役に立っていそうで、実はなくなっても困らない「ブルシット・ジョブ」

辻信一氏:さて、本(『ナマケモノ教授のムダのてつがく』)の3章に、グレーバーという僕が尊敬する人類学者が出てきます。残念ながら2020年に亡くなってしまったんですが、その直前に、『ブルシット・ジョブ』という本が日本で出版された。この「ブルシット・ジョブ」というのもおもしろい言葉で、「ブルシット」とは「一見意味がありそうだけど、本当は意味がないもの」なんですね。

ブルシット・ジョブとは、実は本当の意味での役に立ってないんだけど、でもまるでこれがなかったら世の中は成り立たないかのようなふりをしている職業のこと。例えば、いわゆる管理部門の膨張にグレーバーは注目している。企業法務、学校管理、健康管理、人材管理、広報などは急激に拡張されたし、金融サービスやテレマーケティングなど、新しい産業が丸ごとつくり出されることも多い。

グレーバーによると、そういう仕事についている人たちが、今世界では大手を振って歩いている。アメリカなんかではそれが大半だと。いわゆる第三次産業のうち、6割、7割を実はこのブルシット・ジョブというのが占めていると。

つまりこれがなくなったとしても、世界は実はそんなには困らない。人間がそれなりに幸せに生きていくために、そんなにエッセンシャルなものじゃないんですね。でも、そういう仕事についている人の中にすごい高収入の人が多い。

それに対してエッセンシャルで必要不可欠なものっていうのは、もちろん食べ物を生産する第一次産業の人たちとか。あるいは同じ第三次産業の中でも、例えば介護とか養護とかの福祉、子育てや教育に関わる仕事、人のケアをするような仕事っていうのはみんなエッセンシャル・ワークです。

でもこうしたエッセンシャル・ワークは実は、ブルシット・ジョブに比べて、非常に給料も悪いですし、この社会の中では下に見られている。そして生活に困窮してる人の例が非常に多いわけです。

「わからない」に耐える能力が低下しているのではないか

この本の中に登場する一つの大切な言葉は「わからない」っていうことなんです。これに関係する「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を紹介してます。これは「答えの出ない事態に耐える能力」というふうに、この言葉をイギリスから紹介した帚木蓬生さんという精神医で作家が定義してます。

確かに、考えてみると、人生のほとんどは答えのない事態で占められてるんですね。だからこの能力がないと、どうなっちゃうんだっていう話なんですよ。どうもこの、わからないことや答えの出ない事態に耐える能力が非常に今、落ちてるんじゃないかということを僕も危惧してるわけです。

その人がどういう人なんて、実は本人にすらわかってないぐらいなんですから。なにかがわかったと思った瞬間に、その「わかった」が、わかってない数々のことを覆い隠しちゃうという構造もあるんですね。

陰謀論っていうの、あるでしょう。これが世界中で今流行っているわけですけど、これも根っこは同じだと思う。「よくわからない」という宙ぶらりんな状態が我慢できず、「わかったこと」にしちゃうんですね。

そういう人たちっていうのは、「わからないこと」や「モヤモヤ」や「なぜなんだろう」という問いを、もうどこかに掃いて捨てちゃってるわけですよ。そうするとなんかすっきりするんでしょうね、少なくともしばらくの間は。こういう態度が今世界中に広がってるんじゃないのかなと思います。

「わかる」というのは、実は怖いことだっていうことを覚えておいたほうがいいんじゃないか。

中国の寓話から考える、「なさ」を解決したふりの危うさ

荘子っていう古代の中国の思想家によるこんな寓話を、本でも紹介してます。

南海の神さまと北海の神さまは「渾沌(こんとん)」という神さまにごちそうになった。これに感謝し、お礼として「渾沌」が持っていないものをプレゼントしようと、ふたりの神さまは、渾沌に目、耳、鼻、口の7つの穴を1日1つずつ開けてあげたんです。

すると渾沌は7日で死んでしまった。ムダなものをあげてしまい、親切はムダになっちゃったという、なんか落語みたいな小話なんですけども。

これが教えていることは、非常に深いような気がしますね。コロナの中でワクチン、それからウイルスという、僕らふつうの人に、っていうか専門家にだって実はよくわからないものについて、なんだかわからないのに、メディアに出てくる人たちはみんな、なんかわかったようにしゃべってますよね。

わかったつもりになってるんでしょうかね、あるいはわかったふりをしてるんでしょうか。そのことのほうがもしかしたら、コロナそのものよりも危険かもしれないなと思うくらいです。

さて、ネガティブ・ケイパビリティという言葉。つまり、わからないことに耐える、わからないことに寛容であるという能力を、もうちょっと拡張して考えてみるといいと思うんです。「解決のなさ」「意味のなさ」「答えのなさ」、それから「役立たなさ」など。

こういった数々の「なさ」を解決したふりをして「あること」にしちゃったり、無視したり、切り捨てたり、処理したりしちゃわないで、それらと我慢強く、あるいは寛容に付き合う能力のことだって考えるわけですよ。

情熱は否定の形=「ない」からしか出てこない

僕が若い時にお世話になった京都大学の仏文学者、今は亡き多田道太郎さんにもこの本には登場してもらいます。この人が「怠惰の思想」ということを説かれていた。僕はこの多田さんとの出会いは実にありがたかったと思っています。

そのご縁が、ナマケモノという動物との出会いにもつながった気がしますし、今度の『ムダのてつがく』にも生きていると、つくづく思うんです。例えば、多田さんはこう言ってる。

