「褒め」に時差を作ることのメリット

澤田智洋氏(以下、澤田):昔、「あいのり」という番組がありましたけれども。

澤円氏(以下、澤):はいはいはいはい。

澤田:僕が思ったのは、男女が7人とか8人しかいないわけじゃないですか。なのに恋愛が生まれるのが「ええ!? すごっ」と思ったんですが、そりゃそうだよなと。7~8人しかいないんだったら、7〜8人のそれぞれのいいところを見るしかない。その中で自分の惚れモードみたいなものを発動させないと、恋愛できないじゃないですか。

人間は、そもそも「惚れる」という力を持っている。「ファンになる」力を持っていて、だけど時代の圧力なのか、叱ったりダメ出しするほうが脳の負荷が少なくて楽だから、そっちに流れているだけなんじゃないかな。

:ジャッジしてダメ出しするのは、あまり考えないでできますからね。

澤田:そうなんですよ。「褒めるのはやっぱり難しいですよね」とよく言われるんですけど、僕の場合は言葉を寝かせるんですよね。例えば、澤さんとお会いするのは、今日、実際は初めてですけれども、今日は別に、澤さんを褒めなくていいと思っていて。

:褒めてくれてもいいんですよ(笑)。

澤田:実は褒めてはいるんですけれども(笑)。

:もちろん、はい(笑)。

澤田:「17個学びがあります」という冒頭の言葉は、実はホメ出ししています(笑)。でも、急がなくていいというか、瞬発系のホメ出しもあれば、熟成させたほうがいいホメ出しもある。「褒めるのは苦手です」という方は、実は褒める瞬発力がないだけの可能性も高いんですよね。

「今すぐ言わなくちゃ」じゃなくていい。ゆっくりと長い目で、その方を肯定的な目で見て、「この言葉いいな。この魅力がいいなと思ったら、その人に伝えてください」と言っています。だから「褒め」は時差を作ることもけっこう大事。なぜかというと、大変な労力だからですね。

:そう。思考のスピードは、速いと目立つので、そっちのほうが優れているように見えるポイントはあると思うんですけど。だけど、今おっしゃったように、時間をかけて、かつ肯定的な情報を相手に提供するなら、その時間はむしろ熟成を呼んだり、納得感を呼んだりすると思うんですよね。

しばらく経って思い出した時に、思い出し褒めをしてもらえるといいと思う。「あ、そうだ。ずっと言いたかったんだけど、去年お話したあの話、やっぱりものすごく心に響きました」と言われると、「1年も寝かせてくれたんだ」と、むしろうれしいですからね。

澤田:まさにそうです。時差を作るのは、思いを蓄積することなので。

本人がいないところで褒める、「ポジティブ陰口」

澤田:ちなみに澤さんがされているのは、「ポジティブ陰口」でしたっけ。

:そうそうそう。「日向口」という言葉で表現しています。

澤田:陰口の対義語。

:僕は敢えて「ポジティブ陰口」という言い方をしているんですけど、要するにその人がいないところでめっちゃ褒めるんですよね。

澤田:めちゃくちゃいいです。

:僕はこれを、けっこうあちこちでやっています。まず、自分がいい奴感が出る。「俺、いい奴っぽくね?」と、自己肯定感をちょっと上げる。僕、自己肯定感がもともとすごい低いので、そういうことをやって自分の自己肯定感が上がるんだったら、安上がりだなと思って。

外でどんだけうちのカミさんがおもしろいかという話を、さんざんするんですね。あそこにいますけど。そうすることで、この人はけっこう楽しい夫婦生活を送っているんだなとか。ぶっちゃけ、家族の悪口言う人もいるじゃないですか。聞いている側も処理に困るし。

澤田:そうですよね。

:実際それの情報を得た上で、実際に「家族で会いましょう」となった時に、けっこうこれ……。

澤田:よくありますよね。どういう顔で会えばいいんだろう。

:そうそう。どういう顔で会えばいいんだ。「いやぁ、こてんぱんに言われていましたね」と言うわけにいかないですからね。

澤田:言うわけにいかないですね。

:なので、影で人の話をするんだったらポジティブな話のほうがいいんじゃないのかなと思うんですよね。

澤田:僕もすごく同感です。うれしいですよね。それが回り回って本人の耳に入ったら。

:あと誰かに言って「あの人はこうこうこうだよね」と陰口を言ったら、言われた側は、心理として、別のところで自分のこともそう言っていると思いますよね。

澤田:「僕のことも言っているんだろうな」と思いますよね。

:でも、影で人のいいところばっかり言っているんだとしたら、「他でも自分も褒められているかもしれない」と思ってもらえると思うんですよね。別にそう思ってもらうことが目的じゃないんだけど、そのほうが世の中楽しくなるんじゃないのかなというのが、僕のなんとなくの感触ですよね。

