工藤勇一氏が語る日本教育の問題点

司会者:一方で、工藤先生も教育実習の際に、「教育がすごく楽しくて仕方ない」とおっしゃっていました。ご自身にすごく合っておられるというお話もありましたが、続けてこられた理由について、あらためておうかがいできますか?

工藤勇一氏(以下、工藤):続けてきたのは、知れば知るほどやらなきゃいけないことが見つかるからですよね。将来、自分の力がもっと広がって、いろんな人たちが動いて法律が変わるんだったらとか、真面目に思ってますよ。「教育基本法を変えたいな」「学校教育法を変えたいな」とか思いますよね。

𠮷岡秀人氏(以下、𠮷岡):そうですね。

工藤:だって教育の無償化と言ったって、せいぜい授業料と教科書無償化だけだから、これだっておかしい。教科書無償化と言っていることも、逆に言ったらすごく縛りがあって。

中学校1年生で海外から来た子が英検1級ぐらいの力を持っているのに、なんで中学校1年生の教科書を配らなきゃいけないかいうと、これが法律になっているからですよね。

学年を越えて勉強できないとか、同じ学年の子どもには同じ教育をすることが平等だと言っている。子どもを見てないから、これも教育の根本の本質が間違っているからですよね。子どもが幸せになるために教育があるのに、こっちが「これが幸せでしょ」といって教育をしている。医療もまったく同じですよね。

𠮷岡:同じですね。

「良かれと思って」の施策が、無意識に人を苦しめる

工藤:神奈川の藤沢にある「あおいけあ」は、すごく有名な介護施設なんですが、代表の加藤(忠相)さんという人が「介護の世界もまったく同じだ」って。

介護を受ける方がアルツハイマーや認知症だと、普通だったら暴れたりするのに、そこに行くと暴れないんですよ。「いろんな視察が来ると、『いや〜。加藤さんのところは落ち着いた人だけがいていいですね』なんて皮肉られることもある」と言っていましたが、そうじゃないんです。

普通の介護施設は、安心・安全に介護することが目的になっていて、朝起きる時間、ご飯を食べる時間、歯を磨く時間とか、「午前中はここにいて、この時間はみんなで折り紙を折りましょうね」「何かやりましょうね」って(施設側が全部やることを決める)。

例えば、「今日の午前中の10時~11時までは、みんなで大広間に集まって演芸をやりますから来てください」って言われても、僕なんかは絶対に行きたくないタイプです。認知症になった人たちにとってはもっとストレスで、「そこにいろ」って言われたら苦痛じゃないですか。

わざわざこっちは良かれと思ってやっているという前提の元に、苦痛な時間でみんなにストレスを与えて、パニックになって症状が出る。脳科学的に見たら、心理的安全性を保っていれば症状が出ないと言われている。だけどその介護施設は、食べる時間も、食べるか・食べないかも、全部その人の主体で決められる。

正しいとされている教育は、本当に子どもたちのためになるのか?

工藤:普通の介護施設だったら、暴れる可能性のある人に包丁なんか持たせないのに、「今からこれを作るけど手伝ってくれない?」と言うと、元料理人だった人が手伝ったり。その介護施設に行くと、介護される人が介護をしていたり、みんなを助けたりしているんです。

つまり、この人が幸せになるための介護なのに、我々は「これが介護だ」と言って介護をしてみんなを苦しめている。これは教育と同じじゃないですか。幼稚園や保育園からそうですよね。

「これが正しい幼児教育だ」と言って子どもたちがあぶれていて、あぶれている子どもが問題だから、「しつけなきゃいけない」と言っている。そうじゃなくて、この子が幸せになるための教育とは何なのかを、これから言語化していかなきゃいけない。医療もまったく同じですよね。

𠮷岡:そうですね。僕が大学の講義で習ったのは、抗がん剤って人によって100倍効きが違うらしいんですよ。同じ効果を出そうとして、本当は100分の1でいいのに人によっては100倍入れているから、副作用もめっちゃ大きくなるじゃないですか。そのぐらい、医療の世界も比較的マスでやっちゃってるんですね。

今、子どもたちはたくさん抗がん剤を受けていますが、抗がん剤にどのぐらい感受性があるかではなく、体表面積で測って抗がん剤の量が決まるんですね。ただ標準的な量を決めて打っているから、医療もまだまだな状況なのだろうと思いますね。

司会者:ありがとうございます。

日本社会においてこれからやるべきこと

司会者:まだまだ聞きたいことがたくさんあるんですが、お時間も近づいてまいりましたので、お二方に最後の質問をさせていただければと思います。

まず1つ目は、「日本社会にとって本当に目指すべき目標とは何なのか?」。ここまでのトークでも課題感がたくさん出てまいりましたが、どこに向かって行くべきなのかという、目指すべき目標について。

2つ目が、お二方とも若い方に向けての書籍等をたくさん出されていますが、今日の(参加者の)500名のみなさまの平均年齢がだいたい45歳ぐらいですので、45歳の方に向けてのメッセージ。この2つをおうかがいできればと思うんですが、どちらからいかれますか?

