読書体験に結びついている、過去の記憶や辛い思い出

渡邉康太郎氏(以下、渡邉):龍ちゃんは(『自分の頭で考える読書』を)読んでみてどうですか? 特に印象に残った箇所とか。

深井龍之介(以下、深井):いっぱいあるけど、まずは「余白に巻き込まれる」かな。もちろんそういう感覚は(自分にも)あったんだけれども、「そんなに言語化してくれる?」と思って、すごく気持ちよかった。「余白に巻き込まれる」と言語化されると、「最近余白に巻き込まれていないな」とわかるし、「そういえば」とか。

荒木博行氏(以下、荒木):そうだよね(笑)。本って、読んだ場所もセットで思い出されることがけっこうあって。「すごく辛い思いをした時にこの本を読んでいたな」とかもあるし、本を開くと記憶がセットになってくることがけっこうある。それは「本だから」ということが多分にある。

もちろん、映画とかでもあるよ。ただ、本の場合は自分がアクティブに思考投入しないと、なかなかその作品ができあがらない。そう考えると、本の効果はやっぱり見逃しちゃいけないんだろうなとすごく思う。

深井:例えば、YouTubeコンテンツと本の違いをここまで鮮明に言語化したものは、これまでになかったからすごく気持ちがよかった。本当にそうだなと思って。「アートとアートじゃないものの違い」も、そもそもそこなのかなと思った。

荒木:ほう、どういうこと?

深井:要は「入り込む余地と余白がある」と、すごくアートっぽいと思って。

荒木:なるほど。

深井:これを読みながら、その中に自分が入り込む余地があるということは、とてもアーティスティックだなと思った。

「自筆的作品」と「他筆的作品」の違い

荒木:康ちゃんはそのへんどうですか?

渡邉:今、「どうしよう。これ、いろんなアプローチ法があるな」と思いながら聞いていました。

荒木:(笑)。

渡邉:アメリカの哲学者のネルソン・グッドマンが、「作品には自筆的なものと他筆的なものがある」と言ったんですね。例えば絵画だと、ゴッホが自ら筆を執っているので、それは「自筆的作品」であると。

一方バッハの曲では、バッハは楽譜を書いてはいるが、それが聴かれるためには演奏者を必要とするので「他筆的な作品」であると。例えばグレン・グールド(バッハの偉大な演奏者)の手を必要とする時に、それは他人が筆を執ることになるから「他筆的」。聞けば納得ですよね。

でもこの分類法によると、本とはあくまで自筆的な作品で、誰かが書いてくれているからあとは読むだけ。なんだけど、本もやはり他筆的なんではないか。「あらゆる作品は結局、他筆的なんじゃないの?」と思ってしまった。これが、ネルソン・グッドマンを読んだ時の僕の感想だったんです。結局一人ひとりが「読む」こと自体、創造的な行為なんじゃないかって。

博さんはこの本に、僕の「本とは演奏を待つ楽譜である」という言葉を引用してくれました。作曲家と演奏者、どちらかだけでは音楽が完成しないように、(本にも)読み手が介入しているんだよね。(本に関して)一意的な解釈というのは、そもそも不可能です。(でも、本を読んで)何かしら共通した感覚を持つこともあるのはなぜなのか。

「どこで読んだか」「誰から借りたか」も、読書の一部になる

渡邉:ウィトゲンシュタインの話で出てきたんだけど、「何らかの意味が通じているとは何なのか」ということを考えた時、理解は脳内のニューロンの発火に還元されるかもしれない。でもニューロンの構造はみんな違うし、絶対に同じようには発火しないから、誰一人として同じ解釈をしていない。

(それぞれ)違う記憶と結びつけて、違う香りを感じて本を読んでいる。だとしたら、(本を読んだ思いは誰とも)共通していない。でも共通していないからこそ、余白に違うものが描かれているからこそ、こういう議論が成立するわけだよね。

全員同じだったら、同じタイミングで、同じことをしゃべって終わっちゃう。だから、「あらゆる作品の他筆性を信じる」というのが、作品のおもしろさだと思います。「どこで読んだか」「誰から借りたか」「誰に借りパクされたまま戻ってこないか」みたいなのも含めて、自分にとってすごく大事な本の記憶になる。

