドラ・スコット氏をお迎えします。ケンドラ・スコット氏は、ジュエリー&アクセサリーブランドの創設者、会長、チーフ・クリエイティブ・オフィサーです。

ケンドラ・スコット氏(以下、ケンドラ):よろしくお願いします。

ジェニファー:では、タイムマシンで90年代に戻るところから始めましょう。あなたはこの22年間でケンドラ・スコットを10億ドルのブランドに育て上げましたが、起業の道に入ったのはそれが最初ではありませんでした。まずは、最初のビジネスと、その経営から学んだことについて教えていただけますか?

ケンドラ: そうですね、私は小さい頃から、ものを作りたい、ものを売りたいという気持ちがあり、それは常に私の一部でした。自分の中で小さな火が燃えていたんです。

そして、何をしたいかを考えていた中で、ウィスコンシン州ミルウォーキーにあるギンバルスという小さなデパートでファッション・ディレクターをしていた叔母に惹かれました。当時、デパートで婦人服のファッション・ディレクターを務める女性はほとんどおらず、多くが男性でした。

しかし、行動力のある叔母は、フロアで販売員として働き始め、ディレクターにまで上り詰めました。彼女が私にファッションの魅力を教えてくれたんです。彼女のクローゼットに入って、彼女の服を着て、ミラノやパリのスライドを見せられると、私はウィスコンシン州ケノーシャの少女ではなくなっていたんです。

ファッションは私にとって魔法のようなものでした。彼女と一緒にいる時に感じるこの感覚を、みんなに届けたい。それが私の子どもの頃の夢でした。大人になって、子どもの頃の夢を生きていると言える人が、世の中にどれだけいるのかわかりません。でも私はその1人です。

最初の起業のきっかけ

ケンドラ:高校生の時、義父が脳腫瘍と診断されました。義父は2度のベトナム遠征を経験した退役軍人で、5ヶ国語を流暢に話す素晴らしい人でしたが、その瞬間、私の世界は一変しました。私が大切だと思っていたことが、突然、完全に別の方向に行ってしまったのです。家族として、私たちが愛するこの人をどうやって救おうかということでした。

でも、それが私のファッションへの情熱をかき立てたんです。「脳腫瘍がファッションとどう関係するんだ」と思うでしょ? 彼と癌センターに行った時に、化学療法を受けている男性や女性に会い、快適なヘッドウェアの必要性を感じたんです。

そこで私は、家にあった帽子の内側に綿の裏地を縫い付けて、それを癌センターに持って行って、出会った男性や女性にプレゼントしました。そして思ったんです。「どうしてもっと帽子店がないんだろう」って。

それで、私は19歳で大学を中退してビジネスを始めようと、帽子の会社を始めようと考えました。自分よりも大きなことをしたかったんです。小さい頃から大好きだったファッションを使って、良いことをしたかった。それで、ここテキサス州オースティンにHat Boxという帽子店を開きました。今もHat Boxはこの街にありますが、私の店ではありません。(現オーナーの)彼女が(私の店の)名前を引き継いだんです。

Hat Boxを始めた私は、100店舗以上、10億ドル規模のブランドになることを夢見ていました。1940年代のように、人々が再び帽子をかぶるようになると思ったんです。それを復活させるつもりでした。

今日、この中に帽子をかぶっている人は何人いますか? 3人。みなさんの大半は手を挙げませんでした。これが、私が最初の起業で失敗した理由、ビジネスが軌道に乗らなかった理由につながります。1940年代のように、人々が再び帽子をかぶり始めることはなかったのです。

でも、私はその小さな帽子店を5年間経営しました。大学を中退した私にとって、小売店経営は願ってもいない最高の教育でした。苦学の修士号でした。次のビジネスを始めるために学ぶべきことを教えてくれたのです。

一生忘れない「店を閉めた日」

ジェニファー: 5年でHat Boxを閉めたとおっしゃっていましたね。ビジネスやアイデアを手放す時って、どのように判断するんですか?

ケンドラ: ラーメンを食べる余裕がなくなったら、たいていの場合、物事が悪くなっている兆候です。四角いパッケージの35セントくらいのアレです。匂いを嗅ぐとじんましんが出そうになるんです。ああ、こればかり食べているなって。私はまさにそうでした。

毎日毎日、この仕事を成功させるために必死だった。ただビジネスをしようと思ってやっていたわけではなく、義父のためにやっていたんです。これが私が彼のためにできることだと思ったんです。そして、がん研究にお金を還元したかった。この恐ろしい病気と闘っている人たちを笑顔にしたかったんです。

このままではいけないと思ったのを覚えています。どうすればうまくいくかを考えないといけない。私はショッピングモールで店を始めましたが、余裕がなくなって食料品店の隣にある小さなショッピング街に移りました。立地が重要だと言われます。でも、当時の私はそのメモを持っていませんでした。

週7日働きました。人を雇う余裕もなく、時々母が手伝いに来てくれました。でも、ついにこのまま店を続けられない、やめようと思いました。店を閉めた日のことは一生忘れないでしょう。「閉店しました」と書いてある、ホームセンターで買うような安っぽい看板を置きました。そして、その日のうちにすべての什器を運び出しました。

私の心はボロボロでした。すでに義父は亡くなっていました。大学を中退し、学位も持っていなかった。友達はみんな卒業していた。そして多額の借金が残った。泣きながら外を歩いたのを覚えています。周りには「営業中」のサインを出す店がたくさんあった。私はスーパーの横の縁石に座って、カートを転がす人たちを見ていました。

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