出演する作品にある、一貫したテーマ

ラリー・P・アーン学長:今回の卒業式のスピーカーは、有名で愉快な方です。私は彼について個人的な考えを持っていて、それを今から説明しようと思います。彼が多くの人に愛されていることや、どんな人に愛されているかが、それでわかると思います。

彼は著名な俳優です。代表出演作は『サンタクローズ』3部作。『トイ・ストーリー』シリーズのバズ・ライトイヤー役などでも知られています。また、元オートバイ乗りの私たち年寄りは、『団塊ボーイズ』の大ファンです。テレビドラマ『Home Improvement』、『Last Man Standing』にも出演しています。

(拍手)

『Last Man Standing』の最終回はいつでしたっけ。ああ、今週の火曜日ですね。みなさん、ぜひご覧になってくださいね。

彼の出演した最高傑作は、『ギャラクシー・クエスト』です。ちなみに、うちの義理の息子は、この映画を見て「おもしろい」と言うまで娘と結婚させてもらえませんでした。もし趣味が合わなくて、彼がこの映画をおもしろいと思わなかったら、果たしてどうなっていたのでしょうね。とにかく、すばらしい映画です。

ティムが出演する作品には一貫して1つのテーマがあります。私が彼の作品を愛するのもそのためです。

『ギャラクシー・クエスト』のキャプテン・タガートは目立ちたがりの酒呑みです。(元人気俳優だった)過去の栄光を引きずってはぼやき、ステージに立って変人のティーンエイジャーたちの前で良い格好をしたがります。ところがここである事件が勃発し、実際の戦争に巻き込まれます。危険な大戦争です。戦いのさなかで、タガートは単なるペテン師ではないことが明らかになります。「あきらめるな、降伏するな」と、ウィンストン・チャーチル顔負けのセリフを吐き、有言実行します。

この映画が良いのは、まさにこの点においてです。自分の言葉を行動に移すことで、タガートは成長します。もはや、シガーニー・ウィーバーのボディにデレデレすることはありません。そんなことはないと私は信じていますが。そしてタガートは、人気俳優だった頃とは見違えるように変化し、正義を行い仲間を尊重するのです。

内在するヒーローを体現してくれる存在

ラリー・P・アーン学長:もうおわかりですね。これは、私たちがみな望んでいる姿なのです。私たちは、善良で立派な存在となり、できることなら高貴かつ勇敢でありたいと願っています。『Last Man Standing』や『Home Improvement』のどちらでも、ティムが演じるのはおばかな役柄ですが、どこか頼れるやつでもあります。彼を頼りにしている人が彼を必要とする場面では、彼はちゃんと傍にいます。一方で、彼もまたその人々を必要としているのです。

言い換えれば、彼はわたしたちみんなに内在するヒーローを体現し、私たちを成長させてくれる存在なのです。ティム・アレン、どうぞ。

ティム・アレン:ありがとうございます。どうしよう。すばらしい紹介をされて、後に続く勇気が出ません。

(会場笑)

なんてこった。ジェニー(※ティム・アレンの妻)、今紹介された人物はいったい誰のことだと思う?いずれにせよ、連れて来られてしまったからには腹をくくりましょう。

ずっと向き合ってこなかったことに、思いを巡らせることとなったスピーチ

ティム・アレン:みなさん、こんにちは。お招きいただきありがとうございます。たいへん光栄に思います。アーン学長、ありがとうございます。教授やご家族、ご友人、寄付者のみなさん、このたびはお招きいただきありがとうございます。スペシャルゲストのパット・セイジャックもいますね。

みなさん、僕を見て「あれ誰? なんで壇上にいるの?」とお考えに違いありません。実際、このスピーチを引き受けるのをずいぶんためらいました。僕はイエスと言いましたっけ? 言った覚えがないんですが。とにかく電話がしつこかったんですよ。僕は「ちょっと考えさせて! 他に用事があるんだ! オートバイにも乗りたいし」って。

(会場笑)

今回の騒ぎで、向き合わなくてはいけなかったのにずっと向き合ってこなかったことに、思いを巡らせる羽目になりました。いずれにせよ、この場にお招きにあずかるのは、大変な名誉であることは確かです。僕のようなつまらない者が来てしまってよかったんでしょうか。

2日間この式典に参加して、卒業生のみなさんや立派なオーケストラ、学生さんたちを目の当たりにして考えが変わりました。いくつかアイデアを持って来てはいたのですが、頭をフル回転させて、何を話すか新たに考えなくてはいけなくなりました。ここはラスベガスではありませんからね。僕のスピーチライターには、大学ではくれぐれもベガスのショーみたいなパフォーマンスはしてくれるなよと釘を差されています。いや、やらせてくれよ!

