しんどさを生み出す原因となる3つの煩悩

ーー稲田さんの著書『世界が仏教であふれだす』に、「しんどいを作る三大煩悩」と書かれていたんですけど、ちょっと詳しく教えていただいてもいいですか? 

稲田ズイキ氏(以下、稲田):「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」の話ですね。仏教ではそれを三毒と言って代表的な煩悩なんです。煩悩が自分たちのしんどさを生み出す原因になるので、そこから離れていくことが、仏教でいう苦しみの対処法です。

「貪」は欲望のこと。何かがほしいとか、こうあればいいのになという欲望です。例えばSNSを見て「なんでこの人たちはこんなひどいことを言ってるんだろう」と思うような状況。言い換えれば、自分が「こう言ってほしい」と思ってしまってるということですよね。

「瞋」は怒りです。「貪」とは逆に、自分から外に矢印が向かっていて、攻撃的な感情。嫉妬もそうですね。他者に攻撃的な意思を向けて、ディスってしまっている状態を言います。クソリプみたいなものはまさに「瞋」なんでしょうね。

「痴」は思い込みとか、愚かである状態ですね。今の時代で言うと、「陰謀論」はまさにそうですね。何が正しいか本当はよくわからないですけど、一つの思考にのめり込みすぎている状態は「痴」なのかなと思います。「無明」と言ったりもします。

一番大事なのは、煩悩がある自分の状態に気づくこと

ーーその「三大煩悩」に振り回されないようにするためのアドバイスがあれば、ぜひ教えていただきたいです。

稲田:まず、そういう三大煩悩(貪・瞋・痴)があった時に、その状態に気づくことが大事です。メタ認知、客観視することですね。

まずは気づかないことにはそのものから離れることもできませんし、怒ってしまった時に自分を責めてしまうと、余計に煩悩を駆り立ててしまう。さらに余計な苦しみが生まれてしまうこともあります。

まずは「私、怒ってるな」「私、今すごく欲望が出てしまってたな」とか、「私、すごく自分の世界に入り込みすぎちゃってたな」という、自分の状態に気づくことが一番大事です。それがほぼすべてだと言っても過言じゃないと思います。それが修行のすべてみたいなものです。

身近な話で言うとSNSで誰かが誹謗中傷をしているのを見た時に、心がざわざわしてきますよね。例えば、「この人、なんでこんなこと言っているんだろう」と嘆く気持ちは、自分の思ってる通りの言動をしてほしいという欲望が根底にあったりします。

さらに、「最低!」と怒りを向けることはもちろん、「こう思っているに違いない」と勝手に他者を断定することも全部煩悩なんですね。もちろん、誹謗中傷が絶対に許してはいけない行為であることは大前提として、ここではあくまで自分の苦しみと向き合う方法を話していますが。

「この人にも何か事情がある」という妄想を挟んでみる

稲田:とはいえ、攻撃的な言葉に出会った時に、そんな煩悩に自覚するくらい冷静になることって難しいじゃないですか? そういう時に僕がやっているのは、仮でそこに別の妄想を入れていくことです。言葉があるところには、必ずその言葉に表れていない「思い」のような、別の欲望があると思っています。

ーー言葉の背景があるということですね。

稲田:そうですね。他者に向けられている攻撃性はすべて、たぶん心の穴みたいなものから生まれているんですよ。不安であったり、孤独であったり、満たされなさであったり。そんな攻撃性を向けられたり向けている人を見た時に、自分もその攻撃性を感じてしまわないないほうがいいと思っていて。

例えば、誹謗中傷している人を見た時に、「この人にも何か事情があるんだな」と1つ想像を挟んでみる。「過去にすごくつらいことがあったのかもしれない」とか、その人自身がなぜそれを言っているのかを妄想してみるんですね。

それができると何がいいかというと、「他者の心を見る」のは、「自分の心を見る」というところにつながってくるんですよ。結局は鏡なんですね。

自分の世界は、「自分が目の前のものをどう認識するか」の連続でしかない。つまり自分が見ようとしているものが、無意識に自分の世界に反映されてるんですね。

仏教で言うと「縁起」の話ですよね。この世のすべてのものがつながっていて、何一つとして独立して存在せず、他者から与えられている。その「他者」も、結局自分がどう認識するかによって見え方が異なってくると思っていて。