𠮷岡:45歳の人たちにですか? もういい大人だよね(笑)。

司会者:(笑)。

𠮷岡:さっき出してもらったグラフの人口動態は変えられないので、人口ボーナスがあるところは必ず経済も発展することはもうわかっています。もしかしたら、僕らは日本人が働き者だと思っていますが、そうじゃなくて。今、東南アジアの人たちの人口ボーナスがどんどん来ているので、それで豊かになっているだけですね。

モノがたくさん入ってきて、人口も増えて、消費も増えて、流通も増えるということだと思うんですが、アメリカの経済が伸びているのも、人口が増え続けているからに他ならないというところはありますよね。

僕が思ったのは、日本はよっぽど移民を入れないと宿命的じゃないですか。政府がどうかはわかりませんが、2023年は80万人と、出生が思った以上にすごいスピードで減っています。予想以上に減っているのは、たぶん政府の問題だと思いますが。

バブルの時から思っていたんですが、違う幸せのフレームを作ったほうがいいと思っています。ただ経済が大きくなって、GDPが増えて、それが豊かなんだって僕らは洗脳を受けていますが、そうじゃないんです。

GDPが世界20位になったっていいわけですし、別に収入が世界の20番目でも30番目でもいいと思うんですが、「こういう社会が豊かな社会なんだよ」「まったく違う豊かな社会とはこういうものなんだよ」というひな形を作らないといけない。

“日本オワコン説”から打開するためには

𠮷岡:日本は世界でもトップレベルに少子高齢化が進んでいる国なので、そろそろ「新しい豊かさとは」「豊かな社会とは」というものを作ったほうがいいのかなと思います。政治家がやることはこれだと思いますが、政治家の人たちがちょっとブレているような気がしますね。日本は利権ガチガチで、すぐ利権化するので、いろんなものが動かないんですよね。

知り合いのスタートアップの大きな会社の社長たちは、日本は半分オワコンだってみんな思ってますからね。経済で言ったらそうなのかもしれないですが、新しいものを作ることができれば、もしかしたら少しぐらい希望があるのかなとは思っています。

司会者:ありがとうございます。工藤先生、お願いします。

工藤:本当に同感ですね。教育の立場から言ったら、この子が最大限に可能性を活かして、世の中で主体的に生きていくことを支えるために教育があるんです。

もう1つは、社会で、多様な人間たちが一緒に生きていたら、当然トラブルが起こるし、対立が起こる。その対立を自分ごととして考えられるためには、体験を通して対立を解決した経験を持たなければできないですね。それを経験していない人間が、頭の中でできるわけじゃないんですよ。

子どもの頃からその経験を積ませて、言語化して価値づけてあげて、それがしっかりわかる人間たちをたくさん増やして、なかなかわからない人たちもひっくるめて支えていけるような社会を作っていく。

そのためにも、もっと多様性の社会を作らなきゃいけないので、学校でも学年を越えて学べる仕組みだとか、海外の方や帰国の方とか、いろいろな子どもたちが入ってくることが可能な授業スタイルを作っていくことですね。

大きな話をすれば、20万年前、人間のDNAはアフリカのボツワナあたりで1つのところから生まれていると言われていて。黒人であろうが、白人であろうが、何であろうが、我々はみんな同じDNAのところからスタートした。そのうちだんだん文明ができて、言葉ができて、国の対立が起きたけど、もともとはみんな同じじゃないかって話ですよね。

それを本当に体現できる社会を作るために、社会や世界が平和で、持続可能で、人類が滅びないということが可能なのか。その挑戦は、みんながしなきゃいけないでしょう。「いつか滅びてもいい」じゃなくて、持続可能で滅びない社会を作ることが、我々一人ひとりの役目でしょうということを、実感できる教育をすべきだなと思いますね。

