サッカー審判員・家本政明氏のキャリア

玉乃淳氏(以下、玉乃):家本さん、はじめまして。ピッチではお会いしたことがありますが、「外」では「はじめまして」です。なぜか、とても緊張しております(笑)。

家本政明氏(以下、家本):え、どうしてですか? 緊張する必要なんてないですよ(笑)。

玉乃:心が鋼のように強いレフェリーの方の前だからだと思います。ある種の偏見、勝手な想像ですが。でも職業柄いろいろとピッチの内外で言われてしまいますよね? 耐え得るだけの鋼の心の持ち主なのかなと……とくに家本さんはかなりメンタルが強靭というイメージです。それは久保タツさんから聞いた情報の影響でもあるんですけれど。家本さんのことを「男のなかの男」と、あのタツさんが崇拝していましたよ。

家本:ははは。「野生の鹿」事件ですね。あれは子供たちを守るためだったからね。必死でした。

怪我のリハビリで、たまたまタツと同じ先生のところに通っていたときの話なんですが、山のふもとに鹿が出て来ちゃいまして。「子供たちがいたからなんとかしないと!」とタツも僕の師匠もそう思ってね。タツが、遠くから石を投げて追い払おうとして、余計に鹿を怒らせちゃって……。

玉乃:あれ? タツさんから聞いていたのは、タツさんが果敢に立ち向かっていったという話でしたけど?(笑)。

家本:遠くから石投げて、ただ鹿を怒らせただけだね。

玉乃:ええええええ。

家本:僕は師匠に加勢して、子供たちが逃げられるようにと鹿を押さえつけたの。そうしたら膝にツノが入ってしまって「ああああ」ってなっているわけ。師匠も腹部にキツい一発もらってしまって、2人で「ああああ」とか言って。

それで、ふとタツを見たらダッシュで逃げて行った。まぁ、人を呼びに行ったんだけれど、石投げて鹿を興奮させて、逃げるように人を呼びに行った(笑)。

玉乃:(笑)。

家本:それで、なんとか時間を稼いで、無事に子供たちを鹿から遠ざけることができました、という話ね。

玉乃:もうカオスですね。そのシーンを想像しただけで吹き出しそうです。

家本:ですよね(笑)。

試合をコントロールするレフェリーの醍醐味

玉乃:すみません、冒頭から話が脱線気味で。しかし家本さんがどういう人物、どういう男なのか、今のエピソードでなんとなくわかりました。早速、審判の道に進むまでの経緯を教えていただけますでしょうか?

家本:実は大学までサッカーをやっていたんですよね。高校生のときから練習中に吐血をするようになってしまって、大きな病院に行ったらそれこそ難しい病名を言われました。これはマズいと、選手としては諦めざるをえなくなりました。

でも、サッカーは好きだから関わりたいわけですよね。どうやって関わるかと見渡してみると「審判」という選択肢があったんです。高校生のときから「審判」っておもしろいなと感覚的に思っていました。

実際にやってみると、直接プレーはしていないけれどサッカーには直接関わるわけで、自分の目の前で自分の頭の中の想像通りにサッカーが展開されたり、そうでなかったり、1つのプレーごとにボールを蹴っていたときには感じなかった別の感情の起伏が生じるんですよね。そこが単純におもしろいなって、まず思いました。

とくに予想を裏切るというか、僕の想像を遥かに超えた素晴らしく、美しいサッカーが自分の目の前で展開されていくのがすごく楽しく感じました。あとは操作しているという感覚ですね。ファールの場面でプレーを止めたり、プレー続行を進めたりね。選手も監督も見ている人の誰も「自分の意思で」試合を止めたり促したりできませんから。

責任重大だけど、審判だけにしか味わえない感覚でもあります。その感覚がとても新鮮で、自分自身のマニアックな部分に火がつきました。

今でこそ中学や高校時分からトップレフェリーを目指そうと審判の世界に入ってくる若い人が大勢いますが、当時、まだその世界に若い人がいなくて、組織としては若い人が欲しかったみたいで、いろいろ指導していただきました。

選手としてサッカーを断念してから、大学に通いながらカイロプラクティックの専門学校に行き、卒業後の進路はいくつかの選択肢から、今の京都サンガに入社することにしました。チーム管理や試合運営といった仕事をしながら、空いた時間にトレーニングしたり審判をしたりしていました。

玉乃:審判は「楽しい」という感覚を高校時代から持ち合わせていたんですね?

家本:そうです。例えば、明らかなファウルがあって選手が倒れているとしますよね。けれどもチャンスと見た味方選手がプレー続行して僕が反則を流す。

ファウル受けた側は当然怒っている人でいっぱいなのに、そのままプレー続行されてそのあとでゴールが決まったりすると、さっきまで怒っていた人たちの怒りが、その瞬間「ウォー」って、歓喜に変わるわけです。そうなると「よし!」っていううれしい気持ちになりますね。

選手は攻めて守る。監督は勝利を導く。お客さまは見て何かを感じる。審判は試合の環境をベストになるよう調整する。

そういうハンドル感、「サッカーをより楽しくエキサイティングなものに導いていく」というような感覚が審判の醍醐味でもあって、裏方ではあるのですが、その点に今も喜びを感じています。

心のはけ口がない審判の辛さ

玉乃:想像するに楽しいことばかりではないはずです。「おもしろそう」と、ウキウキして入っていった審判の世界、実際は、現実はどうでしょうか?