なので、誹謗中傷している人に対して「すごく攻撃的な人だ」と認識してしまうと、結局自分自身もその煩悩に引きずり込まれてしまって、心がざわざわしてくると思うんです。だからこそ、その怒りの奥にある心の弱さに目を向けるんです。

他者を見て想像することで、自分の心の弱さにたどり着ける

稲田:仏教では「仏性」と呼ばれる、誰もが悟る可能性、種子のようなものが与えられているという考えがあります。だから、憎いと思う人が目の前にいるとき、憎しみの根源をその人に帰着させるのではなく、その人の思想でもなく、環境がそうさせてしまったと見るといいと思うんです。いわば、心にバグが生じていると。

「相容れない奴だ」としてすぐに断定する前に、「その人はなぜそういう言動をしているのか」を想像することで、結局は自分自身に矢印が向き始めるんですよ。「自分もそういうことがあるな」って、他者を見て自分の心の弱さにたどり着ける。なので、僕はそういう妄想を1つ挟んでますね。「すべてにおいて事情がある」と思ってます(笑)。

それでも自分と相容れない時は、その人が赤ちゃんの頃の姿を想像するんですね(笑)。僕自身、面倒くさい人に絡まれることもたまにあるんですけど、その時はその人がお母さんにおっぱいをもらってるところを想像すると、とりあえずは負の感情がなくなります(笑)。

ーーかわいく思えてきますね(笑)。

稲田:「この人もいろんな紆余曲折があってこんなことを俺に言うんだな」と、事情を想像するための1つの方法ですね。

思い込みには、別の思い込みを重ねる

ーーSNSもそうですし、リモートワークでチャットだけでコミュニケーションすると、表面の言葉だけで受け取ってしまうんですよね。「絵文字も何もないけど、これ怒られてる?」って、不安になったりします。そういう時に相手の事情を想像してみると、楽になるかもしれませんね。

稲田:そうですね、かなり大事です。でもそれが行きすぎると、貪瞋痴の痴、つまり「思い込みの苦しみ」になっちゃいます。自分の苦しみをなくすという目的のもとにやっていれば大丈夫だと思いますが、これも向き不向きがあるから、なかなか難しいですね。時には事情を想像すると「自分が悪いんだ」と思い込んじゃう人もいるし。

あ、そうだ。上司の言葉の受け取り方は、僕もすごくわかるんですよ。僕は大学院時代に指導教員の先生の文面がめっちゃ怖かったんですよ。しゃべればめっちゃ優しいんですけど、(文面だけ見ると)「絶対怒ってるやん!」ってなるんです(笑)。

メールのコメントでも、「考えられません」みたいなことを書いていて、布団の中でもずっとその言葉が頭の中でぐるぐるしてて。「うわー、先生怒ってる……」みたいな。でも、いざ電話してみれば、ぜんぜん怒ってないということがよくありました(笑)

これってまさに「思い込み」ですよね。「痴」になってしまっていて、抜け出すのはけっこう難しいんです。だから僕はいつも「思い込みには別の思い込みを重ねる」ということをやっているんです。プラシーボ効果重ねじゃないですけどね(笑)。

そういう時は、すごく元気な友だちに相談するんです。わざと、絶対ポジティブなことしか言わない友だちを選ぶんですね。「先生がこういうことを言っていたんだけど」って相談したら、「いや、そんなのぜんぜん怒ってないっしょ」って、当たり前のように言うわけですよね。

僕は思い込みが強いほうなので、「あっ、そういうことかもしれんな」と急に思いはじめるんです(笑)。つまり、ポジティブなやつに自分の意識を書き換えてもらっているんですよ。自分1人の世界から他者の視点、特に元気な友達にレイヤーを1つ重ねてもらうだけで、だいぶ楽になりますね。

悩み相談って、基本的にそういう意味があるんだろうなと思ってますね。僕は悩み相談されると共感しすぎちゃうので、あまりやらないようにしていますけど(笑)

ーーなるほど。受け取った言葉に対する「思い込み」を変えることが大事なんですね。

仏教が大事にしているのは、「言葉に縛られない」というスタンス

稲田:最近のメンタルヘルス事情ですごく思うことは、「言葉によって振り回されてる」ということですね。さっきのSNSの話で言うと、Twitterとかは自らの言葉によって自分も苦しめられてしまっているし、他者の言葉に対しても、ある意味他者を固定してしまっている。そういう「言葉」というものに、どう向き合っていくかが仏教のやっていることだと思います。

