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そのとき、どうやって仕事を選びましたか?―今の仕事について、一回立ち止まって考えてみること(全4記事)

「ほぼ日CFO」という肩書を、世間に忘れてもらう必要があった 篠田真貴子氏が1年3ヶ月の「ジョブレス」期間に得たものとは

働く人と会社のつながりや、生きることと働くことのつながりについて考えるイベント「Lifestance EXPO」。本セッションは「そのとき、どうやって仕事を選びましたか? ―今の仕事について、一回立ち止まって考えてみること」と題し、江口宏志氏、篠田真貴子氏、幅允孝氏の3名がトークセッションを行いました。本記事では、40歳を過ぎてから蒸留家を志した江口氏と、1年3ヶ月のジョブレス期間を作った篠田氏が、それぞれ自身のキャリアを振り返ります。

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“自分の仕事に飽きること”が一番怖い

幅允孝氏(以下、幅):(篠田氏が)ほぼ日に入社される40代ぐらいのところで一度止めさせていただいて、続いて江口さんのライフラインチャートを見てみましょう。

篠田真貴子氏(以下、篠田):なんかすごく似てる。

江口宏志氏(以下、江口):チャートのカーブもコピーさせてもらったんです。

:これも丸パクリ(笑)。

篠田:(笑)。

江口:カーブは自分で書こうと思ったんだけど、「いや、待てよ。これ篠田さんと一緒だな」と思って。

篠田:本当ですか(笑)?

江口:コピーじゃなくて、僕が新たに書いたカーブもこれだったということなんだけど。

:1つだけ、真ん中の線が微妙に違いますよね。

江口:微妙に違う。

:本屋のところで落ちきっていないところとか、微妙に違いはありますね。

江口:そうですね。僕の表の見方は基本的には同じなんですが、20代、30代、40代、50代とあって、縦軸はポジティブは自分的にいけている感じ、ネガティブは僕の中では飽きているんですよね。

やっぱり「飽きる」というのはすごくキーワードで、一般的には「流行っちゃって飽きる」みたいに、世間的に飽きられることを示すことが多いのだけど、それよりもなによりも自分が飽きることが一番怖くて。そうなっちゃうと、もうどうにも戻れないというか。それをなんとかしなきゃいけないなというのが、この表なんです。

上から2段目のブルーのやつは自分の中ですごくポジティブなキーワードで、グレーの丸で囲んだものは自分の中のキーワード的なトピックという感じで書いています。

20代の時に入った会社で味わった“もどかしさ”

江口:僕は普通に大学を卒業したんですが、大学時代はずっとアウトドアが大好きで、特にスラロームカヌーをずっとやっていたんですね。

スラロームカヌーって、この間の東京オリンピックで日本人が活躍したのでだいぶ知名度は上がったけど、僕がやっていた頃は全国で競技人数が200人ぐらいで、みんなとにかくモノがない。外国の選手とかが乗っているかっこいいカヤックやパドルを日本では買えないわけです。一番かっこいいと思ったのは、外国の選手が真っ白いライフジャケットを着ていたんですよ。

ライフジャケット自体は当たり前だけど、(普通は)黄色とかオレンジとかで、ジーッてジッパーで上げるようなもこもこっとしたやつだったんです。競技するイギリスの選手が着ていた薄くて真っ白のライフジャケットって、普通ありえないですよ。水に浸かるからすぐカビちゃうし。

「こんなの欲しい」と思ったけど、日本のどこにも売っていないから、僕は欲しくてイギリスまで行ったんですよ。そのくらい情報もなかったし、それを欲しいなと思う気持ちがすごく強くて。じゃあそんなに自分が好きならば、そういうものを扱う会社に入りたいなと思って。

その当時、ソニーミュージックという会社が「ソニーファミリークラブ」という外国の良いものをいろいろ扱う通販の会社をやっていたので、そこに入れてもらって。

:まだネットで物を買うのは黎明期というか、そんな感じですよね。

江口:その時はまだインターネットはなかったんですよね。

:なかった時代か。

江口:入った時はぐいっと上がっているわけなんですが、やっぱり入ってみたら思うようにできない部分があった。高級な海外舶来物みたいな感じなので、平均顧客年齢が65歳とか。そんな時に22歳、23歳の僕がすごく良いなと思うものもなかなか扱えないし、やれることもショップのショールームのスタッフとか、カタログに載せる商品の仕入れ部門とか。

