指揮者がCEOならば、コンサートマスターはCOOである
鈴木優人氏:そして、「オーケストラに存在するヒエラルキー」も、今日ご紹介しておきたいです。
オーケストラの中には、かなり明確にヒエラルキーがあります。例えば、ヴァイオリンのトップに座っている、指揮者のここ(左前)に座っている人がコンサートマスターです。
この人はチューニングの裏を取ったりするだけじゃなく、オーケストラ全体に対して一番大きな責任を持っている人です。指揮者よりも強いかもしれないぐらい。もし指揮者がCEOなら、コンサートマスターはCOOですね。
オペレーションのトップなので、例えばリハーサルで、「この指揮者の言っていることが間違っている」と思ったら、彼は指揮者に対して物言いを付けることができます。あるいはオーケストラのメンバーに対して、「そこ、ちょっと遅いから気を付けろ」ということもできますし、あらゆる意味で監督権を持っているのが、コンサートマスターです。
ヴァイオリンのチームはワンチームなんですけれども、その中にはプルトというものがありまして、1つの楽譜を2人で見ている、その表と裏がいます。お客さんに遠い側の人を「裏」と言うんですけれども、譜めくりをするのは裏に座っている人です。お客さんに近いほうに座っている人は弾き続けて、遠い人が譜めくりをします。
どっちが偉いとかではないんですが、楽譜が2台に分かれるところでは、上を引いて下を弾くとかそういう役割分担があります。さらに1列、2列、3列。プルト、2プル、3プル、4プルというふうに並んでいて、管楽器も1番の奏者、2番の奏者と、首席奏者の組み合わせで並んでいます。
オーケストラは組織のヒエラルキーが一定ではない
ここで、例えば先ほどの職業オーケストラ。読響(読売日本交響楽団)のようなケースですと、首席奏者はいろんなプレイヤーが属していて、フルートやオーボエなどにだいたい2人ずつはいるんですね。ヨーロッパのもっと大きなオケになると、首席奏者がホルンに4人いるよとか、ファゴットに3人いるよとか、そういうオケも珍しくありません。
そうすると同じ(団体の)名前でありながら、ぜんぜん違う人が出てくるわけですね。私もこの間読響に振りに行きましたが、次また行った時に、前回(と同じ組み合わせ)の人がいることはほぼないですね。
その組み合わせは、同じオケであっても全員が同じメンバー構成で弾くことは、本当に何兆、何京、何垓分の1しかなくて、毎回ちょっとずつ違う組織になっているんです。それがみんな、あらゆる組織のオーケストラの中で、パートのヒエラルキーの中で仕事をするということですね。
だいたいのオーケストラでは、例えば1番奏者は1番しか吹かないんですけれども、地方のオケは特に人数が少ないこともあって、例えばオーボエの1番と2番が、前半と後半で入れ替わるオーケストラもあります。
これはすごくフレンドリーで平等なようで、ちょっとこっち(指揮者)としては困る面でもあるんですよね。組織のヒエラルキーが、その演奏会の間、一定でない。そこに留意して指揮をしなきゃいけないということになります。
メンバーがずっと同じヒエラルキーで続いていくことがいいのか、悪いのか。そこはまさに採用人事の問題と同じですね。
職業オーケストラの採用率が低いのは「組織を守る」仕組み
ちなみにプロの職業オーケストラの採用率は著しく低いと思います。=オーディション、つまり採用面接を開いて、1人も取らないということはしょっちゅうです。例えばオーボエにもうすぐ定年になる奏者がいて、1人募集が掛かりました。100人来ましたが、誰も取りません。そういうことはしょっちゅうあります。
だいたい3次面接くらいまであります。1次の前に書類もあるのかな。1次演奏をパートの人が聴いて、応募者の半分以上が落ちて、2次演奏を全員で聴いて、3次演奏はオーケストラの中に入ります。ここまできたらかなりすごいです。
その3次試験も半年くらいの期間をかけて、オーケストラの中で一緒に吹いてみたりして、聴いてみたりします。僕はオーケストラに属したことがないので、ちょっと同情しちゃうくらいなんですが、それでも容赦なくバツが付くんです。
これは「組織を守る」ということにつながります。一旦入れたら辞められないというのもありますが、なかなかガードが固いんですね。これは過去のいろんな反省からきっとそうなっているので、その仕組み自体が正しい・正しくないということを言うつもりはないんですけれども。
「その状況において正解なやり方」を組織が選んでいる
