アメリカの富豪投資家ロバート・F・スミス氏が登壇

司会者:それではここで今朝の卒業式の講演者である、正式なモアハウスのメンバー、ロバート・F・スミス氏をお呼びいたしましょう。

(会場拍手)

ロバート・F・スミス氏:2019年の卒業生のみなさま。みなさまは本当に美しいですよ。まず初めに、トーマス教育運営委員会会長、教職員のみなさま、モアハウス卒業生のみなさま、素晴らしいアンジェラ・バセットさん、突出した教員のエドモンド・ゴードンさん、ご両親のみなさま、祖父母のみなさま、伯母さんに伯父さん、兄弟たちに姉妹たち、ご家族のみなさま、ご友人がた、そして何より私のクラスメイトたち、おめでとうございます。

(会場拍手)

大学を卒業するということは、人生において、感心に値する、素晴らしい達成のうちの一つです。しかし多くのご両親も成功してこられたでしょうし、ここに来られるまでにみなさん一人ひとりも努力してこられたでしょうし、ここに来るまでにみなさんも多くの助けを受けて来られたことでしょう。

私たちはみなコミュニティ・集落・チームの産物です。今日のこの瞬間にあなたが到達できるように協力してくれた方の多くは、ここに共に参加してくださっています。ですから何より、もう一度、今度は立って、後ろを向いて、私たちのコミュニティ、家族など、ここに来てあなたと一緒に祝ってくれている人たちみんなに感謝とお祝いを伝えましょう。

(会場拍手)

いいでしょう。着席してください。まだ始まったばかりで、これからスピーチが始まるんですから。

(会場笑)

これでストレッチができたでしょう。

みなさんの前にこのように立たせていただいていることは、私の人生の中で最も素晴らしい瞬間のうちの一つと言えます。この瞬間をみなさんと、また私の母、生涯における教育者、シルビア・スミス先生と共にできるのは光栄です。彼女は私の人生において最高の模範者で、今日もここに来てくれています。

(会場拍手)

「道徳的な世界の弧は正義に向かっている」

今週は、私たちにとって特別な1週間となっています。今週、私たちは3つの卒業式をお祝いします。私の姪っ子は母校のコーネル大学を卒業します。私の娘は高校を卒業し、この秋にバーナード・カレッジに進学します。私の長女のゾーイは、NYUを優秀な成績で卒業します。

彼女は私の家族の中で、大学を卒業する5世代目で、優等生の称号を得ての卒業は4世代目となります。ですから、はじめに、モアハウスの運営委員会はこんなにタイミングよくしてくれたことに感謝したいと思います。おかげですべての卒業式に出席することができます。

モアハウスは卓越性を要求し、前進するよう刺激し、アフリカ系アメリカ人男性が発展するために創立されました。私はいつも、この学校の豊かな歴史に魅了されてきました。そして、この学校に明るい未来があると信じています。モアハウスの兄弟たち、私は久しぶりにここへ戻ってまいりました。私は、彼らが教育の力とそれに伴う責任の力を理解していることを尊敬しています。

教育委員会のウィリー・ウッズ会長と私は20年来の友人ですが、彼にはこんな素晴らしいクラスをまとめてくれたことと、若者たちが前進できるように素晴らしい運営組織と教員をまとめてくれたことに関して感謝したいと思います。人間として、そして国として共に歴史を分かつ中で、モアハウスキャンパスは特別な場所と言えます。

今朝、この卒業式に来るのにみなさんが通ったブラウン・ストリートは、知性と個性と決意にあふれた男たちにより作られました。彼らは、マーティン・ルーサー・キング先生の言われた「道徳的な世界の弧は正義に向かっている」という言葉の意味を理解していました。

彼は、弧が自発的に曲がるとは言いませんでした。それは、私たちが肩を並べて正義に向かって押すことにより曲がるのです。みなさんが今日手にする卒業資格は、アメリカが提供できる最高のエリート資格のうちの一つです。

しかし、私はみなさんがこの卒業証書をただ壁に掲げるだけのもの、また現在の達成を反映するだけのものとなって欲しくはありません。この卒業証書は一つの契約です。「社会契約」です。この契約により、あなたの才能、エネルギーを注ぎ、私やあなたの立つこの基盤を築いてくれた英雄たちに誉を帰するのです。

神様は、みなさんが複雑な世の中に羽ばたいていくことをご存知です。このモアハウスに在籍している数年間の出来事を考えてみてください。「Black lives matter(黒人の命の価値)」に関する運動が起こり、多くの人たちが長きに渡り無視されてきた重要な声を支持するのを目撃しました。「Me Too 運動」により、性の平等について、私たちがまだどれだけ行動を起こさねばならないかにスポットライトが当てられるのを見ました。

