「データノミクス」で変わる経済

若林恵氏(以下、若林):こんにちは。

会場:こんにちは。

若林:これぐらいの温度でございます。

佐藤航陽氏(以下、佐藤):はい(笑)。

若林:私が『WIRED』の若林でございまして。こちら、ご存じ、メタップス、佐藤さんです。

佐藤:よろしくお願いします。

若林:拍手。

(会場拍手)

若林:「データノミクス?」みたいなね。「『知能革命』の始まり」。これ、佐藤さんがつけられたタイトルですよね。

佐藤:そうですね。データノミクスって実際の言葉はないんですよね。

若林:あ、ないんですね。

佐藤:これは完全に造語ですね。「データ(DATA)」と「エコノミー(ECONOMY)」合わせて、日本語訳でいうと「情報経済」になるんですけど。

若林:なるほど。これ、「『知能革命』の始まり:AIが変える資本主義と社会」、でかい話です。

佐藤:かなりふわっとした……。

若林:どう変わっていくことになるんでしょうか? そのデータノミクスっていうのは。データによって、経済のあり方そのものが変わってしまう、といったことになるんでしょうか?

佐藤:資本だけでいうと、やはりお金のあり方というのは多様化してるなと思っています。最近もよく「車買わなくなった」とか、「家買わなくなった」とかあるじゃないですか。なので、お金で買えるもの以外のものに価値が移ってきていたり。あとはフォロワーとかライフみたいなものも一応精神的なインセンティブですよね。

なので、けっこう今までお金を払ってなにかしてきたところが、お金がかからなくてもやれる。あとはデータそのものがお金のフリをしたりとか。けっこう価値の移り変わりというか、いろいろな手段が生まれてきてるなという気がしています。たぶん今後5年ぐらいで相当進んでくるんじゃないかな。

価値判断の基軸が多様化

若林:それって……どういうイメージをすればいいんでしょうね? お金を介さずにいろんなものがやりとりされていくような社会というイメージですか?

佐藤:そうですね。物々交換もありますし、あとはお金じゃないものを媒介として価値の交換をやりとりしたり。ビットコインや企業の電子マネーもそうですけれども。必ずしも電子マネーのかたちをしてなくてもいいですし、『ポケモンGO』のなかのアイテムでもいいですし。

若林:今の産業革命以降の社会というのは、おそらくお金というものを、社会のある種の交換媒体として、どんどんその意味を肥大化させていったという、そういう歴史だったのかなっていう気がしますね。

佐藤:価値判断の基準になりましたよね。

若林:そうですよね。

佐藤:「儲かるか・儲からないか」もしくは「自分にとって損か・得か」というのが前提となって、その「損か・得か」というのも結局「お金に換算してどうか?」という話が多いじゃないですか。

なので、私が生まれる以前の話はわからないですけれども、お金を主軸にものごとを選ぶようになってからけっこう時間が経ったなと思っています。今後テクノロジーでその価値観、人間の価値判断基軸っていうんですかね、ここもかなり変わっていくんじゃないかなと。

若林:その一方で、「とはいえ、お金で買えないものがあるんだ」みたいなことを、わりとダサい感じで言い募ってきた人間の歴史もあるわけなんだと思うんですが(笑)。まあ、そうとでも言ってないとやりきれないみたいなところがあったということなんだと思うんですが、そんなことをあえて言わずにすむような、お金が中心じゃない価値観が今後立ち上がってくる、もしくは立ち上がってきている、ということですよね?

佐藤:そうですね。そういう意味では、ゆっくりそうなりつつあるんじゃないかなと思っています。今、就職する人たちも、必ずしもお金で選ぶかというと、そうでもない人たちも増えてるのではないでしょうか?

あとは、昔だったら「官僚になるぞ」みたいな人たちも、NPOにいったり、自分で事業やったりとか。ここ20~30年でいくと、けっこう判断基軸がお金以外での選択が増えてるなという気がしています。

若林:その変化は、なにがきっかけで起きてるんでしょう? もちろんいろんな理由があるんでしょうけれど。

佐藤:価値判断の基軸が多様化して、インターネットができたことによって、いろんな情報に触れられるようになったというのがあるんじゃないかなと考えています。

日本に限ればですけれども、もう1つは、経済の成長が頭打ちになったのが大きいような気がしますね。

たぶんイケイケドンドンの時代って、「今日よりも明日がいい」ということをみんなが信じているので、今の価値観を疑う必要はなかったじゃないですか。ただ、やっぱりもう伸びないってわかっちゃうと、「この価値観を捨てて違う価値観を新しく獲得しないといけない時代だろうか」と人々が思い始めますよね。

それが1990年代ぐらいから始まったんじゃないかなと思っています。1970・1980年代ってもうちょっと一体感あったんじゃないかなという気はしています。私はわからないですけど。

自分のやりたいことをシステムが見つけてくれる時代

若林:なるほど。確かにそうですね。でも、そうだとすると世の中的にはけっこう困るところもあるんでしょうね。つまり、成長することがミッションであり、ある種の生きがいだと思って生きてきた世の中が、「あれ、違うの?」みたいな感じになるって、これはけっこう大変な事態ですよね。

佐藤:大変ですよね。今まで考える必要がなかったことを考えなきゃいけない、ということですもんね。

若林:例えばどういうことを考えなきゃならなくなるんでしょう?