(会場笑)

僕の中の一部が、「持ちネタのホイットマーミシガン州知事をやりたい!」だの、「あのスピーカーがあんなことを言うんだったら、なんで僕がこのネタをやってはいけないんだ!」だの言っては、深呼吸してますよ。

(会場笑、拍手、歓声)

やらないよ! 

ミシガン州の広告ナレーションの仕事

そういえばここはミシガン州でしたね。僕は11年間、ミシガン州観光広告のナレーターをしていました。この話はミシガン州に来た時にしかしません。この場にいるほとんどの方がミシガン州出身ではないのはわかっていますけどね。

広告ナレーションのお仕事では、スタジオスタッフや都市部のエンジニアからあれこれ指示されて、自分のプライベートゾーンから引っ張り出される羽目になりました。僕は、「僕は大物だぞ。お前さん方に言われなくても、しゃべり方くらいわかってる。まあ落ち着けって!」と。

おかげさまで、僕の大好きな、素晴らしくてゴージャスなこの州のナレーターを勤めさせていただくことができました。スタジオ入りして、こう言わされるわけです。「天国のようなビーチでミシガン州の美しい日の入りを眺めましょう。フィッシングを楽しんだり、家族とそぞろ歩きましょう」。カット2いきます。「サギノーバレーの広大な豆畑を行けば......」。

(会場笑)

ちょっと待った! このスタジオにいる人で、サギノーバレーの豆畑に実際に行ったことがある人いる? サギノーバレーの豆畑エリアに住んでる人にはまったく悪意は無いんですが、僕だったら絶対行きませんね。

(会場笑)

ベイシティに行けばリバーウォーク遊歩道がありますけど。それだってちらっと見たら通過してさっさとマキナック橋(Mackinac Bridge)に行って北へ抜けますね。

自分が演じてきたキャラクターは、決して自分自身そのものではない

さて卒業生のみなさん。人生における1つの章の締めくくりの日にお祝いを申し上げます。ヒルズデール大学2021年ご卒業のみなさんに盛大な拍手を贈ります。今日は佳き日であり、新たな章の始まりでもあります。みなさんを見ていると、僕の大学生時代を思い出します。

みなさんは僕を見て、『Last Man Standing』のマイク・バクスターだとか、『Home Improvement』のティム・テイラーだとか、『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーだと思いますよね。こういったキャラクターはすべて、僕の目標では決してありませんでした。むしろ道を踏み外した感があります。僕はこれらのキャラクターすべてであり、一方で、すべてが僕ではありません。

確かに僕は、ファミリードラマのコメディアンであり、ディズニー映画の声優であり、なぜだかわかりませんがサンタクロースでもあります。ぶっちゃけますが子どもは大嫌いです。(前列席に向かって)ごめんね。ああ、うちの子どもの一人が前列にいて、彼女が今これを聞いているんです。(前列席に向かって)愛してるよ。

(会場笑)

『サンタクローズ』への出演は、人生でも最悪の一幕でした。

ジョニー・カーソンの番組(※NBC『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』)に出たくて、繰り返し天に祈っていた時期がありました。その頃は必死でした。するとようやく『トゥナイト・ショー』には出ることができたのですが、なんと44年間務めたコメディアンとしてではなく、『Home Improvement』や『サンタクローズ』の主演俳優としてだったのです。天を呪いましたよ。子どもが大嫌いなのに、なんでこんな目に合わせるんだってね。

子ども嫌いなのに、サンタクロースの映画に出た

サンタクロースの衣装を着けてサンタクロースの映画に出たんですが、エキストラには本物の子どもを使ったんです。『ゲーム・オブ・スローンズ』に出て来るサイズの小さい人ではなくてね。法的に正確な言い回しはわかりません。なんて言えば正解なのか知らないんでね。今は言っちゃダメな言葉なんでしょう。僕はカリフォルニア共和国の住民なんでね、あそこは言ったり思ったりすることに厳しいんですよ。

(会場笑)

