学びは本来個別化されているもの

竹村詠美氏(以下、竹村):尾原さんの話と今のお話に、プラスアルファでちょっとお伺いしたいのが、子どもが能動的選択ができるようになって、振り返って自立できるようになる。それが素晴らしい土壌の力だと思うんですけど。

先生がおっしゃっていた個別化と協働化、その協働を身につける場として、学校現場は非常に大きな役目を果たしていると思うんですけれども。

今コロナの時期、それからアフターコロナを意識したときにどういったところが変わっていくと個別化プラス協働化ということが、もっと効果的にできるようになってくるんでしょうか。

苫野一徳氏(以下、苫野):アイデアはたくさん出せます。まず大事な発想は、学びのペースだったり教材だったり時間割だったり、そういったものは個別化されているのが当然あるべき姿ですよね。学びはみんなと同じように進むわけじゃありませんから。

でも、それが孤立化するのではなくて、必要に応じて人の力を借りられるんだということ、人に力を貸せるんだということ。自分は孤立してるんじゃなくてみんなにちゃんと支えられているんだということなんですよね。

生徒が本当に先生に求めている役割

苫野:さっき、尾原さんがおっしゃったように、ネットには今はカーン・アカデミーをはじめとして、いい授業のコンテンツって無数にありますよね。

ついこの前、ある新聞社の企画で中学生たちとコロナの時代の教育をめぐる哲学対話をしたんです。そのときある中学生が、「先生ががんばって動画の授業を撮ってくれるのはありがたいんだけども、ぜんぜんおもしろくない。先生、そんなところにエネルギーを割かなくていいから。ネット上を探せばもう無数にあるから、そういったものをコーディネートしてくれるだけでいい」と。

ただし「(勉強は)独りでやってると辛すぎる」と言うんですよ。「そのときに先生が自分たちのサポーターでいてくれるといいな」ということを、子どもたちは口々に言ったんですよね。

こういうことなんですよ。「ちゃんと自分は支えられているんだ。独りじゃないんだ。必要なときに人に助けを求められるんだ」という感じ。これは自由の相互承認の感度を育むことにもつながってくると思うんですけど。

例えば今だったら、やり方は実情に応じてたくさんあると思うんですけど、朝にそれぞれみんなでちょっとZoomがもしつなげるなら……。つなげないところのほうが多いですけれど、ちょっと対話をして「今週はこんなことをやろうと思ってるんだよね」ということを交換をして。

夕方になったら「今日はこんな感じで進んで」ということを交換しあう時間があって、間になんでも相談ルームがあって、困ったときにそこに行けば誰かが助けてくれるとかですね。

自分は独りじゃないんだと思える環境を作ることが、特に今は大切です。アフターコロナには、例えば異年齢編成でいろんな学び合いをやってみるとかもいいですよね。

そうすると、困ったらお兄ちゃん・お姉ちゃんが助けてくれるなとか。お兄ちゃん・お姉ちゃんも、例えば6年生と3年生の学び合いなんかを見ると、6年生の顔つきなんかが全然違ったりするんですよね。ものすごく頼もしいお兄さん・お姉さんの顔をしたりする。多様性があるからこそ、お互いの力を生かしあえる。

そういった環境編成を作っていく必要があると思います。グリーンスクールなんか、完全にそういう感じでやってると思いますけどもね。

尾原和啓氏(以下、尾原):そうですね。

個別化・協同化が進むことで、教育格差はなくなるのか?

竹村:ここでちょっと難しいテーマかもしれないんですけど、個別化・協同化が進んできたときに、どうやって格差の問題にアプローチをするのか。そこで格差がなくなるという前提で考えているのか。

どうしてもコロナの時期で、デバイスのアクセスある・なし、Wi-Fiなどの格差があると、教育熱心のご家庭はがんばっているけど、そうではないご家庭では遅れているという問題が取りざたされているように見受けます。

信頼されている、承認されている、自分で自立できているというところの状況がより確認できたような状態になると、格差の問題も格差というテーマではなくなって別のテーマになってくると思われますか?

格差というところで止めてしまうと、話がなかなか進みづらくなってしまうのかなと思うんですが、個別化というところで考えていくと。

苫野:それはちゃんと解決できると思っているんですけれども、私が話してもよろしいですかね。

まず日本だけじゃなくて、近代公教育はどこの国もどのような仕方で教育機会の均等を実現しようとしたかというと、みんなを同じところに集めて、まったく同じカリキュラムで、どんな地域だろうが同じような建物の中で、同じことを同じペースでベルトコンベアに載せていくことで教育の機会を保障しようとしたんですね。

これは当時としては最先端の発明だったわけですね。19世紀のイングランドでできた発明ですけれども。学年学級制のシステムもベルトコンベア型のシステムもそのときに発明されたものなんですね。たかだか150年しか歴史のない発明だったわけですけれども。