例えば、松岡正剛さんの『千夜千冊』を読んでいると、本の要約だけを書いているものはぜんぜんない。「その著者と、どういう個人的な関係を結んでいるか」「自分がどういうふうにその1冊を耽読したか」という話が書かれているんだよね。それはまさに、さっきの話を物語っている。自分という個人が、その1冊とどう向き合っているのかということ自体が、メインコンテンツたり得る。

それから博報堂ケトルの嶋浩一郎さんは「本をメモ帳にしている」と言っていて。「どういうことですか? それは、例えばスペキュラティブ・デザインの本に、未来社会をスペキュレイトするアイデアを書くということですか?」と聞いたんですよ。

そうしたら「いや、そうじゃなくて。その時の鞄に入っている文庫本にミーティングの内容をメモするんだよ」と言っていて、「マジか」って(笑)。それはやってなかった。でもそれは、究極の「この本を読んでる今、何をしているのかの添書」だよね。ネクストレベルに行ってるなと思った。

荒木:それはすごいな。

深井:思いつかんわ。

荒木:俺はちょっと無理だな。

(一同笑)

その日着る洋服を選ぶように、本も選ぶ

荒木:僕は、自分のコンディションと本をセットで考えることが多いね。この前札幌に行く前に、雪景色を想像したり、馬と対面することを考えたりして、一番フィット感がよさそうな本は何だろうかと(考えました)。

だから、まさに洋服を選ぶように本を選ぶ。そういうメタファーも少しこの本でも書いたんだけど、それってけっこう大事なことだと思っていて。

深井:僕は本のタイプによるな。

渡邉:旅行に行く時とか、本はどうしている?

深井:最近は社会科学の積読が多すぎて、それを読むのみ。

荒木:(笑)。

深井:もしそれがなければ、「勇気を出したい時にこれを読もう」とか、やっぱりあると思う。

荒木:あるよね。

深井:久しく忘れていたけど、今「そうだなぁ」と思い出した。だから、社会科学系だと「理解しよう」となるんだよね。「著者が何を言っているか」とかじゃないので。

荒木:そうだね。

深井:対象物として「この人が出した、この構造を理解しよう」とか、そういう見方になるから、「何を言っているか」がすごく大事になってくる。

荒木:ああ、わかる。読み方が180度違うよね。

深井:違うと思う。やっぱり、文学を読む時とはぜんぜん違う。

筆者の思いや時代背景など、「余白」を想像する読書法

荒木:だから、歴史的な哲学書には2つの読み方があると思う。「この令和の時代を生きている私が、書かれた文章から何を感じることができるのか」という読み方があるじゃない。つまり、余白は私に任されているという前提で、その言葉から自由に発想を広げていく読み方。これも楽しみ方の1つだと思うんだよね。

一方で、筆者がその当時、何を思い、どんな空気を感じて、どんな問題意識を持ち、何を訴えたかったのかという、その本の逆側に回り込んで、その視点を理解しようとする読み方もあるよね。

深井:あるある。どっちもあるな。

渡邉:それでおもしろいなと思ったのが、銀座で「1冊だけの本屋さん」をやっている森岡書店の森岡(督行)さんの話。彼は、「戦時中、その時を生きている人たちが何を考えていたのか」ということをマジで知りたかったんだって。

それでどうしたかというと、1945年の8月15日に至る2週間の朝刊を、全部図書館でコピーしてもらった。自らやらずに、図書館司書の人にコピーしてもらったんだって。彼がやりたかったのは、ある夏8月1日から8月15日まで2週間かけて、毎朝その日付の新聞を読んでみること。1945年に生きている人が何を考えて、どんな情報に接していたか、自分の中に取り入れようとした。

だから事前に内容を知りたくなくて、事情を説明して図書館司書の人にコピーしてもらったんだって。「何言ってるんですか? 自分でやってくださいよ」と拒否されなくてよかったよね。

(一同笑)

渡邉:戦禍の最中で大学ラグビーの記事があるというような、些細なことも含めておもしろかったそうです。

「書き手の視点に立つ読書」と「あえて立たない読書」

渡邉:でもある日突然、終戦したというニュースが新聞記事になって、えも言われぬ喪失感で心の中にぽっと穴が空いたそうです。そもそも、生活の中でタイムスリップするような仕掛けを、自分で組み上げたことがすごいわけだけどさ。