とにかく、僕はサンタクロースの格好をさせられて出演したんです。そうしたら、子どもはまるでネコですね。こっちが嫌がれば嫌がるほど、まとわりつく。そこで僕は楽屋でディレクターと直談判したんですよ。「がきんちょどもを僕から遠ざけてくれ、あれこれ聞かれてうるさくてかなわん」ってね。

するとディレクターは「まあ落ち着け。子どもの前で禁止用語爆弾を投下するのだけはやめてくれ。なにしろ君はサンタの格好しているんだから」って。鏡を見たらその通りなので、「うん、わかったよ」って答えたんです。

そしたら、子どもってすばらしいですね。いろんなことを僕に聞くの。ばかだからなんでしょうけどね。ねえねえ、サンタって何を食べているの?って聞くんですよ。サンタが何を食べているかなんて僕が知るか! それで「トナカイだろうよ」って答えたんです。だってそれしか思いつかなかったんですから。

(会場笑)

現在の自分の土台となる、宗教哲学の学校

さて、今回のスピーチはとてもプレッシャーが大きかったので、ネットで卒業式スピーチを一通り見たんです。どんな感じなんだろうって。そうしたら、だいたい良いスピーチには音楽がついているんです。そこで僕は考えた。何か音楽をつけられないかって。そういえば、ミシガン州カルカスカ村にポルカのバンドをやっている知り合いがいたなって。でも不適切だなあと。ほら、ドイツのあの帝国っぽいじゃないですか。

(会場笑)

だから、僕のバックでオーボエとか、ファゴットが鳴っているとみなさんで想像してください。そうしたら万事解決です。みなさんの頭の中で、ビッグバンドがここにいると想像してください。まあうまくいかないかもしれませんが。

僕に関しての話ですが、哲学が好きだったので、最初は宗教哲学の学校へ行きました。僕のスタートはそこでした。だから自分史としては、これが現在に至る土台だと言えます。

僕の人生には、他人からすれば祝福に値するとされるような幸せなことがありました。確かに、幸せなことがたくさんありました。でも一方で、不幸や失敗からも大きな影響を受けてきました。

自分の意志と運命についての話をします。僕の人生には、一貫してこれらがついて回りました。これは神の意志なのか、それとも僕の意志なのか、それとも運命だったのかといつも神に問うていました。哲学専攻の人ならば、「アプリオリ」と運命について考察するところでしょう。物理専攻の人であれば、実験をしてその両方だと思うかもしれません。だから物理を専攻したら頭がおかしくなってしまいますよ。

(会場笑)。

父親の死で一転した周囲の環境

ある悲劇が僕の人生を決定づけました。11歳の時に、父が悲劇的な死を遂げました。(※飲酒運転の車にはねられ死亡)

僕たちはコロラド州デンバーに住んでいましたが、その事故で世界がひっくり返ってしまいました。僕はデンバーの学校では人気者でしたが、母親の実家のデトロイトに引っ越しました。

1968年、デトロイトは公民権運動の暴動の最中でした。街には戦車まで出ていました。僕はわくわくして「ねえ、この街おもしろいねえ」と言いました。何が起こっているのかわかっていなかったのです。「軍隊の戦車がいるよ!戦車大好き。ここに住めばきっと楽しいよ」と。

僕はデンバーでは人気者でした。でもデトロイトの郊外に引っ越したところ、白いソックスにコンバースの靴を履いている子はひとりもいませんでした。そんな格好をしていたら、頭がおかしいと思われたのです。僕の名字はディックだし、にきび面の転校生だしで、一気に人気者からいじめられっ子に転落しました。突如、恐怖や非情、嘲笑にさらされ、常にそのただ中にいる羽目になったのです。

防衛のメカニズムから開花した、コメディの才能

そこで、現在に至るアナーキーな態度で対抗しました。うまく逃げる方法や上手に嘘をつくことを覚えました。僕は今でもそういう仕事で生計を立てていますからね。腹の中では「僕には関係無い」と思いながらも、口では「すばらしい」と嘘ぶくんです。

(会場笑)

嘘つきにはなりましたが、自分を他人よりちょっと離れた位置に置くことにより、コメディの才能が開花しました。これは、防衛のメカニズムです。チェ・ゲバラになったようなものです。それまで自分が毛嫌いしていた者になれば、革命が起きてそれまで嫌っていた者になれます。キューバを見ればわかるでしょう。

(会場笑)