当時は今までぜんぜん教育を受けたことのない子どもたちに、大量に知識を与えていくという意味では、いい悪いは別として効率が良かったわけですね。

画一的な学習カリキュラムの限界

苫野:ところが今はこれが崩壊しちゃっているわけです。みんなで同じことを同じようにやっていけば、みんなが同じところに到達するというのは完全にフィクションなんです。

もう学校の先生はみんなよくわかっていますよね。画一のカリキュラムの場合は、今日の授業はこれをやって、全員が到達したなんてなかなか思えないわけですよ。

だから個別化したほうがいい。一般福祉を達成するための支援を徹底的にしたほうがいいと。

教育の機会均等や学習権の保障って、いくつか考え方がありますけれども、日本の場合は、一応指導要領を、ここまでは大人の責任として、必ずすべての子どもたちに保障するわけですね。

ところが、それをみんなで一緒にやっていけば、ここから落ちていく子もいっぱいいるわけです。本当は、ここに到達するためには、一人ひとり道は違っていてもいいはずなのに。いや、むしろ違って当然であるというのが大事な発想ですね。

その代わり必ず支援して、ここまでの到達はみんなに保障しますよ、と。しかも「ゆるやかな協同性」でしっかりと支えて。その意味では、格差に関してはこちら(個別化・協同化)のほうがクリアできると考えたほうがいいと思っています。

格差のレベル分けが必要

尾原:そうですね。たぶん格差というものをいくつかのレベルに分けたほうがいいと思っていて。少なくとも機会の均等に関してはある程度、やっぱり国であれ地方自治体がベースを整えないといけないと思います。

そういう意味では、タブレットの環境だったりインターネットの環境だったり。こういったものはものすごく費用が安くなってきているわけですね。

MITメディアラボが昔言っていた、100ドルパソコン構想というのがあって。新興国の方たちが100ドルでパソコンが作れるようになったら、自分が学びたいときに学べるようになるという話があったんですけれども。今や1万円のタブレットであれば十分な性能があるわけです。

1軒1軒の家庭の中にインターネットを入れていくとなると、またそれはコストがかかりますけれども、少なくとも図書館……。withコロナの時代に、ある程度ソーシャルディスタンスは必要かもしれないですけど、ある程度公共の場所に行けばインターネットを享受できるコストも下がってきているわけですよね。

次に、このインターネットデバイスを使いこなして、教育プログラムを使いこなすリテラシーと言われる、デジタルリテラシー・デジタルデバイドの問題というのは、たぶん幻想だと思います。

今の若い子では、最新のインターネット教育のアプリを使えない子のほうが少ないと思っていて。むしろ親がデジタルデバイドのケースはわかりますけれども、子どもに関しては、もう十分に触って学ぶことができるので、そこに関しては僕は大丈夫だと思うんですよね。

だとしたときに、苫野先生が先ほど言われたように、今までの「全体で前にならって進め」と言うほうが効率が良かった10年前のスタイル、この教育の幻想の評価ルールシステムから脱却していけるか。今の個別にあった教育をキュレーションしてまとめてやれるよ、こっちのほうが実はいいんだよ、と。

しかも生徒のほうが先生よりはるかに進んでいるケースもあって、生徒がキュレーションしたものを先生が後押ししてもいいんだよというふうに、先生たちの評価ルール体系を変えてあげられることのほうがたぶん大変で。実際に学芸大学のぬまっち、沼田先生などがやられていたりもするし。

インターネットを通じて、お互いに助け合える協同体を作り出す

尾原:もっと言うと、「足りない部分を学びあうことはお金がない人はできないじゃないか」と言われるかもしれないけれども、さっきのカーン・アカデミーの中では、自分がわからないところをステップバックして学びますと。それでもどうしてもわからない部分があったときに、メンターというものを(頼れる)。オンラインでボランティアがメンターすることもできます。

じゃあ自分は算数がそれなりに教えられるから、遠くにいる国の子どもたちのメンターをする、ということもできるわけですよね。自分が教えられなかったとしても誰か他の子どもに少し手助けをすることもできるし、小学校4年生の子が小学校2年生の子をほんの少し助けることもできるかもしれないし、そうやってインターネットの中ではペイフォワードというものを結びつけることができるし。

もっと言うと、教えることで教わることって多いじゃないですか。そういったところにまず先生の評価ルールというものを変えていって、次にわからないところがわかるというのがインターネットやAIのすごい力だから。

わからないところがわかったときに、わかっている人がちょっと手助けをしてあげるというようなリンクの張り合いを、どういう協働体で作っていくかが僕は個人的には大事だと思っていますね。

子どもたちの世代のテクノロジーとの付き合い方

竹村:すごく優しいインターネットの世界が見えて素敵だなと思うんです。あと5分ぐらいになってきましたので、お二人に共通していて、でも違うところから光を当てていらっしゃる言葉として、「自由」という言葉があると思うんですけれども。

テクノロジーがいろいろな振り返りや個別化をやりやすくしてくれたりと、すごく希望が持てる一方で、世の中だとGAFAに個人情報が取られてアルゴリズムで社会が管理されていて自由がなくなってしまうのではないかという。それも、もしかしたら幻想かもしれないんですけど、そういった話もあったりしますものね。

そういった中で、子どもたちの世代はテクノロジーと付き合い方をどう考えていけば、より本当の意味での自由な自分になれるのか。そういうところを、最後にお二人からお伺いしたいなと思うんですが。