また、さまざまなグループによるヘイト教義が、反省の色もなく流されているのを見てきました。地球温暖化の影響が無視できないほど深刻になってきているのも見てきました。世界では、秘密、プライバシー、職場や生活の中での知能機械のあるべき位置などの新たな問題を抱えてきました。

政治システムが、神聖な境界線である事実とフィクション、正しいことと間違ったことの間で揺れ動いているのを目撃してきました。現在の私たちは、壊れやすい世界秩序の不確実な時代に生きているのです。不確実性に関して言えば、私たちのコミュニティでは新しい問題ではありません。

アフリカ系アメリカ人への抑圧と権利を巡る歴史

みなさんのうち多くの人がそうであるように、私の家族もアメリカ合衆国の8から9世代目です。我々は、この土地に血を注いできました。汗を注いできました。体を張ってこの国を守ってきました。身体的、文化的、そして知的な分野で、この国の構造に知力や才能を注いできました。それにも関わらず、私の家族の中で安定したアメリカ市民としての権利を持っているのは、私が初めての世代となります。

(会場拍手)

考えて見てください。ほとんどのアフリカ系アメリカ人は、1865年に初めて現代のアメリカの富をもたらすプラットホーム、つまり「土地」の恩恵に少しだけ預かることとなりました。「解放黒人局」が85万エーカーの土地を元奴隷の人たちに与えることになるはずが、その計画はキャンセルされてしまいました。

その代わりにできたフリードマンの貯蓄銀行は盗まれました。原則的に、その償いもされませんでした。私たちには、南部のホームステッド法にアクセスする方法もありませんでした。それによれば、アメリカの土地の10パーセントが手数料より安く与えられていたのです。

それは、1866年の公民憲法、そしてあのアメリカ合衆国憲法第14条を経て、1868年まで続きました。その時、私の家族は実際アメリカの市民としての生得権を与えられたのです。その後、アメリカ人は社会的セーフティネットを作りました。1935年にソーシャルセキュリティプログラムを作りました。

しかし、その恩恵にあずかれないグループがあったのです。それは2つのグループの人たち、家政婦と農夫でした。それにより、66パーセントのアフリカ系アメリカ人、そして80パーセントの南部のアフリカ系アメリカ人がその恩恵にあずかれなくなりました。

それから、1954年にブラウン対教育委員会裁判により保護を受けられる法律が可決されたため、私の家族は平等な教育を受ける権利を得ることができました。その後、アメリカ合衆国憲法第15条により、私の家族はついに投票する権利を得ることができました。

南部では、このような権利は1890年から控えられてきました。抑圧状態は1965年の投票憲法が成立するまで続きました。それから半世紀以上経った今日ですら、投票箱の中立を確実なものとすることが難しい状況が続いているのです。

これらすべての、ランドマークとなる我らの権利の拡張とそれに続く抑圧は、分離を引き起こす新たなポリシーの力へと続き、強制バス通学が採用され、それは私が1年生になるまで、私のホームタウンである、コロラド州デンバーでは続いていました。

スミス氏の人生を変えた小学生の頃の経験

私の家族はデンバーの北東部に住んでいました。その頃、デンバーは他のアメリカのほとんどの都市と同様、人種により、政治的にも地理的にも極端に分離していました。私の住んでいたコミュニティでは、私の隣人たちはほとんどの人が教育を受けていて、誇りを持った働き者のやる気のある人たちでした。

彼らは歯科医、教師、政治家、弁護士、鉄道従業員、請負業者、小企業のオーナーや薬剤師などでした。彼らはアフリカ系アメリカ人のコミュニティに奉仕することに集中していて、私の近所の子どもたちが安心して生活できる環境を提供してくれていました。

彼らは公民権運動の最前線に立っていました。ベトナム戦争に息子を犠牲として差し出し、キングの死、ケネディ二人の死などを嘆きました。そんなに自分たちを与えてきたにもかかわらず、アメリカン・ドリームを完全に叶えることができずにいたのです。それでも時代が流れれば変わることができると信じてきたのです。自分の時代には叶わなかったとしても、自分の子どもたちの時代には変わるであろうと考えていたのです。

私は近所でも少数の強制バス通学(差別撤廃のために無料でバスなどの通学手段を用意する取り組み)をして街を渡り、白人たちがほとんどを占める成績の良い学校のある、デンバーの南東にある学校まで通うグループの一人でした。私たちは毎朝13番のバスに乗せられました。私は生涯それを忘れることはないでしょう。

