感情はどこからやってくるのか?

西部直樹氏(以下、西部):では、ここで大きな問題なんですが、そもそも感情はどこから生まれるのでしょうか?

徳田葵氏(以下、徳田):さあ、また大きなテーマになってまいりましたけれども(笑)。質問です。みなさん、感情はどこから生まれていますでしょうか? ぜひぜひ、みなさんの回答を教えてください。感情はどこから生まれる? 自分の中から?

西部:自分の中、そうですよね。どういうことから生まれるのでしょうかね? 

徳田:例えば人に良く見られたいとか。どう思われてるかを考えて感情が生まれたり……するのかな?

西部:みなさんどうでしょうかねぇ? 感情はどこから生まれるか。

徳田:確かにこれがわかれば、それをコントロールできそうですよね。

西部:そうですね。どこから来ているんでしょうね。「脳からかな?」というのがありましたが、確かにそうなんです(笑)。脳からなんですが、脳がどんなふうに反応するからでしょうかね?

徳田:コメントでたくさん「脳ですかね」と。

西部:はい、そうなんですが(笑)。脳の中がどんなふうに動いたらというか、脳の動きを表すのが心の中となると、心がどう動くと感情が生まれるんでしょうかね?

徳田:田中さん「記憶とボキャブラリー」というところから?

西部:お~。

徳田:記憶というのは思い出とかもそうなんですか?

西部:そうですね。

徳田:ほかの回答も見ていきたいと思います。久保さん「趣味や経験から」感情が生まれる。「経験」という方、石川さんや、田中さんも「過去の経験から」。

西部:いいとこ突いてますね。

徳田:あとはマツヤマさん「周りからの刺激」。八木さん「想像から」。

西部:なるほど、そうですね~。

“ある出来事”をどう捉えるか?

西部:考えてみましょう。簡単な例を出しますが、例えばこのようなことがありますよね。なにか試験を受けました。ある人はガッカリするんですが、「あ~落ちちゃったな。残念。でも次がんばろうかな」なんて思う人もいれば、「落ちちゃった。もうだめだ。やる気が起きない……」なんて思う人もいますよね。

同じ刺激、同じようなことなのにどうして結果が違うのでしょうか? その間に感じるものがガッカリ・うつは違いますよね。何が違うと思いますか?

徳田:捉え方ですよね。どう考えているか。その受験に失敗したことの本人にとっての重たさ? 自分の中ですごく重大に思っているかどうか。

西部:そういうのを簡単に言うとどういう? 先ほどちらっと出てきましたが。

徳田:先ほどちらっと出てきた?(笑)。

西部:どういうふうにそのものごとを受け止めているかによって違ってきますよね。

例えばこうです。上の人は、「不合格はとても残念なことだ。合格するに越したことはないが、不合格だからといって生きる価値がないとまでは言えないな」。長いですけどね。と思っていると、「あ~ちょっと残念だったな」と思いますよね。

下の人は、「不合格なら生きる価値はない」と思っていたら、不合格なのでもう生きる価値がないのでうつになっちゃいますよね。

というようにものごとをどのように受け止めるのかということが実は感情を生み出す大きなポイントだと思います。ですから人によって違うんですよね。同じ事柄でも。

徳田:受け止め方ですね。

自分への要求は過剰になる

西部:どのような物事の考え方をしているか。というのが感情を生み出しているものだろうと思います。

徳田:受け止め方が大事。感情が生まれるところだからというのがわかったんですけれども。Bの方、不合格なら生きる価値はないって思っている方が、先ほどの例の上のところまで気持ちをどう持っていけるんですかね? 受け止められるようになるんですかね?

西部:それについてこれからお話をしていくんですが、どうしてそういう受け止め方の違いが出てくるのか? という最初のところを考えてみようと思うんです。

どうも私たちはさまざまな基本的な要求を持っているようです。自分はこう在りたいなとか。他人にこうしてほしいなとか。世の中がこうだったらいいのになとか。いろいろ思ってますよね。そういうふうに思わないと生きていけないです。

例えばもっとうまく仕事がやりたいなとか、いろいろ親切にしてもらいたいなとか、世の中が平和だったらいいのになとか。いろいろ思います。こう思うことによって私たちは前に進んでいくと思うんです。

私はそういう基本的な要求を持っていると思うんですが、これが意外とですね、あるときエスカレートしてしまうんです。例えば仕事をしていると、基本的にこう思ってますよね。うまく物事をやり遂げたい。

でもそれがだんだん過剰になっていくということがあります。ねばならない。そうなっていくとけっこうつらいです。

私はいつもうまくものごとをやり遂げなければならない。ここで重要なのは、「いつも」「ねばならない」です。

徳田:すごく強い言葉ですよね。

西部:そう思うとつらいですよね。こんなのは、今聞いてる方もそうでしょうが、私も最初知ったときはこう思いました。「ああ、なるほど。そうなるとつらいよな。でも私はそんなことは思っていない」と。安心してください。誰もが思ってます。