自分の生活や趣味を拡大して事業にする

江口:その後、静岡のカスタマーサポート部門に異動になって。そこは大井川の川沿いにあって、今もあるのかもしれないですがCD工場があって、化粧品の工場があって、通販の出荷場があって、その上にカスタマーサポート部門があるみたいな場所でした。

本当に田舎で、近くに静波海岸というサーフィンのスポットがあるんですが、大井川は川が緩すぎてカヌーするには向かないんですよね。でも、静波海岸はけっこう波があるので、サーフィンをやろうかなと思って(笑)。

:この調子でやると2時間かかってしまうので、ちょっとサーフィンの話題から離れましょう(笑)。

江口:それでオープンカーを買って、シティカブリオレにサーフボードを積んで。

:ホンダシティのね。

江口:朝にサーフィンをやって、夕方に終わったら国道沿いの古本屋を回るという生活をしていたらインターネットが出てきて。

「これはもうインターネットで物を売ったらいいじゃん」と言っているのに、その会社はやっぱりお客さんの層も上だし、「インターネットはまだ早い」と言うようなスタンスだったので、もううかうかしていられないと思って。(当時は)「Amazonがもうすぐ日本に来る」ぐらいの頃ですよね。

:日本にAmazonが来たのは2000年ですね。

江口:それで、これはもう自分で物を売る仕事をしなきゃダメだなと思って。その時は古本屋にばっかり行っていたので、せめて自分で何かを売るとしたら本だなと思って始めたのが本屋さん。そんな感じで職種は変われど、なんとなく自分の生活や趣味の関心事を拡大していったのが、自分の事業の始まりかなと思ったという感じですね。

:ユトレヒトは当時は代官山で、そのあと表参道に移って今でもありますが、それこそ一世を風靡しましたよね。

篠田:覚えていますよ。

本屋を経て、40歳を過ぎてから蒸留家を志す

:チャートを見ると、ユトレヒトがすごく有名になってバーッと上がっていますが、またガクンと下がりましたね。

江口:ガクンと下がったのは、ユトレヒトの隣にZINE'S MATEと書いています。毎年、東京都現代美術館でTOKYO ART BOOK FAIRというものをやっていますが、それが最初はZINE'S MATEという名前だったんですよね。

僕は本屋さんを始めた時に、それこそ幅くんみたいな人に会って、「東京は本に詳しい人がいっぱいいるな。これはやばいな」と思って、とにかく自分が一言で好きだと言える本を扱いたいなと思ったんですね。そのためにまずやったのは、本を作っている人から本を仕入れようということ。

アーティストや作家さんから直接本を扱って、そういう人たちとつながりながら本屋さんをやっていこうと。それを一言でWebやお店で紹介できるものがやっぱりいいなということで、なんとなく薄い本がどんどん増えていって。

:ZINE。

江口:それがZINEとすごく近しいものが多くて、それをどんどん紹介する場所を作ろうと始めたのがZINE'S MATEであり、TOKYO ART BOOK FAIRであるという感じなんです。

:なるほど。「FANZINE」ってわかりますかね? ZINEって、もともと由来はイギリスのパンクカルチャーですよね。

江口:そうですね。

:当時はネットもソーシャルメディアもないので、自分たちの好きなミュージシャンを冊子にして、ファンジンから作っていて。当時ユトレヒトが扱っていたのは、それこそAmazonや本屋さんとかどこでも買えるすごく大きな出版社のものというよりは、作家の方が作ったものを産地直送じゃないけど、ダイレクトに仕入れていましたよね。

オブラートに包まず、薄いけど熱いものは熱いまま売る書店として、インディペンデント書店などと呼ばれて。でもその後、江口さんが本当に急に「俺、酒を作る」と言ったのはびっくりで、その落差はかなりあるなと思います。

江口:そうですね。別に、ZINEが落ち込んだわけではまったくないんですよ。

:江口さんの気持ちが落ち込んだ?