佐藤:「自分らしさ」って昔なかった概念じゃないですか? 100年前とか200年前って自分らしさなんか考える余裕もなかったですし、議論する場もなかったと思うんですけども。

自分ってどういう価値観をもっていて、誰と仲良くするかというのも、誰も教えてくれないとなったら、ゼロから自分で情報収集して、それでいろんな試行錯誤して、ということをやらなきゃいけないので、相当負荷は増えますよね。

若林:近代社会のわりと便利だったところは、とりあえず制度にちゃんと乗っかっていれば、そこそこそのなかで生きていけるということがあったわけですよね。

学校とか会社とか、そういう制度のなかにとりあえず収まって、そのなかにいれば自動的に次のステップへと連れて行ってくれるという。でも、それが、いまや学校も会社も、もはやそういうふうには支えてくれないという感じはありますよね。

佐藤:昔はちゃんと目に見えるかたちで報酬が返ってきたじゃないですか。今は返ってこないことが多いですよね。学歴とかも典型だと思うんです。

若林:そうすると、じゃあ、そこから外れて自分で考えないといけないということにやっぱりなってくるということなんですよね?

佐藤:はい。

若林:そのときに、「データ」というものは、今言っているお話とどういうふうに絡み合ってくるんでしょう?

佐藤:過去の情報を分析していって、自分のほしいものとか自分のやりたいことの選択肢をシステムが見つけてきてくれるという時代は近いんじゃないかと思っています。これは危険な面もあるんですけれども。

やっぱり情報を見つけられる、情報に触れられるというリテラシーが、将来的な自分の人生をけっこう分けてしまうと考えています。そこをテクノロジーがある程度代替してくれれば、情報格差っていうんですかね、プラスそれが経済格差でもあるんですけれども、そこをもう少し埋められる可能性もあります。

あとは、セレンディピティ(serendipity)みたいな、偶然の発見ですよね。そこの機会が失われる可能性もありますし。諸刃の剣だなとは思っていますね。

データに頼るデメリット

若林:なるほど。データって僕はおもしろいし好きだなって思う反面、データをブンブン解析して「レコメンドエンジン」とか言われると、「お前に俺のなにがわかるんだ」という気になるタイプなんですよ(笑)。

今おっしゃった、データというものの諸刃の剣である部分っていうのを、もう少し聞かせていただいていいでしょうか?

佐藤:例えば、私たちが事業でやっている広告ですと、レコメンデーションで過去の履歴からどんどん成果の高いものだけをおすすめしていくようになると、途中まではぜんぜんいいんですよね。CTRとかCPRが上がっていて。でも一定期間経つと、どんどん効果が下がっていくんですよね。

逆に、ここからなにをしなきゃいけなくなるかというと、マスメディアとか、今までまったく興味がなかった人たちに当てにいくということが必要になってくるんですよね。

なので、興味のない人に対して興味を喚起するというのはすごく苦手ですし。

あとは情報としてとれないような意識ですよね。実は興味あったんだけれども、行動には出ていないという人たちもいっぱいいる。そこは拾いきれないので、そこをマッチングするような仕組みというのは現状だとなかなか難しいなと思っています。

若林:現状では難しくても、この先どこかの未来では、そういうことも可能になってくるんですか?

佐藤:例えば、脳みそにチップかなんかを埋め込んで、完全に脳波まで全部計測して収集して、というところまでいけば可能だと思うんですけれども、現状だとデータが足りなすぎて、今目の前にある不完全なデータだけでロジックを組んでいくと、やっぱり間違いが起きちゃいますよね。

人工知能や機械学習そのものが世の中にデメリットを与えるというよりは、どちらかというとむしろ、情報がないにもかかわらず無理やりロジックをつくって、それを実装してしまうことによるデメリットというのが起きてくるんじゃないかな、という気がしますね。

若林:なるほど。レコメンディング嫌いとしては、要するに「自分が好きな音楽だけ集めてこられてもぜんぜん楽しくない」みたいなことがあって。むしろ、音楽聞いてておもしろいのって、「これ、なんじゃ?」って思ったものが体感的に理解されていくところにあったりするわけですよね。

データってある種の予測可能性みたいなものを実現するものだと思うんですけど、そこに全部すっぽり収まってるものというのは基本的に退屈だと思うんですよ。そうでないものがやっぱり入ってないと。

全部が予測できる恋人とかってマジつまんないじゃないですか。やっぱり「えー! そんなことするの!?」みたいなことがあって、おもしろいと思ったりするものだろうなという気はするし。

要するに、自分に対する「近さ」みたいなことってある種の計測は可能なのかもしれないけど、「遠さ」って、実は物事においてはけっこう重要だろうなという気はしたりして。それって自分でもよくわからないじゃないですか。そういうものをデータとかでどう捕まえていくかというのには興味があるんですけどね。