澤田:いやぁ、いいなぁ。こういう大人になりたい。

:(笑)。

狭いコミュニティの中だけで活動することの弊害

澤田:「いい大人ってなんだろう」と最近すごく考えているんですけれども、それはすごくいい成熟の仕方ですね。

:それこそ、ものすごい寄り道をした結果、こうなったんです。僕は今53歳ですけど、40歳くらいの時まで、本当にどうしようもない奴でしたよ。一番大きかったのが、その頃まではあまり外に出なかったんですよね。

澤田:なるほどなるほど。

:組織の中とか、狭いコミュニティの中だけでしか活動していなかったことが、原因として一番大きかったんです。そうするとどうしても視野が狭くなったり、思考が固くなったりということが起きます。でも、40歳を過ぎたあたりから外で講演するようになったり、まったく違うコミュニティで必要とされたりして、視野がどんどん広くなっていった。

その分、失敗の振れ幅も大きくなっていったんですよ。やらかすのが大きくなっていったんだけど、比較的被害がないなということも、同時に学んだんですね。社内ではちょっとした失敗もやたら怒られるから、一大事に感じるじゃないですか。端から見るとすごくどうでもいいですけどね。

例えば、前月の経費を精算していなかった。「何で期日通りしないんだ」ガミガミガミ。自分はダメかもしれない。ぶっちゃけそれ、よそから見ると「それがどうしたの?」という話ですよね。

あなたが経費精算を忘れたからと言って、別に世の中の何も変わりませんよ。なので、社内にいるとそれが大ごとという感じだった。でもちょっと離れると、「あれ、すべて誤差だな」と思うんですよね。これ、言っちゃっていいのかな。「誤差だな」と思い続けたら、僕、(会社を)辞める前の最後の2年くらいの間、社内の経費精算を1回もしなかったんです。

澤田:誰かがやってくれた。

:ううん。全部自腹でやった。

澤田:そういうことですね。

:出張に行こうとなんだろうと、経費精算が面倒くさいから、全部自分で払っちゃった。

澤田:なるほど。

:これはこれで問題なんでしょうけどね。

多様性と同じく大事な「多面性」

澤田:僕が今のお話を聞いて想像したのが、社外の人、より広い世界の人たちと関わっていく上でも、相手のいいところを抽出するのは、コミュニケーション上すごく大事じゃないですか。そこがとっかかりになって関係性が築かれることも増えていったんですかね。

:そう。あと、澤田さんは障がい者とのコラボをよくされていますね。一応法律的なものとかもあるので、障がい者という表現があるのは仕方がないとしても、「ある特性を持っている」という捉え方をすればいいだけの話ですね。

それこそ足を切断している人のほうが、幅跳びの記録が伸びるという事態も起きているわけで、何をもって障がいなんだという定義も揺らぎますよね。

澤田:そうですね。僕も福祉の世界に入って一層ホメ出しの技術を磨いています。障がいがある方々は、障がい者という一面にばかりスポットライトが当たりすぎていて、本人もそこを求められているから、例えば、足がない自分の人格をけっこう強調しがちです。

最近「多様性が大事」と言われますけど、僕は「多面性も大事」と思っています。「多様ないろんな人がいるよね」と、「1人の中にいろんな面があるよね」が掛け合わさって、人間らしい社会が生まれると思っていて。

:そうですね。

澤田:障がいのある人の、障がいのない一面を、敢えてなるべく見るようにしていったんです。そうしたら「めちゃくちゃひょうきんじゃん」とか、「めちゃくちゃ恋愛癖悪いじゃん」みたいな。

:(笑)。

澤田:豊かな側面がいっぱい出てきたんです。そこから、障がい者という強烈なバイアスや第一印象、確証バイアスに囚われないことは、すごく大事なんだなって教わりましたね。

「逆に楽になる」ための、脳の働かせ方

:そうですね。フラットに見ていくのは、ある程度パワーがいりますからね。

澤田:めちゃくちゃいります。

:フラットに。それこそさっき言った、ジャッジしてしまって、そのバイアスを掛けた状態で人を見続けるのは楽なんですよね。思考をサボっている状態。この状態を続けると、人間はどんどん脳が退化していってしまうので、いよいよ新しいものが受け入れられなくなって、負のループにずっと入っていくんですよね。

残念ながら、サラリーマン社会の男性優位の世界だと、結局そこの中に閉じこもっているほうが楽なので、どんどんどんどん退化していってしまって、残念な大人が増えてしまっているのかなとは思いますよね。

澤田:楽屋トークでも「楽(ラク)」というキーワードが出たじゃないですか。要は「なるべく楽をして働きたい人が多いんじゃないか」と話をされていて。逆に、なんでそこまでして人は楽をしたがるんですかね。どうなんでしょう。

:その「楽」という言葉そのものは素敵な言葉だと思うし、僕も楽をするのはぜんぜん構わないんだけど、その「楽」が「何も考えないこと」とか、あるいは「思考を放棄して自動化されていくこと」だとしたら、そもそも自分がなんで存在しているのかを疑問に思うと思うんですよね。