江口:僕の気持ちが落ち込んだだけです。やっぱりずっとやっていると麻痺しちゃうというか、出会いの新鮮さみたいなものがなくなっていって、あとは(ZINEが)ちょっとブームになった部分もあって、自分がやる必要があるのかな? ってちょっと思い始めたのが、このガクンと下がったカーブかなと。

:なるほど。江口さんが蒸留家を志すのも、40歳を過ぎてからですよね。

江口:そうです。

:今年51歳?

江口:この間、52歳になりました。

:おめでとうございます。江口さんも52歳になったんですね。では、40代の話はまた後半にいただくとして、篠田さんの40代の話にいきます。

篠田氏が「ほぼ日」に入社してから気づいたこと

:今まで中間管理職として大きな会社で働いていたのが、ネスレと比べると規模感の小さなほぼ日という場所。そこでの働き方とか、どういうことをやって何を感じたのか、ぜひ教えてください。

篠田:働き方でいくと、私がほぼ日に入った時は子ども2人がそれぞれ4歳と0歳、もうじき1歳みたいなタイミングだったんですね。

先ほど幅さんは「急ぐ時は急ぐけど、ゆったりしたい時はしたいよね」ということを言ってくださいましたが、すごく人間的というか。例えば、コンディションによってペースが変わることって人間としては当たり前なんだけど、それを職場に持ち込むという感覚を、たぶん私は当時ほぼ日に入るまでまったく持っていなかったと思うんです。

:なるほど。家は家で、会社に行ったらそれを微塵も感じさせないような。

篠田:イメージとしてはガンダムというか、鎧をガシャンって着て、あとはガンガン進むみたいな。

:機械的というか、ちょっと鉄仮面というか。自分をマシーン化する、みたいな。

篠田:そうそう。そこからするとだいぶ違いましたし、世の中的にもそういう働き方はまだまったく承認を得られていなくて。ほぼ日も「楽しくたって仕事はできる」ということをキャッチフレーズにしていて、世の中に「え?」って言われているような、時代がそういう感じだったんです。

:なるほど。

篠田:そんな中で、子どもがいて、仕事もやるからにはやっぱり目一杯やりたいんですよ。自分も新しく学んだり成長したい。本当にありがたいことに、この環境だとわりと両方しやすくなったのがすごく良かったです。

例えば小さいお子さんが身近にいる方はご経験があるかなと思うんですが、お熱があると保育園に行けないんですが、お熱はあるけどまあ元気ということはよくあります。そうすると別に子どもも寝ていないし、寝たくもないんですよね。

そういう時は一緒に会社に連れて行きまして、会議室とかで横に座らせてちょっと見ていてもらったりとか。場合によっては同僚が遊んでいてくれて、その間に会議をするということがOKな職場だったんです。

:それはすてきですね。

篠田:そうやって、自分が人として生きていくことと仕事をがんばることが良い感じにくっつけられるし、これはほぼ日だからということじゃなくて、本来仕事ってこうなんじゃないの? ということを、だんだん自分も体感的に得られたのがこの時期だったと思います。

:ありがとうございます。

ほぼ日を退任した理由は「ミッションコンプリート」

:ほぼ日も、ある程度のところまでやられてから退任を決断された。篠田さんはよく「ジョブレス」という言葉を使っていらっしゃって、その後はそういう時期を経て今に至るわけですが、その時期についてお話しいただいていいですか?

篠田:ほぼ日を辞めた理由は、一言で言うと「ミッションコンプリート」だと思うんですよね。

:ミッションは上場ですか?

篠田:上場です。上場は1つの方法論なんですが、ほぼ日という会社は糸井重里さんが創業して今も代表を続けてらっしゃいますけど、私が参画した時から「いつか自分がいなくなっても、栄え続ける会社でありたい」ということをおっしゃっていて。

:糸井さんがいなくなっても(栄え続ける会社)。

篠田:そうなるためには何がどうなったらいいんだろう? ということをいろいろ考えた結果、上場という手段がいろんな意味で最適解だと思ったんですよね。おかげさまでそれを成就できて、上場会社としてのリズムというかルーティーンも回るようになって。

もちろん私もほぼ日が好きですし、できることなら自分が貢献したいと思って、「上場後に自分が貢献できることはあるだろうか?」というのを考えたり試したりはしたものの、結論「ないわ」ということに(笑)。