その後、私はカーソン小学校へ行くことになり、強制バス通学は私が5年生になるときには廃止されました。私が5年生になった時、激しい反対運動が起こり、そのおかげで強制バス通学は廃止されたのです。しかし、5年間続いた強制バス通学は私の人生を非常に大きく変えました。

カーソン小学校の先生たちは非常に素晴らしい方々でした。彼らは私を受け止め、物事を批判的に考えるよう挑戦し、私のポテンシャルを引き出し、前進できるようにしてくれたのです。すると私はまだ小さかったのにもかかわらず、白人の子どもも、黒人の子どもも、ユダヤ人の子どもも、たった一人のアジア人の子どもも、みんな同じであるということに気がついたのです。

私たちがすることをサポートしてくれたのは、学校だけではありませんでした。私が住んでいたコニュニティが私たちを受け入れ、サポートしてくれたのです。私の近所に住む子どもたちの両親のほとんどは共働きだったので、毎日放課後になると、たくさんの子どもたちが歩いてブラウンさんの家へ行きました。そして、両親が仕事から戻ってくるまでそこにいました。

ブラウンさんは素晴らしい方で、私たちを安全に守り、きちんと宿題をさせ、栄養価の高いお菓子を食べさせてくれ、責任感とは何かを教えてくれました。彼女の家には非常にたくさんのさまざまな年齢の子どもたちで溢れていたので、私はそこですぐに自分の模範となってくれる人を見つけることができました。

彼らは一生懸命に勉強し、自分自身を信じていました。ブラウンさんはちょうど、初の黒人の州の副知事と結婚していました。ですから、自分たちの可能性を身近に見ることができたのです。

機会と成長という扉が開いた一瞬に、それをつかまなければならない

驚くべきことに、あの時の13番バスに乗っていた子どもたちのうち、ほとんどがプロフェッショナルの職業につきました。私は、彼らのうちの多くの人と未だに連絡を取り合っていますが、彼らは今日我々のコミュニティの礎となってくれています。

彼らはいま、役職者、医師、弁護士、エンジニア、教師、プロフェッサー、コミュニティ組織者、ビジネスリーダーとして活躍しています。同じ労働者階級から、非常に優秀な黒人男性と黒人女性が輩出されたのです。私が住んだ拡張されたコミュニティを見ると、あの13番のバスに乗らなかった子どもたちの成功率は、ずっと低かったことがわかります。その関係性を避けて通ることはできません。

私の人生のすべてはあの数年間に起こったことで大きく変わりました。しかし、私に対して扉が開かれていた期間が短かったように、他の人たちの扉もすぐに閉ざされてしまったのです。それこそがアメリカにおける黒人の物語です。機会と成功という扉が開いたその一瞬に、それをつかむのです。我々はどの世代においても、抑圧、そして法制度、その法制度の虚弱化、そして、さらなる抑圧、さらなる反発に巻き込まれ、苦しんできたのです。

近年になっても、私たちはメジャーなバリアが壊されてきているのを目の当たりにしてきました。もし未だにこのような不公正が存在していることを認めないのであれば、結果として自分たちを苦しめることになるかもしれません。

住む場所により、教育が受けられるか否かが決まるようであってはならないのです。教科書がもらえるか否かが、学校により決まるようであってはならないのです。チャンスを手にできるか否かは、あなたの勇気と創造性における、あなたの知性の力にかかっているべきなのです。

(会場拍手)

そして、努力して期待を超えるような度胸に後押しされるべきなのです。私たちは、医療研究の分野において驚くような発見をしてきましたが、未だに人種格差で健康状態が決まってしまう状況にあります。

もしあなたがアフリカ系アメリカ人女性だとしたら、白人女性に比べて、41パーセント高い確率で死亡します。もしあなたがアフリカ系アメリカ人の男性で、前立腺がんにかかったとしたら、白人男性に比べて2.3倍の確率で死亡します。もしあなたがアフリカ系アメリカ人なら、白人と比べてずっと高い確率で警察に呼び止められ、違反切符を切られるでしょう。白人よりずっと高い確率で、暴力で脅されるでしょう。それが現実です。

あなたがたは、このような世界を受け継ぐのです。私がこのようなことを述べるのは、私が苦々しい気持ちを抱いているのでも、みなさんに苦々しい気持ちになってほしいからでもありません。私はみなさんに現状を改善してほしいと願っているのです。なぜなら、私が人生の中で学んだ最も素晴らしいことは、たとえ問題に直面しようとも、アメリカは本当に素晴らしい国であるということだからです。