1例として紹介したいんですが、私が客員教授をしている九州大学の九大フィル(九大フィルハーモニーオーケストラ)という、学生のアマチュアのオーケストラがあります。ここのオーケストラはアマチュアで、私もかなり日程も過密になってきて、学生の演奏の練習に行くための時間がなかなか取りづらくなってきています。しかし、すごくおもしろみを感じてやっているのも事実です。
学生のオーケストラで、しかも九大生は非常に真面目なので、学部の3年から就活をせっせと始めるんですね。あるいは大学院進学の勉強を始めるので、3年生でだいたい引退するんです。オーケストラとして新陳代謝が激し過ぎるんです。
なかなか人が入りづらい、本当に優秀な人だけが入れる職業オーケストラと、九大フィルのような強制的に人が入れ替わっていく組織の両方を指揮していると、本当にさまざまな点で新鮮な学びがあるんですね。
私は中間点というか、バッハ・コレギウム・ジャパンという、すべてのプロジェクトに最適な人を選んで、毎回お願いして弾いていただくというスタイルのオーケストラもやっているので。結局これらは、どれも言ってみれば「その状況において正解なやり方」を組織が選んでいるんです。でもそこに指揮に行く人間としては、ぜんぜん違ったやり方が、そこに存在することになります。
オーケストラの「新陳代謝」と「伝統」
九大フィルの場合、例えば2年前に九大フィルのみんなに「ブルックナーのリズムの二拍三連の取り方」を伝えたとしても、もしまた来年ブルックナーをやるとしたら、きっと同じことをもう1回言わなきゃいけないでしょう。彼らは大学生なので、逆に学ぶのも速い。学ぼうという気持ちもある。そういった新陳代謝の速さにふさわしい、速い学びのスピードがあるんですね。
逆に、職業オーケストラは長年の伝統があって、非常に強い演奏の結束があります。ニコラウス・アーノンクールという指揮者がいて、このアーノンクールさんは古楽の演奏の第一人者で、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスという楽団を自分で主宰していました。
あるインタビュアーが、「バッハを演奏するとして、モダンのオーケストラ(例えばウィーン・フィルハーモニー交響楽団)とオリジナル楽器のオーケストラ(例えばウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)どちらで演奏したいですか?」という、無理難題な質問をしたんですね。ちなみに質問者は私の父なんですけど(笑)。『音楽の友』の取材で、それをわざわざ聞いてみたそうです。
そしたら、彼の答えは非常に明瞭で、しかも同意できるなと思ったんですが......「もしバッハを演奏する時には、私は必ず音楽的にはオリジナル楽器を選ぶ。バッハの見ていたであろう楽器で演奏するべきだと思っている」。これは絶対に揺るぎがないんだけれども。
一方で「ウィーン・フィルの伝統は絶対にお金で買えないもの。そこにいる人たちのことを集めることは可能だったとしても、ウィーン・フィルハーモニー交響楽団という歴史は買えない」と。
若干、答えに逃げている感じもありますけれども、でもこの「新陳代謝」と「伝統」ですね。これのどちらが正解なのか。もしかしたらバッハ・コレギウム・ジャパンのスタイルは、九大フィルよりも新陳代謝が速いのかもしれないです。なにしろ毎回プロジェクトごとに奏者を選んでいるから。
指揮者がリーダーシップを発揮する上での「成り立ちを知る」重要性
私はいろんな現場のいろんなプロジェクトに行って、指揮をするたびに、その組織は同じように人が座っているんですけれども、ぜんぜん違う構成になっている。その成り立ちを知ることが、私にとってはリーダーシップを発揮する上でのファクターになります。
最初はもちろん音を出して、その音だけで判断していけるんですけれども、長くリハーサルに付き合えば付き合うほど、「ああ、こういうことだからこうなのか」という気づきがたくさん出てきます。
この間のドイツでの公演が実際にそうだったんです。トランペットが「今日になって妙に慣れていない感じがするな」と思ったら、「昨日コロナで陽性になっちゃって、そこだけ入れ替えになっていました。ごめんなさい。言っていませんでした」と。僕もあまり視力がよくないので、遠くにいるトランペットはよく見えないんですよね(笑)。
だから、「そう言えば昨日の人は金髪の人で、今日は白髪のおじいさんが吹いていたな」ということがけっこうあるんですよね。ドイツのハンブルク響だったので、客演で1回だけだから、そこまで知る必要がなかったかもしれないんですが、そういったことはけっこうあります。
オーケストラの経済的報酬と文化的報酬