こうして、それまで僕が妬んだりうらやましく思っていた者に、僕はなったのです。こうして、デトロイトで人気者に返り咲くことができました。

ところで、我ながらおもしろいなあと思うのは、いじめられっ子だった時にいつも一緒にいた連中をよく思い出すことです。ビデオ店の子や車屋の子です。倫理のクラスの子もいました。倫理ってあれですよ、立派なものです。

いずれにせよ、僕がいじめられっ子だった時に一緒にいてくれた子たちのことは決して忘れません。同窓会で母校へ行くと、一緒にいてくれた元・さえない子たちは、今や会社を経営しています。一方クラスで人気者だった子たちは、掘っ建て小屋に住んで「まあそのうち職を見つけるよ」なんて言って煙草をくゆらしています。「車工場で働いていたけど、俺は今は障害者なんだよ」と。僕は「膝は治したって言ってたじゃないか」と聞くと、彼は「片方はね。でももう片方がダメで、だから俺は今や身体障害者なんだよ」と。

ふざけてばかりいた学生時代

僕は決して良い学生ではありませんでした。いつもふざけて授業の邪魔ばかりして、そのたびに校長室に呼び出されました。授業を混乱させた罪で何度叱られたか思い出せません。でも僕は、別の見方をしていました。僕の方が教師よりもおもしろかったんです。

(会場笑い)

ある時、教師に定規で殴られました。頬にぱっくりと傷が開いてしまって、教師が謝罪しました。僕は、「先生の問題ではない」と答えました。教師が流血騒ぎを起こしても、相手のことは知ったこっちゃありません。僕が困った立場になるんです。下校途中で出会うよその子の親は、みな「いったいどうしたの?」と心配してくれましたが、家に着くと僕の母親はこう言うんですから。「あんたいったい何をやらかしたの」と。

(会場笑)

僕の母親は偉大です。子どもが9人いて、全員を立派に育て上げました、多分。しかし、ある時とても疲れてしまったんです。母親は僕に「ティム、あんた望みが高すぎるのよ」とよく言いました。「コップはね、常に半分空なのよ。公務員になるのはダメなの? 政府のために働くのなんて良いと思わない?」。僕は「いいや、やめておくよ」と言いました。

(会場笑)

何を考えるべきか示唆してくれる先生が好きだった

僕が今でも大好きな教師を、当時の僕は非常に嫌っていました。そういった教師は、ちゃんと「何か」を教えてくれた先生方です。

僕は、高校の英語のアーナー先生が大嫌いでした。しかし先生は僕に、「君にとっての『アナーキー』とは何か、きちんと説明しなさい」と言ったんです。僕がアナーキストだろうと、アメリカ政府を信頼していなかろうと、彼女は知ったこっちゃありませんでした。「とにかく、自分の立ち位置をきちんと説明しなさい」と言うんです。ふむ、なるほど。僕はとてもおもしろいと思いました。

とにかく、頭ごなしに命令する教師や教授は嫌いで、何を考えるべきか示唆してくれる先生が好きでした。名前を出すのは控えますが、大学に美術の先生がいまして、その先生は僕の描く絵が気に入らないと言うんです。

僕はその先生が大嫌いでした。僕は「先生の仕事は、何を描くかを教えることではなく、描く技法を教えることでしょう」と。両者には大きな違いがあるはずなのに、この先生はそれがわかっていませんでした。「お前の描く絵はひどい」とよく言われました。でっかい象やら何やらのくだらない画を描く先生でしたが、あの先生から僕が「美術」を学ぶことは、最後までありませんでした。

大学生の時に夢中になった、黒澤明の『七人の侍』

大学について話します。大学は大事ですよね。ここに来て、ヒルズデール大学に入ればよかったと後悔しました。こうして見ると立派な大学ですね。歴史や憲法の授業はあるし、教育レベルは高いし、教授陣も学生も一流です。なんたって、クリティカル・シンキングを推奨し討論するんですよ。しかも政府から一切の支援金を受けない大学です。すばらしいじゃないですか。

(会場歓声)

僕だったらこの大学評価ランクを最高にしますね。......嘘です。この学校へ入りたいなんて考えたこともありません。ちょっとヨイショしました。成績評価は厳し過ぎるし、人格はあまり評価してくれないし、近くにスラム街も無い。

(会場笑)

僕はもっと北のマウントプレザント市にあるセントラル・ミシガン大学に行きました。(※西ミシガン大学出身だが、最初はセントラル・ミシガン大学に入学)快適な気候で、真夏でも毎日気温がマイナス11℃でしたね。