家本:もちろん違うよ(笑)。思った通りになんて滅多にいかないし。自分が反則と思っている認識とほかの人が思っている認識がすごく乖離していることもあるわけです。

審判も選手も「自分は正しい」とプロフェッショナリズムの中で思っているわけだから、当然難しくなります。「下手クソ」とかピッチの中でも外からも言われますからね。

心の葛藤というかモヤモヤ感は常にあって、そのはけ口が僕ら審判にはどこにもないという辛さは現実問題としてあります。

僕らも選手と同じ人間だから、時には「ウォー」って叫びたくなるときもあるんですよ(笑)。これって僕らトップ審判だけの悩みではなく、「町のお父さん審判」のレベルでも同様にあって、審判をされる方を本当に苦しめているんです。

とはいえ、いい意味で言うと、ものすごく鍛練されました。なかなかないでしょ、生きていてこれだけボロカスに言われること。公平・公正・公明という「聖人」が持ち合わせるような「3大美学」が審判には求められているわけで、だからどちらかには絶対に寄れないですよ。

「みんなを喜ばせるようなことがぜんぜんできていないよな」みたいなことを常に課題として考えていて、自分に対するもどかしさや物足りなさみたいな感情に苛まれながらキャリアを積み上げてきました。

だから、「自分をもっともっと高めない限りこの問題は解決しない」と思って、今、MBA取得のために大学院に通って、「どのようにすれば俯瞰して物事全体を見ながら部分を最適化して、全体としてのバランスを取ることができるようになれるか」といったことを日々学んでいます。

経営者目線とでもいうのでしょうか、常に全体を見ながら、どうやったらみんなが喜ぶことができるだろうかということを、経営者や経営者になろうとしている人たちの中で学んでいるのです。

当然、人間関係ですから、心の葛藤やストレスや怒り憎しみが渦巻くので、そこをうまく調整しながら「みんなで力を合わせて、みんなにとって最高の喜びをつくりあげましょうよ。」というものを実現させたいと思っています。

審判も生活をかけている

玉乃:ところで、レフェリーの方はどういった生活リズムなんですか?

家本:2パターンあります。プロの人とそうでない人。ノンプロの方は、例えば学校の先生や一般の会社員の方もおられます。トレーニングに使う時間は人それぞれです。

僕ら審判員にも専属のフィジカルコーチがいて、プロ含め多くの審判員はその方に相談しながらトレーニングメニューを作ってもらって日々トレーニングしているのですが、僕の場合はほぼ毎日午前か午後、または両方、ウチの近所で自分でトレーニングメニューを組んで個人的にやっています。

もともと批判をされやすいポジションだからそこをサボってしまったら、絶対試合に悪い影響が出てみんなに迷惑がかかるし、さっき言ったみんなにとっての喜びを実現できなくなってしまう。「動けていない」とか一目瞭然ですから。

だから「これくらいでいいや」といった妥協した準備ではなく、「できる限りの準備はした」と毎試合自分に自信が持てるような最高の準備をしておかなければ、不安で仕方ないですし、試合が終わっても納得できず気持ち悪いです。そこに大きなミスがあるとそれこそ立ち直れません。

僕ら審判員はみんなの期待や願いを背負っていることを自覚していますし、だからこそ自分だけを優先するんじゃなくて、みんなの喜びを実現させるために自分の力を使う義務とみんなの期待に応える責任があると思っています。

それに僕はこの審判を「本職」としている身ですから、常に最高のパフォーマンスをするために、準備を怠らず、妥協せず、ストイックに追い求めてそれこそ死に物狂いで日々トレーニングに励んでいます。

選手たちから「俺たちは生活がかかっているから」と言われることもありますが、いやいや僕らも生活かけていますよ」と、胸を張って健全な意見交換ができるように日々準備しています。

玉乃:なるほど。確かに現役時代は「審判の気持ち」を考えたことがなかったかもしれません。大いに反省です。

家本:準備という意味で試合も当然見ます。自分が担当した試合をあとで振り返ることもしますが、事前に担当する試合をスカウティングすることは欠かせない作業になります。

試合の1カ月くらい前に担当カードが決まりますが、1つの試合を対戦する両チームそれぞれの目線、それと審判の目線と、3つの目線で見るようにしていますね。時系列にそって対戦する両チームの直近の3試合を見ています。両チームの選手の気持ちや、今のチームの雰囲気とか状況とかがわかり、そのことによって選手への接し方や彼らが起こすアクションに対しての理解をこちらでできるだけ汲み取れるようにはなります。

ただあまり感情移入してしまうとバイアスがかかってしまうので、そのバランスは難しいですよね。本当にレフェリーは大変な仕事だと、あらためて思います。玉乃くん、どう? こっちの世界においでよ。

玉乃:うーん。僕、メンタル弱いので、やめたほうがよさそうです(笑)。

家本:(笑)。

半永久追放になった試合を乗り越えて

玉乃:日本で20数万人の審判がいると言われている中で、7人しかいない国際主審(国際副審は9人)の1人になるまでの道のりは壮絶だったのではないでしょうか。支えてくれたのは、奥様ですか?