あとオーケストラのチームビルディングというところで、先ほどからフリーランスの話をしています。ちょっと言葉遣いを迷ったんですけれども、「経済的報酬と文化的報酬!?」ということで、これはクエスチョンマーク付きなんですが。
音楽家って音楽を愛しすぎてるので、タダでも弾きたいんですよ。バッハの譜面がここにあったら、もう無料で弾いてしまう。でもプロだから安易にやっちゃいけない。でも音楽が好きだからやっぱり弾きたい、という葛藤があったりします。「そんなアマちゃんな気持ちはありません」という音楽家も、きっといらっしゃると思いますけれども。
オーケストラのみんなにとっては、先ほどみなさんがブレスをしてくださったように、大勢が同時に息を吸ったり、同時にメロディーを始めて同時に曲を終わるという、この一体感と感動があるんです。を「文化的報酬」と言っていいのかわかりませんが、心に潤いが返ってくるんですね。
これはどんなボーナスよりも多い見返りです。(経済的報酬として)ボーナスは毎回決まった時期にもらえるんですけど、この文化的報酬は何年に1回来るかわからないものなんですよね。特に職業オーケストラに勤めていらっしゃるプレイヤーにとっては、なかなか得にくいものかもしれません。
オケのプレイヤーから見たら、自分が頼んでいない指揮者が来て、自分が頼んでいない曲を吹かされて、いろいろ文句を言われる現場かもしれません。プロ経営者が来たような、M&Aで(買収されて不本意な状態に陥った)会社の社員のような心境かもしれません。
いきなり部長が変わって、いきなり「Slackを入れろ」とか言われて、「なんだこりゃ」みたいなこともあるかもしれません。でもその結果プロジェクトが成功した時とかには、達成感などの文化的報酬があるわけです。ビジネスでもそういった気持ちはあると思うんですが、その間を埋めていくために、経済的報酬が当然定期的に必要なんです。
バッハ・コレギウム・ジャパンもそうです。決してバッハ・コレギウム・ジャパンの各々の出演料が、めちゃくちゃ高いとは言えないと思います。その価値を上げていくのが僕の目標というか、日々やるべき仕事の1つなんですけれども、でもそれだけでなくて、ちゃんとそこに属していて演奏したことによる満足感という見返り。
これに勝るチームビルディングはないなと、音楽においては思います。みなさんの職場において、それが何かというのは、みなさんぜひ考えていただきたいと思います。お金でない何かというのも、必ず存在していると思います。
「クラシック音楽」は存在しない?
続いて、(今日の講義の告知に)「クラシック音楽とは。その未来について語ります」と書いてあったので、語らなきゃなぁと思ってこのスライドを作りました。まず「そんなものは存在しない!?」と書いてあるんですけれども、“クラシック音楽”というものは存在しないと思うんですね。
「クラシック」という言葉自体は「古典的な」という意味で、古くなったものを指す言葉です。今クラシック音楽と呼ばれているものを「クラシック音楽」と指すこと自体は問題ないかもしれませんが、今、クラシック音楽における新しい音楽というのもたくさん生まれています。
今、生きている作曲家がいます。一昨日も新しい作曲家の作品を演奏しました。その時にみなさん「私はクラシック音楽を書いておりますの」という人は、ほとんどいらっしゃいません。みなさんチャレンジ精神で曲を書いているんですね。
ベートーベンもメンデルスゾーンもリヒャルト・シュトラウスも、みんなチャレンジ精神で譜面を書いてきました。今では総称して「クラシック音楽」と言われるんですが、私自身も「クラシック音楽家です」と名乗ることはほぼありません。
結果的に先程の「(クラシック音楽の)未来」という文章自体、私にとっては若干矛盾していると思うんです。「社会とともに歩む芸術」というのは、この間の音楽祭をやって特に思ったことで、やはり街があったり、この時代があったりすることは否定はできないわけですよね。
それに対して掲げる理想があったりして、例えば今度、ショスタコーヴィチの5番のシンフォニーを演奏しますけれども、彼がどういう思いであんな曲を書いたのか。それはその社会、その瞬間に生きていないとわからなかったことがたくさんあると思います。
社会とともに荒波に揉まれる音楽
今、ロシアの戦争が始まってから、ヨーロッパでたくさんの(ショスタコーヴィチの作ったような)ロシア音楽がプログラムから外されました。そういった「社会とともに荒波に揉まれる音楽」もあります。そのうちの一部は正しくない判断だと思いますけれども、一方で、そうやって揉まれていく事実があるということですよね。