ずっと言っていることですが、言葉に依存しすぎるのはよくないんです。「言葉」に対して、仏教が大事にしているのが「言葉に縛られない」というスタンスです。言葉自体が、固定観念を生んでしまうからです。

仏教は「固定観念が苦しみの根源だ」と説くメカニズムの思想なので、何かを一言で言い表した時は、便宜上ただ言葉をおいているだけなんです。語られていないものもあるし、実際はその言葉では何も表現できていない。かつその言葉が、なにかしらカテゴライズしてしまっていることに対してすごく繊細なんですね。

特に禅の言葉では「不立文字(ふりゅうもんじ)」という奥義みたいなものがあって、「悟りというものは言葉では表現してはならない」というルールがあったりします。

最近ベストセラーといえば、ビジネス書や自己啓発本ばかりになってしまっていますが、それらによくあるのが「言葉」によって自分をアップデートしていこうとするものですよね。もちろん短期的にはそれに救われる人もいるとは思うので、全面的に否定はしないのですが、それだけに固執するのは危ないと思います。

そこに忘れられている気がするのは、自分自身だと思うんですよ。常に言葉は事象に対して借り物でしかないので、言葉では抑えきれない自分が出てきて、いずれしんどくなると思うんです。

「言葉に負けねぇぞ」という仏教の信念が表れている「マイ仏教用語」

ーー私もSNSなどに振り回されている感覚があって、すごく疲れた時期がありました。その時に、仏教の「思うがごとく」という考え方に触れて。自分の思いどおりにならないからつらいのであって、そこからちょっと距離を置くと少し心が楽になったり、解放される気がしました。稲田さんの著書にも「生きるのって無理ゲー」と書かれていましたが、今の時代は本当にそうだなと思います。

稲田:でも、本当に無理ゲーですよね。「親ガチャ」とかも流行っていますけど、仏教から言うと、一切皆苦という言葉があるように、親だけじゃなくて「人生ガチャ」ですからね。

ーーなるほど(笑)。言葉に囚われないようにというお話もありつつ、先行きが見えない時代なので、最後に何か支えになるような言葉や、稲田さんが救われた「マイ仏教用語」があれば、教えていただけないでしょうか。

稲田:仏教って金太郎アメみたいに、どこをどう切り取っても仏教だし、一文が全体を表しているから選ぶのに迷うんです(笑)。でも、その中でも好きな言葉はこれかな。

「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、ことごとく長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」

これが一番好きですね。岩波文庫で『ブッダのことば(スッタニパータ)』という本も出ていて、スッタニパータと呼ばれる経典の中の翻訳文なんですが、すごくいろんなものを並べた上で、「全員幸せであれ」って言ってるんです。

これのどこが好きかって言ったら、列挙している行為自体にすごく意地を感じるんですよね。ふつうなら「万物は幸せであれ」でいいはずじゃないですか。「多様性」という言葉で煙に巻かないスタンスがあるんです(笑)。できるだけ全部挙げてやろうという姿勢に、言葉に負けねぇぞという仏教の信念が現れていると思っていて。

便利な言葉に頼らずに、ひたすら想像し続ける姿勢。そこが好きだなと、今初めて気づきました(笑)。

2500年前の言葉でも古くならない理由

――ありがとうございます。すごくいいお話ですね。確かにわざわざ列挙されているところに、釈迦の目線を感じますね。

稲田:そうですね。この中には、もちろん過去もあるし未来もあるし現在もあるし、見えないものも含まれている。すごいですよね。この列挙する意地があるから、たとえ2500年前の言葉であっても、古くならないんだと思ってて。

この言葉が与えてくれているのは、この言葉自体の意味だけではなくて、釈迦自身の姿勢なんですよ。僕が心にいつも置いておきたい言葉は、こういう身体性のある言葉ですね。

――確かに今までのお話とつながっていますね。視点や意味、言葉の概念に囚われすぎないことが大事だなと思いました。お話ありがとうございました。

『世界が仏教であふれだす』(集英社)