澤田:なるほど。

:だって「いなくてよくね?」という話になってしまう。

澤田:確かに。突き詰めるとそうですよね。

:突き詰めるとね。だけど、この世に存在していたら、何らかの傷跡は残したほうがいいかなと思うんです。本人も周囲の人も、「生きてよかったな」と思えるような。せっかく生まれているんだったら、そういった人生を送ったほうがいいのではないかと思うんです。

澤田:結局そうなんですよ。誰かを褒めることも脳への反抗期の始まりですよね。情報をパターン化してカテゴライズして「これ考えない」と言って、情報収集とか処理をキャンセルする。これが脳の自然な状態だとすれば、そこへの反抗期として、楽をしたがっている脳に対して仕事をさせるのが「褒める」ことです。

:そうですね。

澤田:なんでそれが大事かと言うと、何も決めつけなくなるからですよね。例えば、「自分はここが限界だな」とか。そういう思考性を持っているとぜんぜん決めつけなくなるし、「社会なんてこんなものでしょ」という限界も突破できる。脳を働かせることは、自分を縛っているあれこれから自分を解き放つことだから、逆にすごく楽ですよね。

「鍛錬」はいいが、「我慢」はNG

:逆に楽になるんですよ。まさに、「楽」はすごく大事であると、僕はいろんなところでお話しているんです。例えば心理的安全性の高い職場は、ウェルビーイングの文脈ででよく出てきますけど、あれは「楽」というキーワードが絶対に入るんですね。

この「楽」という漢字が(読み方が)2つあって、まず楽に仕事ができる。楽にいろんなプロセス進められるという「楽(らく)」という読み方と「楽しい」の2つです。その楽になるために、避けて通れないのが鍛錬ですよね。

体を鍛えると重い荷物も軽く感じるのは、鍛錬というプロセスの先に「楽になる」があるからです。鍛錬は必要なんだけど、これを時々、勘違いして「我慢」を入れちゃう人がいるんですね。

澤田:ああ、なるほど。

:要するに「つらい」「苦しい」「嫌々やる」の先に何かあるかというと、残念ながらないんですよ。「我慢」は、通り越したあとに、ゼロリセットされるだけです。明るい未来はないんですね。

澤田:なるほど。

:僕は常に、「我慢」なのか「鍛錬」なのか見極めましょうね、と言っています。その先に、明るい未来が自分の中で見越せているんであれば、それは鍛錬としてどんどんやりなさい、と言っている。

それが「まったくわからん」のであれば、他の人から「これは鍛錬になっているのかどうか」をチェックしてもらったり、あるいは自分でじっくりと考えて、これを続ける意味があるのかとか、ちょっとそこで立ち止まったほうがいいかなと思っているんですね。

澤田:おもしろいですね。例えば野球選手のバッターだと、ピッチャーが投げてから「どう打とうか」と考えている時間がないから、瞬間的に判断しないといけない。そのためには脳に楽をさせないといけない。そのためには何回も何回もバッティングスイングを繰り返さないといけないみたいな。これは「鍛錬」の世界ですね。

:「鍛錬」ですね。

澤田:「鍛錬」してバッターボックスに立っている時に楽な状態でいるから、瞬間的に適切な判断ができる。これは我慢ではないというか、いい「楽」ですよね。

日本のスポ根漫画の「罪」

:日本人には特にスポ根漫画は罪深いと思うんですけど、あれなんか相当意味のないことをやっているんですよね。我慢をさせることを「美しい」と描いているじゃないですか。あれもちょっと軍隊教育の名残があって、非常によろしくないなと思います。まったく意味のないことをやっているわけですよね。

例えば、「練習中は水を飲んではいけない」とか、昔は横行していたってすげぇ話だなと思うんですよね。「殺す気かよ」と。その先に何があるのか。ちょっと野球がうまくなるだけでしょ。人生において大した意味がないよね。

もしかしたら砂漠に放り出された時に、若干生存する確率が上がるというトレーニングになっているかもしれないけど、特殊過ぎてあまり汎用性がないんですよね。だからあの中では「我慢」ではなくて、本当の意味の「鍛錬」を、どれだけ集中させるか。まだ日本には、そういうマインドを変えていくことが必要かなと思いますね。

澤田:まだ必要ですね。僕はスポーツも専門ですけど、やはり明治維新とともに近代スポーツが西洋から入ってきて、その時に折しも、日露戦争などの戦争がいっぱい起きていたから、スポーツと軍事が結びついてしまった。もっと言うと、当時日本の体育は、いわゆる一般的な体育と軍事体育と2つあって、軍事体育は軍人が先生だった。

:はいはいはい。

澤田:軍事体育は強い軍人を作って、ひいては強い軍隊を組成することが目的でした。例えばソフトボール投げ。あれは手榴弾を投げる訓練だし、鉄棒も銃を撃つ時は反発がすごいので、胸筋が必要ですよね。

銃を撃つ筋力を鍛えるための鉄棒だったという話があります。その名残が今も来てしまっているのは、確かにリセットすべきです。スポーツが1つ「ダメ出し・我慢文化」を形成しているのは間違いないと思います。