(会場笑)

映画制作の学部があって、そこで最高の教授陣に出会いました。黒沢明の手によるすばらしい映画、『七人の侍』は知ってますか。ぜひ見てください。

僕たちはこの映画を鑑賞していたのですが、ホイーラーホールでの夕飯の時間に大幅に遅れていました。みんな、そわそわしながら映画の終盤を見ていました。終盤がね、これが良いんですよ。白黒映画で、日本の漢字でバーンとタイトルが出てね、すごく良い映画です。今でも、いろんな映画のストーリーのベースになっていますよ。

さて8人の学生が、夢中になってこの映画を見ていました。残りの学生たちは、「うわあ、夕飯を食いっぱぐれちまう」とホイーラーホールの学食にすっ飛んで行きました。そこで指導教授が映画を止めて灯りを点け、「はい、じゃあこれでおしまいにしてください。残っていた8人の君たち、後で私の所に来なさい」と言いました。

「君たちには情熱があるし、何を食わされるか知らないが、学食での夕飯も抜いて頑張ったので、修了レポートには最高点を付けて成績はAにしてあげよう」とのことでした。

かじをきる指導者が、優秀でないとどうなるかがわかった授業

その後、僕は西ミシガン大学へ行きました。史上初のカラーテレビ用スタジオができて、これがすばらしいものでした。大学のパンフレットにも大きく紹介され、学生が利用することも可能でした。でも、そんな立派な史上初のカラーテレビ用スタジオがあったにも関わらず、僕らが使っていたのは地下にある白黒テレビ用のチューブスタジオでした。なんだか変な話ですよね。

西ミシガン大学には、リンウッド・バートリー教授がいました。あとは、僕が大嫌いな英語の教授もいました。8時からの講義だったと思います。僕は遊び人で、西ミシガン大に行った理由も「遊べる大学」と聞いたからです。西ミシガン大学は、アメリカでも3本の指に入る遊べる大学として雑誌に紹介されていたんです。僕は、それが目当てで入学しました。

(会場笑)

学内で3、40年続いたという講義に出席してみると、その教授が、学生とはいかにバカであるかを熱心にしゃべっていました。ひげもじゃのスコットランド系の先生だったのですが、「大学生が書いた作文を読み上げよう。こんなもん犬も食わない。中学生が書いた文の方がまだましだ」と、前置詞だの節だのを熱心に講義していましたが、僕はほとんど覚えていません。早く講義が終わらないかなとしか考えていなかったからです。船のかじとなる指導者がボンクラだとどうなるかがわかった、最初の経験でした。

進むべき方向がわからなかった学生時代

僕はセーリングが好きで、よくヨットに乗りますが、歴史に名を残す船には、必ずかじがありますよね。単純な話です。ヨットで唯一制御できるのは、船の姿勢ですから。風も波もコントロールできません。船にかじがあるのみです。僕は、これを自分の身に置き換えて考えています。

学生の頃、僕には進むべき方向がわかりませんでした。一定の目標と言えるものがありませんでした。次に何が起こるかが見えませんでした。その点、僕はみなさんを賞賛します。もしやり直せるとしたら、僕には何らかの指針が欲しかったです。指針がない僕は、危うさと恐怖を感じていました。

16年間、僕は「共産党の権力者」から教えを受けてきました。そうなんです。僕らの世代は、共産主義で育ったんです。権力者がああしろこうしろと命令して、子どもの頃からあれを着ろ、これを食えと党の上層部から言われるわけです。高校くらいになると、民主社会主義くらいにはなりますが、依然命令され続けます。

子どもの頃は、一つひとつ学習していきますよね。単純な話です。うんていは、横棒を一つひとつ移動しながら前へ進みますよね。簡単です。それと同じです。周りの人から、あれこれ指示されます。早く服を着なさい、ほら遅刻するよとか、弟に火をつけるんじゃありませんとか。

(会場笑)

おもしろいことに、男というものは常に何かやっていないと気が済まないんです。ちょっとでも暇になると、特に男の子が考えるのはこの3語です。「これ燃えるかな?」。

(会場笑)

これが12年続くわけですよね。そして教育を受けたら、大学へ進学します。

選択の余地がない時のパラドックス

そこでやっと実生活レベルですが、自分の力で決断し始めます。洗濯して自炊して、講義に出席し、責任を学びます。この段階で「自己(エゴ)」との良好な関係ができます。アミーゴじゃないですよ、エゴですよ。