「欲望の根源、あるいは情熱というものは否定の形でしか出てこない。仕事をしたくないとか、これは嫌だとか、しんどいとか」。逆に「肯定の形で出てくるもの」は上滑りしやすい。

一番極端な例は軍隊でしょ。なんでも「はい!」って言うわけですよね、「はい、はい、はい!」って。こういうのは、簡単に「生産力の論理に従ってしまう」って多田さんは言う。巻き込まれていっちゃう、流されちゃうって。

さっき「スロー、スモール、シンプル」という三つのSワード、つまり、「遅い」とか「小さい」とか「少ない」とかがネガティブな意味を持っていると言いましたね。それぞれ、十分に速くない、大きくない、多くない、という否定なんです。

それに対して「速い」、「大きい」、「多い」はどれも、ポジティブで肯定的なんですよ。だから「より速く、より大きく、より多く」なんて言われると、みんな嬉々として産業社会の生産性の論理にのみ込まれていっちゃうわけです。で、まんまと直線的な成長の軌道にみんな乗せられていく。

『ナマケモノ教授のムダのてつがく』

現代の感覚に失われている「休みの日=聖なる日」の感覚

昨日、僕はおもしろい青年に会いましてね。その人は自分で「休息デザイナー」っていう仕事をつくって活動をしている青年なんです。

この人には感心しましたね。彼が言うとおり、「休む」ということを見直すことが人類にとって非常に重要になってきているなと僕も思います。

さきほどの多田道太郎さんが3つのキーワードをあげています。「怠ける」「休む」「遊ぶ」の3つです。その真ん中にあるのが「休む」ですね。

『ムダのてつがく』でも、この3つは大事な言葉です。聖書の最初のページにいきなり出てくるでしょ。神さまは6日間せっせと働いて「天地万物」を完成し、7日目に仕事を離れ、休んだ。みんな「あれ?」っと思わない? だって「神さまでも疲れんのかぁ」みたいな。

でも、この「休む」は僕らの「休む」とちょっと違う。聖書には、神は「安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」と書いてある。「聖別」つまり、聖なる日として区別したというんです。キリスト教徒の休日である日曜日や、ユダヤ教徒の休日であるサバト(安息日)。この聖書の記述が、それらの起源なんですね。

多田さんによると、現代の「休む」には、そういう聖なる感覚がなくなってしまっているように見えるけれども、本来は人間が、聖なるものに向き合った時に感じる、スピリチュアルな感覚があるものなんだそうです。なんか力が蘇る、生命力が蘇ってくるような感覚でしょう。

休むことで生まれる再生の感覚もありますね。そうでしょ? 休むと、なんか気分が良くなりますよね。神聖さや再生の感覚と「休む」が、つながってるって、これはとても重要な指摘だと思います。

ムダだと思われる時間こそが「聖域」である

今、世界中にリジェネラティブとか、リジェネレーションという言葉がキーワードとして広まっていますが、これも、「再生」ということです。人間が長く、「再生不能」なことばかりやってきたわけですが、そこからなんとか、転換しようという意識の表れだと思います。

とにかく、再生すること、更新すること、そして、命をつないでいくことに、聖書でいう「安息」が、非常に重要な意味を持っていたのではないかなと思います。

さて、多田さんは、さらに怠け、休み、遊ぶ者にしか、経済的な価値と違う価値を考えついたり、構想したり、空想したり、想像したりする力は生まれないんだと言っています。経済的な価値の支配からの自由ですね。

今日聞いてくださっている方の中には、怠け者もいるでしょうし、遊び人もいるでしょう。休んでる人たちもいると思います。まさに今みなさんの中にこういう空想力や想像力が養われているわけですね。

かつてはどんな文化にも、物の世界が入りこむことのできない時間の聖域があったはずなんです。人生のあちらこちらに、安息が、静けさが、遊びが、楽しい語らいが、笑いが。そして何をするでもなく、「ただ、いる」というひとときが。こういうムダだと思われる時間は、実は、それこそが時間の聖域なんです。

そうじゃないと、時間を資源とみなして、「その時間を使って金を生み出す」「その時間を使おう」っていう発想になってしまうわけです。そうなると、自分の人生そのものが、しまいには手段になっちゃう。

人生で与えられた時間を使って、何を成し遂げるかとか、どれだけ金を儲けるかという話になっちゃうわけですよね。そうじゃないんだ。こうやって生を受けて、今ここにいること自体を祝福できるかどうかが大事なんです。

そういう意味では、遊びの専門家は子どもたちですよね。子どもたちから、僕たちは学び直さなければいけない。あるいは自分自身の中に、今は眠っている子どもたちを呼び起こす必要があるんじゃないのかなと思います。

この本にも出てくる、僕の人生のバックグラウンド・ミュージック、いやテーマ音楽って言うべきかな。それはオーティス・レディング『ドッグ・オブ・ベイ』です。

まだの方はこの曲をぜひ聞いていただきたいと思います。僕なりに訳してみました。「俺は波止場に坐って、潮の満ち引きを眺めている。ただこうして時間をムダにしているのさ。船が入ってきては、また出ていく。それをただ見つめている」。これがリフレイン。

こんな歌詞もあります。「俺は故郷のジョージアを離れて、サンフランシスコの港へと向かった。どうせ、あてのない人生。これまでも、これからも。ああしろ、こうしろと言われても俺にはできない。だから、今まで通りやってゆくさ」

波止場に座って、潮の満ち引きを眺めてるって凄みがあるでしょ。また日が昇った、また日が暮れていく、みたいなね。