ピカソと原始美術

カリン・ユエン氏:はい、みなさん! 最近、私はパリのケ・ブランリ美術館の展覧会「ピカソと原始美術(Picasso Primitif)」のご招待を受けました。まず前もって私のフランス語の拙さをお詫びしておきます。

前の動画「ピカソと彼のミューズ」をご覧になれば、私が熱心に行ったと思われるかもしれません。みなさんが男性として彼をどう思うか、あるいはアーティストとしてどう思うか、そして彼の芸術が好きかどうかは別として、この100年の間で、彼は間違いなくもっとも影響力があり、もっとも多作であり、重要な芸術家であることは否定できません。

この展覧会は、ピカソ美術館との共同事業という意味で初めての試みであり、非西洋の土着の芸術と一緒に光が当てられ、ピカソの作品の展開を探求するものです。それは、明らかに目を見張るようなもので、そこで私が学んだことをみなさんとシェアしてみたく思います。

さて、この美術館の背景を説明しますと、ルーブル美術館やオルセー美術館で知られる都市の新しい美術館であり、開館からたった11年目であり、エッフェル塔のすぐ横にあります。素晴らしい景色が屋上のレストランから望めます。赤く巨大で現代的な構造の建物で、オスマン時代の近隣の建物(注:19世紀半ばにパリの都市計画が行われた)と壁を共有しながらも対照を成しています。

内部には、巨大な常設コレクションがあり、それはアフリカ美術やオセアニア美術、そしてアメリカ大陸の美術の物品を展示しています。外部は、開かれていて明るく青々と茂った庭園で、建物の内部は暗く、経路に添ったスポットライトが物体を照らし出します。

長く残す意図をもたず制作された、物品を保存していくのに役立っており、またこれらの物品に対する神秘的な感覚を創出しています。

さて、ここでいくつか議論のために立ち止まりましょう。つまり、この非西洋的な美術館が、西洋人男性と、非西洋美術との交流を展示するということは、何を意味するかということについてお話したいのです。これは大変複雑な状況なのですが、実際に展覧会はこの問題に非常に配慮したものとなりました。

少し思い出してみますと、作品の多くが制作された1900年代初頭は、フランスは他のヨーロッパ諸国と同様、400年以上にわたり世界で最も巨大な植民地建設にいそしんでいました。これは、基本的に、どの国が世界でもっとも多くの土地を手にするか、そして物資や土地など交易路を支配する特権を得るかにまつわる競争でした。

もちろん、未開民族に洗練された言語文化を授け、カトリック教に啓蒙し、導くという、倫理的な使命も見られました。

植民地主義政策の提唱者ジュール・フェリー(Jules Ferry)は、以下のように宣言しています。「より高度な民族は、低俗な民族を支配する権利があり、劣った人種を文明化する義務がある」。

今やここに多くの問題があることはおわかりでしょう。まず、劣った、未開の、あるいは非西洋という言葉の使用は、西洋という名詞に付け加えたものであり、非常にヨーロッパ中心的なものの見方です。フランスでは、彼らが世界中で行ってきた偉大な事業を見せつけるという関心のために、たびたび世界中の文物が博覧会としてパリに運ばれてきました。

この美術館のコレクションの歴史をみれば、主に3つの源泉があることがわかります。まず第1は人類博物館であり、これはトロカデロ民族誌博物館の後身にあたり、1878年の第3回パリ万博の同年に建設されました。この万博は、アレクサンドル・グラハム・ベルの電話やトーマス・エジソンの拡声器や蓄音機など、主要な国々が新しいテクノロジーを展示する見本市でもありました。

しかしながら、4,000人もの土着の民族を収容した人間動物園「黒人村」も名高かったのです。このような人々に向けられた態度というのは酷いもので、非情なものでした。例えば、サーカス公演では文字通り「どうぞエキゾチックで過去の未開の人々をご覧ください」という口上もありました。