「やり通す力」は幼児期に養われる

安渕聖司氏(以下、安渕):2番目のテーマの非認知能力。やり抜く力とか好奇心を持つ、関心を掻き立てるといった部分はどうでしょう? 続いて高濱さんから。

高濱正伸氏(以下、高濱):結局は、親も先生も今はプログラミングをやらせたい。国を挙げて大人たちが願っています。ところが現実には、やる気を失った5年生はそれ以上やらなくなるということ。この壁なんですよ。

やはり、やる気や集中力とかやり通す力、そういうことこそが勝負です。それはいつ育つかというと、エビデンスは中室さんにお任せしますが(笑)、幼児期にほぼほぼ決まっているというのが現場で見た僕の感覚でした。教育現場では、小学校5〜6年生になると急に難しくなるんですよ。

不可能じゃないんですよ。めちゃくちゃ魅力的な1人のメンターとの出会いで劇的にとか、お父さんが亡くなるなどの衝撃を受けて入れ変わる、というケースはあるけれど、一般的には人格形成の第1期みたいなのが3〜4年生のころになります。

それまでに、何かに没頭した経験や、やる気を持ったとか、誰かに役立ってすごく喜んでもらえたとか、そういう豊かな経験総量がないと、そこから先ってなかなか変わらないなと。

そこに目をつけて、私の場合は思考力の『なぞペー』『Think!Think!』みたいなものを作ったりしました。あとは野外体験。これを話すと長くなるので簡単に言いますと(笑)、外を走り回る経験が一番……。

要するにサッカーをしてパスして、こちらに回り込んでいるときっていうのは、パスして、コンコンって補助線が見えているから、こっちに回るわけです。その補助線が浮かぶ訓練というのは、サッカーの中にこそあるではないか的なことですよ。

遊びのなかで一番いい頭の使い方って、なにもない野原に秘密基地を作ることなんです。なぜかというと、答のないところに「俺こうやって作ろ~」と考えて、あとは作り切るわけですね。「どこかから丸太を持ってくるしかねぇ。あそこにあった、持ってこようぜ!」みたいな。

親という関数を変えないと教育を手掛けるのは無理

高濱:クリエイティブな遊びの中にすべてがあるのに、今は公園でなにかやってると「この公園で大声を出さないでください」とか、「この公園でボール遊びをしないでください」とか禁止事項だらけなんですよ。

頭でっかちな訴訟屋さんたちが、ワーワーワーワー言うと「うるさい! うるさい!」って。自分が幼稚園の横にあとから引っ越して来て、うるさいって言う人が勝つ時代なんですよね。本質が見失われているんですよ!

子どもの大声とか、子どもの集中とか遊びこそが、我々の次の時代の核心なのに、なんでそこが認められないのかなと。仕方ないので、わざわざ夏休みに野外に7,000〜8,000人を連れていってるわけですよね。なんにもない野原、なんにもない海、なんにもない河原で遊ばせる。今は、そんなことが商品になっちゃってるけど、本来、子どもたちはそういう遊びをすべきで、今は失われているのでやっています。

そして、ここが大きいのですが、結局、親という関数を変えないと、教育を手掛けるのは無理だと早々に気づきました。今、会社で僕は9割を親の対応に使ってます。

とにかく、お母さんがハッピーになってニコニコになって肯定的にね。お母さんががんばり屋さんで、本もすごく読んでるみたいな文化性があったら、子どもはたいがい育っちゃうんですよね。

背景にある親を変えずに議論していても、子どもをよりよく育てるのは難しいという現場感を持っています。親にも悪い人はいないんです。みんな追い込まれて「自分ばっかり!」と思いながら、「夫がわかってくれねぇ」みたいな孤独を解消しないと……。「また、あすか会議とか行きやがって」みたいな。

(会場笑)

安渕:「なんだ、そのあすかっていうのは!」っていうね(笑)。

高濱:「女の名前じゃねぇだろうな!」みたいな。

(会場笑)

安渕:今のは個人の感想です。

(会場笑)

高濱:(あすか会議は)すばらしい会だと思ってます(笑)。言いたかったのは夫婦の理解し合えない……恋の次。恋は神様がくれたマジックなので、そのときにちゃんと付き合えるか。恋の次、とくに子どもを産んだあとって、女の人は(生物の本能として)カーっと獰猛になるわけです。

そのときに、人と人として、チームメイトとして付き合っていくことが大切だなと。僕が現場でずーっと張り付いて見ていて見つけた、最大の課題がこの親なんです。

そこを解きほぐして、お父さんお母さんに楽になってもらうことによって、子どもたちの主体的でのびのびとした遊び、のびのびとした集中、やりきるっていう空間をなんとか作ろうと思ってやってます。

安渕:僕もよく会社でlead by exampleということを言うんです。それは例えば、お父さんがビールを飲んでテレビで野球を見ながら、子どもに「おい、宿題やれよ」って言うわけですよ。そのお父さんの姿を見て、子どもが宿題をやる気になるかどうかと。

何が必要かというと、お父さんがテレビを消して「俺も勉強しなくちゃいけないんだ」と本を出して読み始める姿。子どもは雰囲気の変化に気がつき、親を見て「勉強してみようかな」と思うっていう。親を変えるってそういうことですよね。

高濱:そのとおりです!