森岡さんは「石炭置き場があるような昭和初期の古い物件にしか住まない」と決めているらしくて。そういうヤバい、古いところに住んでいて、「寒い」「石炭」とか言いながら、その新聞を読んでいると、過去の世界に深く入っていけるんだろうね。

深井:本当にすごいな。体を使って読んでいるんだね。

荒木:でも、そういう読書もめちゃくちゃ大事。(本に)書いておけばよかったなと、今思ったね。

深井:体を使って読むやつ?

荒木:うん。体を使って読むかどうかは置いておいて、「本をどこから見るか」という、体の向きを変える読書だよね。

深井:確かに。それはそうかも。

荒木:「今の自分から、書かれたものをどう解釈するか」という楽しみ方もあるんだけど、「できるだけ書き手の視点に立とうとする」という読書。

深井:いいな。そして「あえて立たない読書」もあるじゃないですか。立たんとこ、みたいな(笑)。

荒木:うんうん、あるよ。

渡邉:そういう立場には立たないでおこう、ということね。

深井:相手の立場や著者のことを完全に無視して、ここにある作品を、自分が受け取れるように受け取るやり方もある。いろいろあるね。

ドイツ語では、ジャンルごとに「本」を表す単語が異なる

深井:今思ったんだけど、「本」というくくり方はしないほうがいいのかもしれないとさえ思った。一つひとつがすごく異質なのに、(どれも)本としてくくられているから。

渡邉:発想のスケールが大きいね。

深井:濃ゆいね。僕が読んでいる社会科学の本と、さっき言った『封神演義』とは、同じ本と呼ばないほうがいいくらい異質なものなのかもしれない。ドイツ語だと、ちゃんと「本」という単語もあるんだけど、ジャンルによって単語が一つひとつ違うらしいね。日本語もそうなんだけど、もっと細かく分かれているらしい。

渡邉:どんな分け方なの? 「絵本」とか「小説」とか?

深井:「Buch」が本なんだけど、例えば小説だったら……。ドイツ語、前に勉強していたけど忘れちゃった。小説とか哲学書とか、そういうのが分かれているみたい。ジャンルによって単語も全部分かれていて、日本語よりさらに細分化されているらしい。

荒木:これ、けっこう難しいよね。例えば、デカルトを読んでビジネスにどう活かすか、という話もあるよね。ただある意味、その読み方ってビジネス文脈に都合よくデカルトの言葉を引っ張ってきて勝手に解釈しているだけで、別にデカルトはぜんぜんそんなこと言っていないのにさ(笑)。今生きている我々が都合よく解釈して、デカルトの名前を語って権威付けしちゃってることもあるよね。

深井:ありますね。

哲学書を読む時の作法は「著者の思考をなぞる」

荒木:ただ、作法として忘れちゃいけないのは、デカルトに限らず「彼自身が本質的にどんな時代を生きて、何と勝負していたのか」と、まず向こう側に立った上で(本を読むこと)。

そうは言っても、令和を生きていて(現代的な解釈を)完全に断ち切ることはできない。だから、その上での余白はあってもいいと思うけど、このへんのさじ加減が難しいよね。かなりそっち側(書き手の背景)を見なきゃダメだと窮屈な読書になっちゃうから、あまりそういうことは言いたくないけど、多少の作法もある気がする。

深井:それは哲学書とかにはすごく感じる。哲学書の原著を読む時は、著者の思考をなぞるように読まないと、ほぼ意味がないと思います。(そうしないなら)まとめを読んでおけばいいじゃん、みたいな。

荒木:そうだよね。

深井:著者の思考をなぞるかのように読むという作法が、哲学書にはあると思います。だから、これは社会科学の読み方とぜんぜん違うんだよね。哲学も社会科学なんだけど、歴史書とはぜんぜん違う。

荒木:どう違うの? 