顕在化しない情報をどう扱うのか

佐藤:間接評価の部分ですよね。アトリビューションというんですかね。一見関係なさそうに見えるんだけども、実は相当寄与してましたっていう。紙媒体とか、そういうところですよね。

若林:そうそう。佐藤さんにはちょっとお話ししたんですけど、僕らはメディアでプリント版を出していて、Webもやってます。で、Webでの認知ってものすごい限界があるというか、どんどん袋小路に入っていく感覚がわりとあるんです。

一方で、例えば電車の吊り広告みたいなものってあるじゃないですか。僕もある時期までは「いいよ、電車の吊り広告なんて。そんなのは滅ぶべきメディアだ」と思ってたんですけど、ここ数年は「いや、実はけっこう意味あるな」と思って。

それは、自分とまったく関係ない人たちが見ていて、それを見ているなかで自分が見ている、ということのある種の価値というか重さみたいなものなんですね、おそらく。

「情報が社会性をもつ」という言い方を自分はしてるんですけど。それって、単純に直接的に情報が届いてるということだけでは情報の価値は策定されなくて、もうちょっと「知らない人たちのなかで、それがどう流通してるか」ということが、受け手にとって実は重大な意味を持つ、みたいなことをわりと考えたりはするんですよね。

佐藤:顕在化してないデータですよね。「みんな知ってる」という、その雰囲気のデータですよね。

若林:そうそう。だから、それをどう特定していくとか、数値化……できるのか知らないですけど、そこはなかなかやっぱり厄介だなと思います。

つまり、情報と自分というのは必ずしも1対1でやり取りをしていなくて。そこにはもうちょっと顕在化しない情報が含まれるんだろうなあ、という感じを持ちますね。

佐藤:やっぱりレコメンデーションをやっていって行き詰まると、マスに出ますもんね。それが戦略的にも正しかったりしますし。

「みんなが知ってる」という可視化できないところのデータが取れるようになれば、もしかしたらもうちょっと、こちらが思ってないような手をシステム側がレコメンドしてくることもあるかもしれないですね。

若林:そうですよね。だから、この間のオリンピックを見てても、やっぱりテレビの力って改めて圧倒的に強いなと感じて。それがソーシャルメディアなんかでさらに増幅される感じはけっこうあります。

別に「マスメディアってやっぱり重要だよね」ってなことを反動として言いたいわけではないんですけど、「人が情報というものをどう摂取していくのか?」というのは、やっぱり一筋縄ではいかないなという感じはありますね。

「成長し続けなきゃいけない」は思い込みだった

佐藤:というよりも、役割が違うんでしょうね。マスメディアといわゆるインターネットってけっこう競合・対立で語られることが多いじゃないですか。おそらくは人に与える影響という意味ではぜんぜん役割が違っていて。

ネットはどんどんパーソナライズしていって、自分のパーソナルアシスタントみたいな役割になってきましたし、一方でマスメディアは、昔でいうと広場ですよね。「全員が見てる」という前提での場になってきましたし。

「広場」と「自分の個室」みたいなイメージで、相当役割が違うんだけれども、そこを対立軸で語ってしまうがゆえにけっこう間違いが起きちゃうんだろうなと。

若林:本当にそうですね。ところで、さっきの資本主義みたいな話に戻すと、「これから成長はあんまりしない世の中になっていっちゃいます」みたいなことは、佐藤さん的には良いことなんですか? どう思われます?

佐藤:まあ、良し悪し語るのはけっこう難しいとは思うんですけども、そもそも「右肩上がりに成長し続けなきゃいけないよね」ということ自体が思い込みだったんじゃないかなと。つまり、産業革命の時にできた思想であって、昔から人間が信じてきたものとか、自然の仕組みとはまた違うものだったんじゃないかなと思います。

私たちはそれを疑わないじゃないですか。「成長は善であって、衰退は悪だ」って思ってますけれども、それは思い込みでしかなくて。もしかしたらこの100年ぐらいに、その共同幻想が解けるときがくるんじゃないかなと思っています。

若林:それが解けたほうがいいというのは、一応の考え方としてあったりします?

佐藤:どっちもどっちですかね。解けないほうがいいときもありますよね。

若林:それは例えばどういうときでしょう?

佐藤:例えば共同幻想って社会を一応守ってるじゃないですか? 幻想があるがゆえにみんな1つのシステムのなかで生きているのであって、全員が夢から覚めたら、システムが崩壊してしまう。ある意味ではコミュニティを維持するという機能ではすごく重要だと思うんですよね。

典型的なものはお金。やっぱり札束って、アフリカの住民が見てもなんの価値も感じない。本当は価値がないんです。しかし、日本人が千円札見たら価値のあるものだと思いますよね。本来はただの紙なんですけども、その場ではものすごく価値が出る。価値があると思っているがゆえに価値が出るものじゃないですか。

法律も政治も、別に外国の人にとっては興味のない意味のないことですし、その場に生きてる人たちにとってはすごく強制力のあるものです。

なので、「思い込み」や「勘違い」というのはすごく重要なものだと思っています。

若林:なるほど。