社会科学の分野では「非認知能力」に注目している

安渕:ということで、そこからやり抜く力という話になってくるんですね。一番最初に中室さんから、学力の経済学の中で、非認知能力というのが出てきて、それが実は子どもたちの将来を変えると。子どものときの非認知能力の獲得が将来の成功に影響することが、データとしても認められているという話があったので、そのあたりを改めてもう一度お願いします。

中室牧子氏(以下、中室):ありがとうございます。近年の経済学はさまざまな能力を、さまざまな仮定を置きながらも数値化をしています。学齢期だったり、教育の中で獲得した能力が、将来の成果にどういう影響を与えるのか、という研究をしてきているわけですね。

2000年にノーベル賞を取ったシカゴ大学のジェームズ・ヘックマンの研究以降、幼少期に質の高い幼児教育を受けたら、将来の経済的・社会的な状況が非常に良くなった、という相関関係を示した大規模な社会実験があります。以降、幼少期にきちんと非認知能力を獲得しておくと、将来の非常に長い期間に渡って有利になるという研究が注目されるようになりました。

経済学もそうですし、社会科学の分野は近年、非認知能力というものに対して非常に注目をしています。それをどのように鍛え、育てることができるかに、非常に関心があるということだと思います。

私がここで言えることとしては、1つは非認知能力の加担性について年齢的な意味で見れば、やっぱり幼少期のほうが有利になるという研究が多いということ。この点はそのとおりだと思います。ですので、高濱さんがおっしゃっている、幼少期に質の高い教育があるといいんじゃないかと思うという現場感は、実際に経済学をはじめとするさまざまな研究の中で、証明されているのではないかと思います。

ただ、ここで注意しておかなきゃいけないのは、非認知能力の加担性みたいなものが、年齢とともにどういうカーブを描くのか。確かに、こういうふうに(注:右肩下がりのジェスチャー)なるんですけど、幼児期を越えると獲得量が止まってしまうというわけではない、というのも重要なところなんです。

幼児期を過ぎるとすぐ0になるというわけではないので、年齢とともに獲得するチャンスはまだまだあるということなんですね。まあ、60代の人にあるかといわれると、そうは言えないとは思うんですけれども。

若いときであれば、成人後までは加担性があるという研究もありますので、若い人たちには多くのチャンスがあるということだと思います。

教育では認知能力と非認知能力を鍛えられる

中室:2つ目に、誤解がないように注意しておかないといけないんですけど、経済学者は、認知能力と非認知能力と分けて言います。非認知能力は、今も申し上げたように生きる力みたいなもの。性格的な特性とか、やり抜く力とか、自制心とか、勤勉性みたいなものを総称して、非認知能力と言います。

一方で、国語や数学のテストで測られるような能力を、認知能力と言います。多くの人は、この認知能力を測る学力テストというものに対して、実は強い疑問を持っていて(笑)。私もそれはよくわかります。私も学力テストが子どもの認知能力を測るベストな方法だと思っているわけではないんです。

けれども、気をつけなければいけないのは、認知能力と非認知能力というのは、まったく別の活動によって、別の鍛えられ方をするという見方は誤りだと思います。

例えば、さっきArtの話が福武さんから出ました。私の親しい共同研究者に、日本体育大学の奥村先生という方がおられて、この方は美術学の専門なんですね。奥村先生は「Artの活動というのは認知能力を鍛える意味でも、非認知能力を鍛える意味でも両方有効である」と、いつもおっしゃいます。

要するに、絵を描くということはディシジョンメイキング、意思決定の連続なので、そのことで認知能力を鍛える側面もあるし、創造性などの非認知能力を鍛える効果も、両方あるということなんです。

教育活動には、実は認知能力を鍛えるものと非認知能力を鍛えるものがあって、それが分かれているわけではなくて、その両方を鍛えるチャンスがある、ということだと思います。そのように考えると、我々が今何をすべきかというと、組み合わせやコンビネーションをどうするか、ということになると思うんですよね。

最終的には、やっぱり取捨選択などが必要になってくるんだと思います。この先必要とされる能力・資質というものを見極めながら、今のリソースアロケーションをどうするかをしっかり考えないといけないのかな、と私自身は思っております。

人間本来が持っている能力はあるのか?

安渕:福武さん、今Artの話も出ましたけど。福武さんのところはいわゆる子どもから大人まで、さらに高齢者にいたるまで幅広くやっておられます。学力だけではない世界の人たちも対象に入ってくる中でどういう意識をして組み立てというか、何をみなさんにもたらそうとしているのかについてお話しいただけますか?