:その結論が潔いですね。

篠田:だから、落ち込んでいるのはそれなんですよ。やっぱりそんなにスッとは決められず、「本当にそれでいいんだろうか?」とか、寂しい気持ちもありますし。

:そうですよね。育て上げた会社を……。

篠田:育てていただいた、というか。

:お互いそうなのかもしれないですけどね。

篠田:でも、客観的に見たらそういうことだなってなったんですよね。

:自分で納得できるタイミングがあったんですね。

「ほぼ日の篠田さん」を忘れてもらうためのジョブレス期間

:でも、今まではお仕事が変わるタイミングだと、次の会社が常に決まりながら移っていくのが、今回は「ジョブレス」と名付けた期間をあえて1年数ヶ月。

篠田:はい、名付けました。名付けるの大好きです。

:自発的にジョブレス期間を作って、それで今のエールにつながった。そのあたりはどういう心持ちで?

篠田:ありがとうございます。まず、この期間は結果的に1年3ヶ月あったんです。その理由は、例えば私がこういう場に呼んでいただくようになったのは、やっぱり「ほぼ日CFO」という肩書きにみなさんが興味を持ってくださったのがきっかけだったので、多くの方々はほぼ日の篠田さんだと思っているんですよね。

だけど、「ほぼ日の篠田さん」はもうこの世からいなくなっているわけなので、みなさんにそれを忘れていただく必要があった。

:なるほど。

篠田:別に社会全体はどうでもいいんですが、私が次の仕事に進む時にそれを期待されても、お互いに困るので。

:同じものを求められている。

篠田:そうです。そういう意味で、自分自身としてもリセットしたかったんです。同じように、次の仕事で関わる方々にもそのイメージを忘れていただかないと、お互いにフラットに判断できないなと思ったので、この期間を取りました。

その時に友人たちから助言があって。やっぱり(ジョブレス)期間が短いと、それまで知っている世界の中で次を決めるけど、せめて半年、できたら1年の間を置くと、その人たちが紹介してくれるその先の広がる世界があるから、可能だったら少し時間を置いたらいいんじゃないか? という助言をもらって。

おっしゃるとおりだなと思い、その結果出会えたのがエールだったので、本当に友人たちの助言に大変感謝をしています。

:なるほど、自分の両手を伸ばした範囲の外にあるものと、ちゃんと結び目を作る時間を作るという意味ですね。

篠田:「それには時間が必要だよ」という助言でした。

:なるほど。

ジョブレス期間中、不安はなかったのか?

:一方で、ある程度のキャリアを重ねて、金銭的な余裕や家族との関係性とかもあると思うんですが、そういう観点からのこのジョブレスはいかがでしょうかね?

篠田:そうですね。金銭的なバッファはやっぱり絶対に必要です。うちは共働きですが、完全に経済的な分担はイーブンで、私が働いていようと辞めていようと一応イーブンなので、やっぱり永遠に(ジョブレス)というわけにはいかなかったですね。

あと、よく「不安じゃなかったですか?」というご質問をいただくんです。ここは運も良かったんですが、辞めた直後にこんな感じのイベントで登壇して、初めて自分に所属の肩書きがない「篠田真貴子さん」が出た機会があって。でも、楽しく登壇できたというのが1つのきっかけになっていて。

私個人とは別で社会に「篠田真貴子」という存在があって、これが社会とどうつながるのかを課題として解けばいいと思えたので、自分個人が不安というよりも、「この人の“賞味期限”がまだ潰えていないうちは大丈夫だな」みたいな感覚をちょっと持っていました。

:なるほど。「ほぼ日の篠田さん」じゃなくても大丈夫な私がいると思ったわけですね。

篠田:「この人はどう動いて、経済的なことや仕事の機会も含めてどうなるんだろうな?」ということを、パーソナルな私が観察しているモードに入れたのが良かった気がします。

:なるほど。経験、年齢、いろいろな側面から、やっと客観視できるようになる。いきなり20代でジョブレスをやり始めると……。

篠田:また別の意味でプラスになることはあると思いますが、私の経験とは違ったものになっちゃうと思います。

:そうですよね。ありがとうございます。

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