本業でも副業でもない「一人多職」

川下和彦氏(以下、川下):こんばんは。本日はありがとうございます。

よく「かわしも」さんと呼ばれますが、「かわした」と申します。珍しい名前なのでメールで「川下」と打っても、返信で「川上さん」と返ってくることがほとんどです。

(会場笑)

そのうえ残念なことにぼくの誕生日は昭和49年8月9日です。これを省略して読むと四苦八苦になるんです。

(会場笑)

ですから生まれてから楽できたことがなくて、受験も1回失敗するし、だいたい1回失敗してから、もう1度リベンジする。だいたいそんな人生です。ちなみに同じの誕生日の人は池上彰さんです。

Wikipediaで調べると誕生日が同じ人がわかるんですが、あともう1人挙げるとすれば黒柳徹子さんでした。

(会場笑)

今日のお題はぼく最近自分の関心事でもある「一人多職」にしました。

どっちが本業で、どっちが副業、というのではなく複数の職業を持つことをぼくは「多職」と呼んでいます。

その上でぼくは多職を持つことができれば、ハッピーになれると思っています。今日はこのテーマでみなさんとたくさん議論させていただければと思っています。

ただそうは言っても、多職を実践しようと思うと現実的には難しいということもたくさんあると思います。後半はみなさんが多職を持つことに対してどのように思われているかをぜひお聞かせいただけましたら幸いです。

転職せずとも多彩なキャリアを送れる

川下:ちなみにぼくは広告会社に入ってから、1度も転職をしていません。大学には大学院を含めて7年間在籍していたので、25歳のときに社会に出ました。遅いですよね。

入社してからしばらくはマーケティング部門に所属していました。

広告会社のマーケティングというと今はかなり仕事の内容が変化してきましたが、昔はテレビCMやグラフィック制作に際して、どんなターゲットに向けて、どんな広告をつくったらいいかを考える仕事が中心でした。

世の中で言うマーケティングと広告会社の場合はちょっと違って、どっちかというと広告宣伝の戦略を考えるというのが主な仕事だったと思います。

そのあと自分の希望と会社のニーズが合致して、PR部門に移動しました。

そこからWebメディア、テレビ局、ラジオ局、新聞社、雑誌社の方々に自分の得意先の製品やサービスについて紹介してもらえるように企画したり、交渉したりする仕事に携わりました。もっと簡単に言うと、新商品や新サービスが出たときに昔でいう瓦版に当たるニュースリリースというものをつくって「こんな商品が出ました。サービスが出ました」と伝えたり、イベントを開催したりして、ニュースとして取り上げてもらうことに取り組んできました。

それからPRだけでなく、広告やグラフィックを制作するクリエイティブ・ディレクターという仕事をするようになりました。

そしてできたものをPRしたり広告したりするうちに今度は製品やサービス自体をつくりたいと思うようになり、新規事業開発に取り組んでいるグループ会社に兼務出向することになりました。

執筆業も多職の1種

川下:そのほかに今、本を3冊書いていて、一番右側は『家計簿をつけたら、ヤセました!』という本なのですが、ぼくは2年前今より20キロ以上太っていて、80キロオーバーでした。でも家計簿つけたら痩せたんです。

(会場の参加者を見ながら)キョトンとされてますよね。「何言ってんの?」みたいな(笑)。

もともと何も考えずに欲望のおもむくままに食べてたんです。だけど家計簿をつけたら食べるものにこんなにお金使ってるんだっていうのがわかって、自己コントロール力が働くようになったんです。

するとみるみる痩せていって効果が出るのが楽しいと思うようになると、そこから筋トレをするようになってどんどん体が引き締まっていった体験を書きました。

ほかには今、東洋経済オンラインで『組織内返事列伝』という連載を書いています。

ここでは組織内で変革を起こしている人を取材して記事にしています。あとは日経、産経、Forbes Japanなどに執筆・寄稿させていただいています。それと次は小説を書くことにチャレンジしたいなと思っています。

自己紹介が少し長くなってしまいましたが、ここからはぼくが多職を得るまでのヒストリーを紹介できればと思っています。

ところでみなさんは幼いころ「将来は何になりたいですか?」と先生から発表させられた経験がないですか? そのときみなさんは1つの職業を答えていたのではないでしょうか。

でもふとみんな当たり前のように1つだけ答えるのですが、「それって決めつける必要はないよね」と思ったんです。発想が一人一職ですよね。

ぼくも小さいころは「警察官になりたい」と答えた記憶がありますが、今思えば1つだけ答える必要はなかったと思うんです。

南北で違う兵庫のカルチャー

(スライドに書いてある兵庫県の地図を指して)

川下:それと誕生日だけお伝えして、どこの出身かを言っていませんでしたが、この県がどこかわかる方はいらっしゃいますか?

(会場挙手)

そちらの方。

参加者:兵庫。

川下:正解です。兵庫県です。ちなみに兵庫県ご出身の方はいらっしゃいますか?

(会場挙手)

あ! いらっしゃいましたね。ありがとうございます!

ちなみに兵庫県のどちらですか?

参加者:姫路市です。

川下:ありがとうございます。姫路はこのあたりですが、兵庫県は日本海と瀬戸内海両方に接しているんですよね。

縦に長い県なので一概に県民性といっても、瀬戸内海と日本海のほうでは気候も違うのでけっこうカルチャーに差があるんです。

ぼくは小さいころ、芦屋市に住んでいました。ここで小学4年生まで過ごしたのですが、ここから北上して加東市というところに引っ越しました。当時は加東郡でした。

祖父が加東市で保育園の園長をしていて、都市に戻ってきたのでみんなで暮らそうということになったのです。

加東市と比べて当時の芦屋市の暮らしは便利でした。親に「買い物に行って来て」と言われたら歩いて市場に行けましたし、本屋さんもあるし、不自由しない生活を送っていました。

上京したキャンパスは田舎だったけど、強みを作った学部生時代

(スライドに書いてある田んぼの風景を指して)

川下:それが加東市に突然引っ越すことになったのです。地図で見るとそれほどたいした距離じゃないと思われるかもしれませんが、ご覧の通り、都会から田舎への移住でした。

近所には日本酒で有名な山田錦を作っている田んぼがあって、行けども行けども田んぼでした。車がないとどこにも出かけられないので、親を口説かなければ買い物にも行けませんでした。

つまり昔便利な生活を送っていただけに、田舎暮らしになるともう一度街に出たいなという思いがありました。そこで都内の大学に進学しようと思ったのです。

そのとき夏目漱石の(研究の)第一人者だった江藤淳さん(注:慶應義塾大学教授等を歴任した文学評論家・文学博士)という方がいらっしゃるんですが、当時のぼくはこの人の授業を受けてみたいと思って関東への進学を志しました。ただいざ実現するとキャンパスは東京ではなく、藤沢の田舎でしたが(笑)。

加東郡とたいして変わらない光景で、田んぼとか肥やしの臭いがするキャンパスでした。

ただ本当は大学を選ぶ際も「専門性を持たないと食っていけない」と思っていました。だから本当は法学部や経済学部などを選択したほうがいいんじゃないか、という思いもありました。

ところが実際にたどりついた湘南藤沢キャンパスは専門性に特化した教育というよりは、課題に対して必要な解決方法を身につけようというカルチャーを重視していました。

とはいえ何か自分に柱がないと不安だなと思って、大学3年生からコンピュータ・グラフィックス(CG)のゼミに所属して、大学院まで4年間自分の強みづくりに取り組みました。