徳田:「〜ねばならない」という気持ちを。

西部:絶対持ってないと思ってたんですが、「あ、あった!」みたいなのがあります。いろんなのを見てみましょう。

さまざまな思い込みが自身を苦しめる

西部:自分自身に対する欲求。私は完璧であらねばならないとか。私は誰からも好かれなければならない。他人は私を嫌うべきではないとか。私が生きている状況は私が望むとおりであらねばならない。こう言うと、こんなふうに考える人いないだろうと思うんですが、意外とあります。

もう1つ、これは条件を付けてますよね。完璧でないといけない。完璧でないとどうなるのかということも考えているんです。

派生的な思考というのがあって。「完璧じゃなかったら大変なことになる」とか。「完璧じゃない私はとんでもない奴だ」とか。「そんなことには耐えられない」とか。「完璧でなければならない、そうでなければ私は耐えられない」とかというような長い文章を心の中に持っていることがあります。

徳田:なるほど。

西部:そうなると、どうなるのか? 見てみましょうね。例えば「私は完璧であらねばならない。完璧にできなければ私はダメな人間だ」とか。

「私は誰からも好かれなければならない。1人でも私を嫌う人がいたら私はおしまいだ。生きていく価値もない人間だ」とか。

「他人は私を嫌うべきではない。私を嫌う人はとんでもないクズ野郎だ」とか。

「私が生きている状況は私が望むとおりであらねばならない。望みどおりでないなら、そんな状況に私は耐えられない」なんていうふうに思っているかもしれません。

でもこう思っていると、だいたいものごとは完璧にいかなかったり。他人は誰もが自分のことを好きだったり、思いどおりに動いてくれなかったり、世の中もそうですよね。こう思うと、自滅的な行動が起こりやすいです。

徳田:なるほど。

西部:例えば「他人は私の思いどおりに動いてもらわなければいけない。そうでなければクズ野郎だ」みたいに思っていると、だいたい他人は思いどおりに動きませんので怒ってしまいますよね。だいたい怒りを感じるときには「ねばならない」が働いています。

徳田:確かにそうですね。ユウイチさんも「mustになった瞬間、しなやかさが失われた感じあるよな~」と。

西部:そうですよね。

徳田:決めつけ。自分の中で頑なに決めていることですからね。ねばならない。

西部:そうですよ。ねばならない。

徳田:そこをもうちょっと柔らかくというか、柔軟にできるようになるんですかね? 

西部:はい。最初は時間がかかるんですが、慣れてくるとすぐ気がつけるようになります。柔軟になれるようになります。

前向きな行動ができないときの思考法

前向きな行動が取れないときは思い込みを粉砕してみましょう。思い込みなので。それで適切な考え方に書き換える。先ほど感情は度合いというようなところがちらっと出てきましたが、感情の度合いを下げる。そうすると行動も変わってきます。というステップでやっていこうと思うんです。

まず自分が前向きな行動を取れてないなぁとか、あるいは思い出すとそのことにとらわれてしまうということがありますよね。昔のこと思い出して「あ~あのときこうすればよかったなぁ」とか「あいつは許せないな」とか。思い出すたびにイライラするとか。そういうことってありますよね。

そのようなときには実は自分の考え方を捕まえるという作業が必要です。考え方を捕まえるというのが一番難しくて、最初はこういうカウンセリングに慣れた人と一緒にやってみるというのも手ですけどね。

まずは心に何がよぎったのか。自分になんと語りかけていたのか。頭の中にある考えというのを探ってみるといいです。例えば先延ばしにしているときに、なんて思っていたのでしょうか? 自分になんて語りかけていたのでしょうか? 「これはあとでいいや」。

徳田:あとでやろう。時間ができたらやろうとか。

西部:「これを今やらなくてもいいんじゃないか」とか「これをやると私はつらいな」とか「つらいことは避けたいな」とか。「常に快適な状態でいたいな」とか。だんだん考え方を文章にしていくとコアになる考え方にたどり着いてきます。

自分の考えを捕まえたら、それを適切な考え方に書き換えていきましょう。適切に書き換えていくためには、まず自分の抽出した考え方を次の3つで点検してみるんです。

まず論理的かどうか? 経験的か? 幸福なのか? 

これはどういうことなのかと言うと、例えば「私は完璧に物事をこなさなくてはならない」って考えていたとします。できないのはダメ人間だとかね。でも常に物事を完璧にしなければいけないという考え方はどこから来たのでしょうか? 

徳田:なるほど。確かに。

西部:根拠はどこにあるんですか? 誰が言ったんですか? そういうルールはどこで学んだんですか? と聞いてみるわけです。そうすると誰かに言われたわけでもないですし、ルールブックがあるわけでもないですし、家訓として「〇〇家の者は常に完璧にものごとをこなさなければならない」なんて書いてあるわけではないですよね。根拠があるかどうかを確かめてみましょう。

もう1つは、現実的かどうか。完璧にものごとをこなさなければいけないんですが、これまでに完璧な人はいたか? 人類史上で1度もミスをしなかった人はいたでしょうか?