エゴは、苦痛やトラブル、法による規制を受けるまで居座り続けます。すると、エゴはやっと自分のシステムからどいてくれて、どこかに隠れてしまいます。後に残るのは、弱々しい悲しげな野郎です。「何が起こったかよくわからないんだ」と。

残った選択肢は、かなり不快なものです。少なくとも、僕にとってはそうでした。ちょっとした選択が、後々大きな影響を及ぼすことがわかりました。これにはびっくりします。

ここで先ほどのかじの話に戻りますが、ちょっとした判断でかじを切ると、とんでもない場所に連れていかれてしまいます。ソーントン・ワイルダーの言葉を引用します。「孤独の中で決断を余儀なくされると、選択できる自由を実感する。選択の自由とは、祝福すべきものである」。この大学で習ったでしょ?

ここで複雑なのが、選択肢には良いものと、その反対、つまり悪いものがありますが、哲学上のパラドックスに、「選択する余地がない場合、実はそれが選択肢なのだ」というものがあります。当時の私には、これがわかっていませんでした。

というわけで、大学を卒業した私は、この後どうしたらよいかと途方に暮れました。なぜなら、遊ぶのに忙しくて人の話に耳を傾けなかったからです。そこで、セールスの職に就くことにしました。専攻ではないんですが、儲かりそうだと思ったのです。でも良くないものを売っちゃうとまずいです。気がついたら米連邦刑務所にいました。「どこで間違ったんだろう?」と。(※コカイン所持の罪で服役)

(会場笑)

刑務所で学んだ「思いやり」

(服役した)刑務所では多くを学びました。みなさんは良家の出身でしょうから、ここで思いやりについてある教訓をお伝えしましょう。刑務所って、みなさんが思うほど恐ろしい場所ではないんですよ。

刑務所には「待機房」という、判決が下りて収監されるまで公判中の者を一時的に拘置する部屋があるんですが、そこに16人ばかり入れられるわけです。房の中央には、便器が設置されています。僕は思ったわけです。「いや、これは無理だ。この便器を使うくらいなら死んでやる」と。

(会場笑)

でも他にトイレは何も無いんです。僕は深夜まで頑張りました。「人体って、我慢していると爆発するんじゃないか」って思いましたよ。便器を使わないとどうなるかわからないという所まで頑張りました。でもとうとうあきらめて、便座に座ったんです。

そしたら、簡易ベッドから起き上がって、人が集まってくるんですよ。「ほらおいでなすった。リンチだろうか何だろうか、これは何をされるかわからないぞ」と思っていると、僕を中心に円陣ができたんです。

ところが、僕がもよおし始めると、みんな回れ右して、僕の周りに目隠しの壁を作ってくれたんですよ。思いやりは、まったく期待できない場にもちゃんとあるのだと、僕は学びました。

モラルの指針になってくれる人がいないと、誰もが「そんな人」になり得る

刑務所で学んだことがもう1つあります。「刑務所で学んだ一番大切なことは何ですか」とよく人に聞かれますが、僕はこう答えることにしています。「警官にドラッグを売るな」。それに尽きます。

(会場笑)

ズルいと思いませんか? 今は(ドラッグはアメリカでは)合法じゃないですか。「健康に良い」なんて言ってますよね。合法ってどういうことですか。オバマ元大統領が言ってましたよね。僕は覚えてますよ。そこだけ強調してツイートしたら炎上しましたけどね。世の中何を言ったらダメなのかわかりませんね。

アイオワの人がこう言っていました。「『フェア』って言ったらおめえ、ブタを出品してリボンのついたメダルをもらう所だべ」と。(※fairとは、「公正」の意味の他にも、「農業祭」という意味もある)

(会場笑い)

僕の前科を知らない善良な人は、よくショックを受けます。「いや、あなたは刑務所に入るような、そんな人に見えないけどねえ」って。これだけは言っておきます。誰でもみな、「そんな人」になり得ます。

チャンスをもらえなかったり、かじが無いと、「そんな人」になります。要は選択肢の問題なんです。正しい道はこっちだよと言ってもらえないとダメです。僕には、適切な指導者や決断を指導してくれる人がいませんでした。モラルの指針となってくれる人がいませんでした。小さい頃からずっと教会に通ってはいたんですけどね。もっとも、いまいち理解はしていませんでしたが。