日本でおきた悲惨な出来事を、次世代に伝えるためのヒント

𠮷岡:ジャパンハートが沖縄の賞(沖縄平和賞)をもらったことがありました。沖縄戦の日に合わせて、東京フォーラムで沖縄の県が主催して会を開いたんですが、シンポジストとして呼ばれて講演をしたんです。平和記念館の館長とか、琉球大学の先生や学生も来ていましたね。

どうしたらこの記憶を風化させないで、次世代に伝えていけるのか。沖縄戦の日の近くになると、年寄りの人たちが現実をしっかり伝えたいと思うから、沖縄では小学校でも写真を張り出すらしいんですよ。ただ、その写真がすごくエグいらしいんですよね。

子どもたちはみんな目を背けるらしいんです。「見たくない」「トラウマになっている」と言うんですね。学生がこう言っていたんですが、「年寄りの人たちは『あの現実をしっかり次世代に伝えないといけない』と言って、(子どもたちとの)ギャップになっている」。

それぞれの立場から意見を言うんですが、僕はその時に「たぶんそれだとうまく伝わらない。だから、今の世代にわかるように、その体験をトランスレーションしたほうがいいんじゃないですか?」と言ったんですね。

具体的には、もし僕が行政の人間だったらどうするかというと、沖縄戦は学生も農民の人たちも1つの人格がない生物みたいな感じで投下されていって、どんどん突入させられたり死んだりしたわけでしょう。

一人ひとりの人生があって、一人ひとりのストーリーがあって、一つひとつ大切なものだったはずなのに、一緒くたに突撃させられたり、爆弾を抱えて突っ込まされたり、そんなことが起こった。

「沖縄は一人ひとり違う個性を持った、一つひとつの大切な存在だったのに、こういうふうにされた。沖縄は世界で一番ダイバーシティに優れた国。どんな宗教であろうと、どんな肌の色であろうと、どんな職業に就いていようと、沖縄というのは、その人たちを同等に暖かく迎える土地です」と言いました。

「例えば大学を作ってもいいし、いろんな国の人たちを受け入れる。僕なら(沖縄を)世界で最もダイバーシティの高い、その先頭に立つ地域にします。ダイバーシティも何もないように人格も否定されて死んでいった人たちが、その経験をしたところしかできないものを作り上げると思うんですよね」と言ったんですね。そうしたら大学生が僕の話を聞いて、「それならできそうです」と言ったんですよ。

日本の教育は、従来のフレームから作り直す必要がある

𠮷岡:今日、工藤先生とお話ししても思ったんですが、やはりすべての根本は教育なんですね。

特に幼児教育はものすごく大切だと言われているじゃないですか。でも、日本はそれもちゃんとやってないし、幼児たちには一流の先生たちが付いていいはずなのに、そういうのを無視してないがしろにされているじゃないですか。だから子どもたちも含めて、一人ひとり大切な存在なんだということを伝えていく。

教育は、もう一度新しくフレームを作り直したほうがいいんじゃないかなと思います。それこそ先ほど言ったようにマスでするというか、軍隊を作るためにやられたような、国民国家を作るために作ったような教育の仕組みがまだ堂々と温存されています。

体育だってそうじゃないですか。スポーツじゃなくて「体育」ですから。しかも体育の場合は、スタートする時がピストルの音でしょう。障害物競走なんかもまさにそうじゃないですか。

「右ならえ右」も全部軍隊教育から始まっているので、タイ人は軍事訓練以外で「右ならえ右」をできないんですよ。「1、2、3」なんかやったことないし、行進なんかしたことないから、やったらぶつかるんです。体育だけじゃなく、こういうのがまだ日本では温存されている。新しい仕組みに作り直したほうがいいと思います。

何より医療もそうですが、医療技術を操るのにちゃんと教育を受けてない人たちがいまだにたくさんいる。教育は何にもまして大切だし、小さいうちからちゃんとやっていかないといけない。それを日本の政府も、もっと真面目にというか、ちゃんと考えてやったほうがいいんじゃないかなと思います。

「エデュケーション」という言葉は、引っ張り出す綱を指すらしいですね。もともと「エデュケート」は馬の手綱のことを言うらしいので、知識を与えるということではなくて、その人の中から可能性を引っ張り出すということでしょう。

この国は少子高齢化で、昔よりは一人ひとりの子どもにもっと手をかけられるわけだから、ちゃんとしたエデュケーションをできるようにやったほうがいいんじゃないかなと思いました。

司会者:ありがとうございます。それでは時間となりましたので、こちらのトークセッションは終了としたいと思います。