ちなみに、今度ショスタコーヴィチをやるのは、9月3日の九大フィルの東京公演なんですけど、やはり九大の同窓会のみなさんがすごく心配をして、「こんな時にロシア音楽をやって大丈夫なんですか」という質問を送ってくれました。この質問自体、まず間違っていると思ったんですが、これは演奏する本人が決めることですよね。
「この音楽をやるのは間違っている」と思いながら演奏するのが、一番間違っていることです。「私は、今、ショスタコーヴィチの音楽を演奏することに確信がある。これはやりましょう。それに賛同しない人は、もちろんやらなくてもけっこう」という、なかなか熱い議論がありました。
そしてスライドに「分岐した音楽の統合は可能か」と書いたのは、次の「消費される音楽」というところと似ていますが、音楽の存在の仕方も非常に大きく分岐しています。このクラシック音楽でいうと、サントリーホールで優雅に聴くモーツァルトの音楽だけではなく、いろんなところに存在していまして、駅に行って電車に乗るまでに、たくさんの音楽が聴こえてくると思います。
それはそもそも音楽なのかということもあるし、いろんな音が鳴っているこの社会において、「クラシック音楽」という枠を1回考え直すことは、私は不可欠じゃないかと思っています。
この無限に多様化していく流れは、ある意味では止められないし、止める必要はないと思っています。その中の一定の法則というか、そこが本当に多種多様の在り方を認められる社会なんじゃないかなと思います。
1人でも「出会い」があれば、音楽は残る
「消費される音楽」。これは流行り廃りということですね。私は「クラシック音楽が廃れることはない」と言ったんですが、古いバッハのカンタータをやっていますと、有名じゃない(別の作曲家の)カンタータに出会って、「そう言えばあの曲は素晴らしい曲だったな」とか、改めてやってみてすごい曲だなとか、常に出会いがあります。私は、そういう音楽に1人でも出会っていたら、その音楽は残るだろう(と考えています)。
もう消費の文化もしばらく止められないでしょう。クラシック音楽ですら、みなさんサブスクで聴く世界だと思いますから。そういった消費の仕方は、ある意味で変えられないかもしれませんが、「こんな音楽に出会った」という一つひとつの出来事を紡いでいきたいなと思っています。
これちょっとメモみたいなものです。「医学的効能の証明」、誰かしてくれないかなと思っていることです。これはリーダーシップとぜんぜん関係ないんですけど。(例えば単純な例で言うと)「クラシック音楽を聴くと頭がよくなる」とか。そういう触れ言葉自体はよく聞きますよね。
実際に私は、バッハの音楽を聴いたあとと前では、精神状態が絶対に違います。自分としては違うんです。そのへんを証明できたらいいなと、「未来」につなげて考えてみました。
クラシック音楽産業の「自立した経済構造」を考える
続いて「経済的な循環構造」について、これに関して私の夢としては、クラシック音楽にも1つくらい大きなファンドがあってもいいんじゃないかと思うんですね。公的な助成金は「音楽を助けてあげる」という目線のもので、実際にたくさん助けられていますし、そういった文化をサポートする姿勢は、1つ必要だと思います。でもそれだけではなくて、少し自立した経済構造にできないものかなと。
聞いた話で、日本のクラシック音楽の産業規模は、800億円なんだそうですね。これはコロナでだいぶ減ったんじゃないかと思います。この800億円をどう見るかですが、某有名パン屋さんの年間売上より少ないんですよね。結局、音楽的な見返りでやっているけれども、やはり経済的に回っていく構造を、もう少しみんなで、音楽をやっている人も含めて考えていきたい。
最後に「新しい聴取環境には無限の可能性がある?」と。これは最近、AIの会社の方と話していて考えたことです。ちょっとした音響の変化もそうなんですよ。例えば最近、逆にレコードを愛する人が増えてきたとか、あるいは3Dステレオですね。ドルビーアトモスとか、イヤホンなのに3Dに聴こえる音楽のテクニックとか環境もそうです。
コロナで私がすごく思ったことで、「ホールに行かなくてもホールで聴いているような環境を作る」ということは、実はコロナだけではなくて、寝たきりで動けない方とか、子どもたちとか、そういったあらゆる環境の人たちが、好きな音楽に出会える環境を作れるんじゃないか。むしろ今のIT技術やさまざまな新しいテクニックを駆使すれば、すごい可能性があるんじゃないかなと思っていて、そういったところにどんどん目を向けたいなと思っております。
ということで、マネジメントとリーダーシップは、音楽の現場では常に起こっていることなので、そこから少しでもみなさんのヒントになることがあればいいなと思ってお話しました。