徳田:いや~いないですよね。

西部:いないのになんで完璧を求めるんですか? 

徳田:確かに。

西部:それは難しいですよね。今まで誰もしたことがないのに。

「幸せになれるか」を考えよう

西部:もう1つは、幸せになれるかどうか。その考え方を持っていると幸せでしょうかね? 完璧にこなさなければいけないと常に考えていると、まあ完璧にできるときもあれば、できないときもあって。できないときもあるので幸せになれないですよね? 

徳田:はい。なれない。

西部:幸せになれないことを持ち続けていて、幸せになれますか? 

徳田:なれないですね。振り回されまくりですね。それにね。

西部:そうですよね。だったらそれを捨てましょう。と、なるわけだ。

徳田:論理的、経験的、幸せなのか。この3つに当てはめてみるというところですね。

西部:そうして文章を書き換えるんですね。自分の思い込みの文章を。過度の思い込みというのを適切な考え方、例えば〇〇に越したことはない。

例えばこうですね。「私は完璧にものごとをこなしたい」。これは、希望を持つのはいいですよね。やりたいですよね。

徳田:はい。願望。

西部:願望として持つのはいいですよね。完璧にこなすに越したことはないけれども、そうでないからといって私が無価値な人間だということにはなりませんよね。ときには失敗するかもしれないけれども、だからといって1度の失敗で全部おしまい……人類が滅亡してしまうような失敗をしたらそれはおしまいですが(笑)。まあそれはめったにないでしょうから。大丈夫だと思います。

徳田:なるほど。こんなふうにして適切な考え方に、「ねばならない」という概念を持っていく。考え方を捕らえてこっちに修正していくんですね。

西部:そうですね。そして自分の感情がどう変わったのかというのを考えてみるんです。感じてみる。

感情は真反対に変わるのか?

西部:ここで問題です。感情というのは変わるのでしょうか? 怒りが喜びになるとか。なりますか? たまにありますよね。こういうことにも良いところはあるんだから、怒ってるんだけど変えましょうみたいなことを言われることがありますが。はたして感情は質的な変化を起こすことは可能なのでしょうか? 

徳田:怒りが喜びになる?

西部:なんでもいいですけども、ぜんぜん別のものに変わるということはあるのでしょうか?

徳田:どうでしょうか? 難しそうですよね。

西部:そうですよね。実はここで気をつけなければいけないのは、感情の質的な変換というのはないんです。

度合いの変化があるだけです。

徳田:度合いの変化?

西部:つまり感情の方向というか、感じる方向は同じなんですが、それが強いか弱いか。例えば不安が非常に強いと逃げ出したくなりますよね。不安のまま抱えていたくないので、じゃあ「お腹痛くなろう」「なかったことにしよう」「あとでやろう」となります。

でも、ちょっと気がかりだなぁくらい。不安がずーっと下がっていく。気がかりというのも同じ方向ですがちょっと弱いものだと、ちょっと気がかりだからこれを解消しよう。準備をしようとか調べようとなりますよね。なので感情は質的変化は起こしません。

徳田:まるっきり変わることはないんですね。怒りが喜びにまるっきり変わることはないけれども。

西部:度合いは変わる。

徳田:小さくすることができたりしますね。

西部:そうです。例えば怒りが爆発すると手が出てしまうかもしれないですけど、「ちょっと困ったなぁ」くらいになると行動が変わってきますよね。

「行動」に変化が現れる

例えば不安を懸念くらいに、怒りを閉口くらいに、落ち込みというのは残念だなぁと思うくらい、罪悪感を良心の呵責というように度合いを変えるとどんなふうになるでしょうか? 

不安が強いと逃げ出すということがありました。怒りが強いと攻撃をしてしまいます。落ち込みが激しいと閉じこもってしまうということがあります。罪悪感が強いと自己否定をしてしまうということがあったんですが。

それがこうなりますよね。先ほど言ったようにちょっと懸念があると準備をしようとか。他人の行動が自分の行動を阻害するようなときは怒りを感じますが、「弱ったなぁ」なんていうときには説明をして、「私はこうされると困るんですよ」と説明をすることが可能ですよね。いきなり手を出すんじゃなくて。

残念だなぁと思うと、じゃあ次はもっとよくやろうと思いますし。良心の呵責くらいになれば、罪悪感ではなくてきちんと謝って関係を修復しようとか。

というふうに行動も変わってくるので、ここに辿り着きたいなと思うんですね。みなさんはどうでしょうかね?

徳田:これが行動の変化につながってコントロールできるということになっているわけですもんね。

西部:そうです。自分の感情はコントロールが可能です。それは自分の思考を書き換えることによってコントロールできる。つまり自分でどのようにでも変えることができるんですね。度合いを。ということなんです。

徳田:ということだったんですけれども、みなさんいかがでしたでしょうか? なかなか最初のうちは自分の感情を自分でコントロールする術がどうなるのかというのはわからないなって思っていたんですけれども。行動までの間に感情があって、それを捕らえるというところがすごくポイントだったのかなって思っています。