家本:ご存知の通り(笑)、昔は血気盛んなただの世間知らずな鼻垂れ小僧でしたので、自分の考えや感情をうまくコントロールできなくて対応がうまくいかないこともあり、誤解が原因で周りからボロカスに叩かれてばかりでしたね。

もちろん自分が未熟だからそうなっただけなので当然の報いです。一番の試練というか僕を大きく変えてくれた出来事がありまして、それは、2007年末に妻にプロポーズして結婚することが決まっていたのですが。

その直後の2008年3月に開催されたゼロックス・スーパーカップ(2008年ゼロックス・スーパーカップ、合計イエロー11枚レッド3枚が提示され、レフェリングが話題になった試合)で半永久追放みたいになってしまって……。

ボロボロに崩壊していく僕を目の当たりにしながらも、彼女は何も言うことなくただ優しく僕を包み込んでくれました。おかげで、僕は人として完全に崩壊せずにすみましたし、結果的にサッカー界に復帰することもできましたし、その年末には無事結婚することもできました。その存在たるや計り知れなく大きかったです。

あのとき彼女がいなかったら僕は今確実に審判を続けていないでしょう。それに当時の彼女は、僕以上に辛かっただろうし不安でいっぱいだったと思うんですよ。

だって、自分が結婚しようとしている相手がまるで犯罪者のように新聞やネットで騒がれたり叩かれたり、テレビの謝罪会見を目の当たりにしたわけじゃないですか。

間違いなく、いろいろな人から、いろいろなことを言われたと思うし、彼女は何も僕には言いませんでしたけれど、なんていうのかな、不安感や恐怖心は絶対にあったと思います。ですので、妻のことは本当にすごいなと、心から尊敬しています。

玉乃:神ですね、奥様。

家本:はい。いろいろな意味で。そんな妻と結婚できたことと、あの出来事が僕の人生にとってとてつもなく大きな、そして意味のあるターニングポイントですね。

もちろん審判としてもそうですけれど、自分がより楽しい人生を送るために、自分が超えなければならない壁とか、変わらなければならない自分と向き合うとか、そういうキッカケになったことは間違いないと思います。

あの事件がなかったら、どうしようもない、尖っているだけの反骨心の塊みたいな人間のままだったかもしれません。その頃は「かっこつけマン」だったとも思うし、自分が努力して得たものはすべて正しい! みたいなところもありましたから。でもそうじゃないよなって本気で思えた瞬間でもあったんです、あの事件は。

こうして誇りに思っている審判という職業を、今も続けさせていただいていることにすべての人に感謝の気持ちを持って1試合1試合を担当しています。

玉乃:本当に飾らないですね家本さん。支えてくれた人の中に、リハビリ施設で一緒だった久保タツさんとかも入っているのでしょうか?

家本:いや、彼は「大変っすねぇ、そんなことあったんすねぇ」ってまったく興味を示していなかったですね。ま、彼らしいといえばそれまでですが。

玉乃:(笑)。今後はどのような展望を抱いているのでしょうか?

家本:まずは、どうすれば自分の人生がより楽しくなるのか。あと当然家族の幸せ。そして、僕と関わる人や社会、世界が、より楽しい方向に進むために自分は何ができるか、あるいは審判の立場からJリーグや日本協会を更に良くしていくために何を残して何を変え、何を新しく作り上げていくのか、といったことを既成や枠にとらわれず、いろんな人を巻き込みながら、楽しみながら作り上げていきたいなと思っています。

もし、ポジションを変えて審判としてではなくどこか別のところに属することになったとしても、サッカー界をよくしていきたい思いは変わりません。

【家本政明(いえもと まさあき)プロフィール】 1973年生まれ、広島県出身のサッカー審判員。 福山市立瀬戸小学校でサッカーをはじめ、高校時代まで県内でプレー。同志社大学進学するも病気のため選手生活を断念し審判員を目指す。大学卒業後、1996年、現京都サンガを運営する株式会社京都パープルサンガに入社し、1級審判員の資格を取得。当時全国最年少での1級審判員取得となった。2002年、Jリーグ審判員に登録、2005年、国際主審として登録され、日本サッカー協会のスペシャルレフェリーとして活動を開始。経験豊富なレフェリングが評価され、2010年5月、サッカーの聖地ウェンブリースタジアムで日本人として初めて主審を務める。2011年10月、イングランドサッカー協会未登録の審判員として初めてFAカップで主審を務めるなど、国際舞台にもその活躍の場を広げている。