深井:歴史書は「What」だけわかればいい。

荒木:そういうことね。

深井:なぜ著者の歴史学者とか社会学者がそう思ったかは、もちろん大事なんだけど、あまり読まなくても普通に受け取れる感覚がある。でも、哲学書の原著を読んで著者の思考をなぞらなかったら、読んだ意味はあまりないとは思います。

荒木:そうだね。

「何が書かれているか」以上に「どう書かれているか」が重要

渡邉:さっきのデカルトの話に乗っかっていくと、先日『デカルトはそんなこと言ってない』という本の津崎良典さんが……。

荒木:まさにその本が出たよね。

渡邉:(まさに)そういう本なんです。「よくみんなデカルトを引用するけど、デカルトはそんなこと言っていないから」というのが、断章形式で紹介されている本なんです。その刊行記念イベントが、ゲンロンが運営してる「シラス」というサイト上であって、すごくおもしろかった。デカルトの生涯をたどりながら、その時代背景とともに「なんでこの本はこう書かれたのか?」ということを詳述する番組でした。

そこで語られていたのが「何が書かれているか以上に、どう書かれているかが重要なメッセージ」ということで、今の話に通じます。まさに「メディアがメッセージである」というマクルーハンの言葉を体現してる。例えば、反省の省に察すると書いて「省察」。「しょうさつ」じゃなくて「せいさつ」と読むらしいんですけど。

深井:俺もずっと「しょうさつ」だと思っていたら、「せいさつ」なんですよね。

荒木:「しょうさつ」は仏教用語だよね。

渡邉:そうそう、区別があるらしい。それは一番はじめにオランダで小さな冊子として出たらしい。(「省察」という言葉は)「宗教書を模して出す」という意味で、当時あった「宗教書とはこういうものだ」というコードに従っている。

デカルトは、書くことによって命が失われてしまうかもしれないので、そういう迫害を恐れて、最初は匿名で出すなどいろいろやっていた。そこで、「『神の権威に異を唱えるつもりはないんですよ』という体にして、あえて宗教書のかたちを取ったのではないか」と津崎さんが解説されていて。間違っていたらごめんなさいなんだけど、そういう内容の番組だったと思う。

哲学書に記された「本音」と「建前」を読み解く力

渡邉:「メディアがメッセージである」という言葉の通りで、内容だけ読んでもわからないんです。「どう書かれているか」の意味を読み取ろうとしないと伝わってこない。当時のそういった背景も把握すると、より深く読めるんだと思いました。

荒木:本当にそのとおりです。僕も同じ番組見たよ(笑)。

渡邉:本当? あれ、濃かったよね。

荒木:むっちゃ濃かった。しかも、津崎さんがめちゃくちゃ話がうまくて(笑)。

渡邉:聞き手が2人いるのに、一切出てこないという(笑)。

荒木:「『方法序説』は当時、匿名で書かれた」とか、そんな話もあって。

深井:スピノザとかもそういう感じだから。

荒木:確かにね。

深井:あの時代は、哲学するのが本当に大変なんだよね。

荒木:そうそう。

深井:ライプニッツもそう。これは枝葉の話だけど、あそこらへんの人たちの哲学書を読んでいると、「本当は言いたいことを言っていないんだろうな」と思う。ヘーゲルもそうだと思うし、世を憚って本当に言いたいことは言えなかったんだと思う。だから、どこまでが本音で、どこからが「何かとりあえず言っておかないとね」というところなのか、見極めないといけない。読みながらそう思った。

荒木:そういうの、あるよね。

深井:もう想像しかできないけどね。

渡邉:中学生のラブレターみたいに直接「好き」って言えないから、それ以外の20通りの方法で好きを言い換える、みたいな(笑)。

深井:恥ずかしくて好きって言えないから(笑)。

荒木:かわいい(笑)。

深井:例えがすごいよな。

渡邉:彫刻していくような感じですよね。実体には触れずに、少しずつ周りを削っていくと浮かび上がってくる像があるという。

荒木:断られても傷つかない範囲のギリギリの線を攻める、みたいな(笑)。

渡邉:「まだ後戻りできるか」くらいの。

荒木:そうそう(笑)。「明日、映画、別に空いていなくもない」みたいな(笑)。断られても、ここまでだったら傷つかない(笑)。

渡邉:基本的にその誘い方は嫌だよね(笑)。