あとごめんなさい。1点だけ私見を言うと、プログラミング教育もすごく叫ばれているので、それが本当に自由になるために必要なスキルなのかというところも、お話しいただけるとありがたいです。

苫野:ぜひ、尾原さんに。

誰かに「ギブ」をすることで、自分らしさが見つかる

尾原:じゃあ、僕から簡単に説明すると、僕はインターネットの中で放置しておけば勝手に自分らしくなっていくと思っているんですね。それは何かと言うと、インターネットの本質ってリンクの貼り合いなので。

子どもって放っておいてもマインクラフトの中で仲間を作ったりとか、LINEプレイの中で仲間を作ったり、今だったらフォートナイトだったり、「どうぶつの森」の中で仲間を作ったりしていて。

大事なことは、僕はギブをしあうことだと思っていて。やっぱりギブをすると、相手から「ありがとう」と言われる。「ありがとう」という言葉ってすごく大事で、あることが難しいから「有り難う」なんですよね。

つまり相手にとって、あることは易しいけど、相手にとってはあることが難しいから「ありがとう」という言葉が出る。「ありがとう」と言われてうれしいじゃないですか。

そうすると、どんどん人にギブしていくと「自分にはあることが易しいけど、相手にとっては難しいものってこれなんだ」ということがだんだんわかってくる。

じゃあもっと「ありがとう」と言われるためには、どんなに時間をかけてもいいから他の人にとって難しいことをがんばってみようというふうになってくる。そうすると、やっぱりその先に自分らしさというものが生まれてくると思うんですよね。

ただ難しいのが、やっぱり近くの友達の中でギブをしていたり、同じ仲間の中で同じものを提供すると「ありがとう」と言われにくいんですよ。単純な話で。

昔だったら日本人が海外に行って折り鶴を1個折ってあげるだけで、すごい「ありがとう」と言われるんですよ。やっぱり遠くに行って、自分の当たり前のことをほんの少しギブしてみると、すごく「ありがとう」と言われるものって必ず見つかってきて。

それを繰り返していく中で、日本人らしさ・東京都民らしさ・尾原家らしさ・尾原らしさみたいに、だんだん自分らしさを「ありがとう」と言われる中で作っていくというのが、僕は個人的にはすごくインターネット時代に向いた自由の作り方なのかなと思っています。

自由の相互承認が失われれば、悪夢が待っている

苫野:じゃあ私も、せっかくですので別の観点と言いますか、今後の社会構想の話をできるだけ簡潔に。先ほど竹村さんがおっしゃった「独裁監視国家の待望論」と言いますか。

尾原:(笑)。

苫野:そういった臭いもなくはないわけですね、今。つまり自由をあえて失って、安心だとかセキュリティにシフトしていくべきではないかという話も出てくるわけですが、私はまるで逆だと考えています。

まず自由の相互承認という考え方が出てくるまでに、どれだけ人間が多くの血を流さなければならなかったのかということに思いを馳せたいと思います。もしもいったんこれを失ってしまえば、とんでもない悪夢が待っているということも1つ押さえておきたい。

もう1つが自由、別な言い方をすれば人権を抑えたほうがいいのではないかではなくて、逆なんですよね。人はより自由が十分に保障されていれば、責任ある行動をとるんです。

例えば今回も自由を制限するというか、それこそ休業中の保障だとか生存権なり人権というものがしっかりと保障されれば、例えばちゃんと自粛もするかもしれないわけです。それがないと、自粛したくてもできないということになる。

自分には十分な自由と人権がちゃんと認められているという安心感があることで、他者の自由もまた認めようとしますから、人は責任ある行動をとって「社会全体にとって何がいいことかな」と考えられるはずなんですよね。

すべての人の自由を保障することで、安全な国家社会を作る

苫野:でも自由が奪われると、いかにその中で自分だけが勝ち抜けをしようとか、いかに自分だけが自由を得ようかという発想になって、結局ホッブズが言うところの「万人の万人に対する戦争状態」になってしまうわけですよね。

だから我々はいかにすべての人の自由を保障して、そのことで安全な国家社会を作っていくかという発想以外に私は考える道はないと思いますね。国家緊急権とか、そのあたりの話もできることならしたいところではあるんですけど(笑)。

ちょっと時間がありませんので、もしもそういったものがあったとして……。国家緊急権というのは、日本はないんですね。ヨーロッパとか韓国は憲法の中にありますけれども。

万一あったとしても、それは自由の相互承認の範囲内、憲法の範囲内、一般福祉・一般意志の範囲内で運用せねばならないので、自由の相互承認の原理は、今のところけっして譲ることのできない、先人たちがそれこそ命がけで考え抜いた原理の中の原理と言えるのではないかなと考えております。

竹村:ありがとうございます。本当にコロナ後の子どもたちはそういった先人の知恵を受けながら、自由を自分たちで獲得していくために個別化・協同化していったり、尾原さんがおっしゃっていたようにワクワクから社会課題に自分から取り組んでいけるような力を育めるように、大人がひたすら見守ってサポートできるようになるといいなと思いました。