福武英明氏(以下、福武):難しい質問ですね。

安渕:自由にお願いします。

福武:あ、いいですか。その話ももちろんしますけど。その前に、さっき高濱さんから幼少期のお話があって、中室先生からもあって、幼少期のあれが決定的ですって言ったあとのみんな絶望感というか。

(会場笑)

「もうやることないの!?」 っていう(笑)。そのあと中室先生から言ってもらったので、ちょっと安心したという。

安渕:すかさずフォローが入りましたね(笑)。

福武:最近思っているのが、非認知力にも関係するんですけど、人間本来が持っている能力というのは、やはり相当あるんじゃないかと。それらは蓋をさせられているだけで、それをいかに掘り起こすのかというのはけっこうおもしろいのかなと思っていて。

ちょっと話がずれちゃうんですけど、僕、最近ワクチンづいてまして。ワクチンをいっぱい受けてるんです(笑)。これどうでもいいんですけど。

ワクチンって要は体に菌を入れるわけじゃないですか。なりたくないのになんで菌を入れるんだ? って、ワクチンっておもしろいなと思ったんです。

ギリギリ少ない程度の菌を体に入れることによって、本来人間が持っている抵抗力を呼び起こすっていう、考え方がおもしろい。

例えば、最近フェイクニュースの問題がありますが、ある程度フェイクニュースみたいな存在があることで、世の中のニュースを判断する力や、本質を見抜く力が養われたりするということもあるなと。

感覚を研ぎ澄ますには「森の中を歩け」

福武:個人的には、一定量、意味のないものや、毒になるような要素をちゃんと吸収しておかないと、本来持っている能力は引き出されないのかなと思っています。

僕はふだんニュージーランドに住んでいるんですけど、よく「森の中を歩け」と言われていて(笑)。よく「都心の街中には危険が多い」と言われるけど、そんなことはなくて、森の中を歩くほうが危ないんです。

都心で、ケータイ見ながら歩く人は多いけど、道も舗装されているし、案外平気じゃないですか。一方、森の中で、ケータイとか下を見ながら歩くのって、相当危険です。ああいう大自然の中に入っているほうが、感覚が研ぎ澄まされていくんですよね。

最近は、ある程度危険な状態に身を置いておかないと感覚が鋭くならないのかなと思っているので、意図的に生活にそういう要素を入れています。

安渕:確かに。僕、6月の頭にテルアビブに行っていたんです。テルアビブで最初の日に見せられるのが、テルアビブ上空を飛ぶミサイルの動画なんです。これをいかに我が国は迎撃したかという話を、到着した日に教えてもらうんです。つまち、「我が国は危機感でできております」という話なんですね。

そうすると、とにかく意思決定も早くなるし、いろんなことができるようになる。逆に言うと、"危機感がないこと"に対する危機感ですよね。

福武:そうですね。

ディスカッションしながらの美術館巡りが流行っている

安渕:あとワクチンの話ですけども、微生物を体に入れることによって、逆に抵抗力をトレーニングするというような、微生物療法というやり方もあるんですよね。街がきれいになって、花粉症が都会の病気になったという話もありますよね。

少し異質なものとか、毒まではいかなくても、そういったものを入れていくことによって、逆に本物を見分ける力になるっていう話ですかね。

それはたぶんクリエイティビティにもつながるだろうし、問題意識にもつながるという。ありがとうございます。あと何か?

福武:あ、そんな感じで大丈夫です。

(会場笑)

ちょっと1個だけいいですか!

安渕:どうぞどうぞ。

福武:さっきのArtで、最近こんな流れがあります。Visual Thinking Strategyといって、絵の見方をどのように昇華していくかという流れが出ています。

これまでは美術の教育というと、「これはダ・ヴィンチが描いたモナリザです」と教えて、みんなでルーブルに確認しにいく、という作業が多かったと思うんです。

今は「この絵を見てどう思いますか?」というのを、ずっとディスカッションしながら美術館を回っていく、というのがトレンドになっていて。これがけっこうおもしろいんです。ぜんぜん話さなかった人が「この色を使っているということは、そのときはすごく暗い気持ちだったんじゃないですか」とか絵を見て話すんです。

そういう意見に対して、「そんなことないですよ」と言うこともない。作家がもう死んでるから、誰もわからないので(笑)。答がわからない中で、ディスカッションすることでクリエイティビティが醸成されるというのは最近多いですね。我々も美術館でいろいろそういうプログラムをやったりしていますけど、おもしろいと思います。

安渕:確かにクラシックの奏者でもそういうことを言う人がいます。「この作曲家はこの曲を作ったとき、どんな気分だったでしょう?」というのを、その作曲家がどこにいて、どういう民族であったかという史実はわかるので、その国が当時どういう状況にあったかから想像してみるんです。そういう質問を投げかける人はいますね。それによって想像力とかが養われる。そして、そこに正解はない、ということですよね。

はい、もう一言?

福武:いや、大丈夫です(笑)。