最も新しい「アイデンティティ経済学」

ジャン=ポール・カルヴァーリョ氏(以下、カルヴァーリョ):みなさん、こんにちは。お招きいただきましてありがとうございます。そしてWIRED JAPANの編集者のみなさま、本日はアイデンティティ経済学についてお話をする機会をいただきましたこと、感謝いたします。

本日までの100年、我々の科学と技術は目覚ましく進化してきました。けれども、社会学や心理学の進化に関しては、比較的まだまだといえるでしょう。例えば人種間の争いや対立といった昔からの課題は今も残っています。今や私たちはポケットにコンピュータを携えて歩いていますが、まだ様々な兵器による脅威は残っています。

そしてまた新たな課題も出てきています。現代社会の新たな課題の中心は、アイデンティティです。本日は、この話をしたいと思っております。これに関して、様々な事例から観点を学んでいきたいです。社会経済的な振る舞いを、アイデンティティという概念から紐解いていきたいと思います。

複雑な世界の中の多様なアイデンティティ

まず、いくつかのアイデンティティ経済学の原則についてお話をしたいと思います。これは抽象的な原則で、また多くの領域もありますので、いろいろな場面に適用することができます。

2つご紹介をしていきたいと思います。その前にまず、これらの原則を、それぞれの領域にどのように適用させていくのか、鍵となるポイントに触れていきたいと思います。この経済学は、どのようにアイデンティティについて理解を深めてくれるのでしょうか。

私が経済学に初めて触れたのは、大学生のころでした。けれど、その時の所感は感激からはほど遠いものでした。みなさまご存知の通り、大学生のころ語られていた経済学の主体、経済学でいうところの個人モデルは、匿名のただの平均化された一個人であり、歴史の流れにはまったく関係のない者であったかと思います。

我々はそのような世界に住んでいるわけではないですし、私が生まれ育ったのもまったく違う世界です。私はスリランカのコロンボで生まれました。私のモチベーションは……私は社会経済学者なので、できる限り客観的に話をするよう心掛けてはいるのですが、この部分は主観的なお話です。

なぜある特定の研究を始めたのかという疑問の答えは、最終的には「分からない」ということにあります。みなさんと同様に私も、自身の深層部分に関してはよくわからない、未知の部分があるわけです。ですので、おそらくこうではないだろうか、という推測をお話しできたらと思います。

スリランカは、インド洋の島国です。小さな国で、さまざまな貿易ルートの中心にありました。そのため、さまざまな民族、宗教、そして言語が溢れ多様性がある都市でした。また、違う社会との交流、アート、建築、食文化などといったものすべてが混じり合い、影響しあっている環境でした。

文化的に非常に豊かな世界でした。これは、多種多様な建築物にも表れています。例えば、スリランカの建築の父と言われている、ジェフリー・バワの建築を見ても明らかです。建築の中には、原住民としての要素と、欧米のモダンな設計思想が共存しています。

けれども……この調和の取れた世界にも民族的、宗教的な対立が起こりました。1983年のコロンボでの内乱です。暴動が起こった当時、私は家族とともにオーストラリアに移住しました。

非常に複雑な世界です。社会的なやりとりもありますし、多種多様な形でのアイデンティティがあります。けれど、これらの話にでてくるアイデンティティは、大学の経済学で学んだアイデンティティとは異なるものでした。きっとみなさんの経済学の理解とも、異なるでしょう。だとすると、経済学にて定義されるべきアイデンティティの理解は、どのように深めるべきなのでしょうか?

経済学のなかに「個人」を定義する

経済学的なアプローチを、はじめの部分からお話したいと思います。この経済学的なアプローチというのは、まずは個人が主体です。個人は、もちろん環境によっては制限や制約があるかもしれませんが、選択をすることができます。そして環境を再形成することもできます。意思決定者の最もシンプルなモデルはこちらになります。

ここに、個人がいます。完全に切り離された孤立した状態で、選択をします。例えば、商品Aを買う、または商品Bを買うといったような。そしてこの個人は、社会という概念からは切り離されています。

けれども、経済学的な考え方では、もう少し良い見方をします。普通の経済学では個人に、市場や、あるいは価格の原理などといった、相互作用効果が介入してきます。

ですので、今回の場合は、より多くの商品を売買するということになります。価格は、ある人が買えば上がります。そうすると、反対側の人々はこの商品を買う量が減っていきます。このような相互作用は、市場原則の中では起こり得ることです。けれども、人間とのやりとりという面で考えると、いささか物足りない印象を受けます。

ここでの個人は孤立した状態で、互いに社会の中では切り離されています。ここでは、市場、お金、取引のみを取り扱っていることとなるので、経済学としては非常に狭い視野となってしまいます。

経済という概念は、人間同士の相互作用のことも視野に入れて、もう少し広範に見ていかなければなりません。18世紀に経済学者もそのようなことを考えてきました。そして、今はそういった全体的な考え方が、アイデンティティと経済を結びつけるという点に関しては、昔に回帰をしています。

個人同士のネットワーク

では、人間という主体のモデルに肉付けをしていきましょう。社会経済学です。ここに、市場と社会との相互作用を加えていきます。この相互作用は、社会経済学的なやりとりの中で、市場のみを介してではなく、主体同士が直接関わっていきます。

この場合の、個人を見ていきましょう。ここでの個人は、社会のネットワークの中に組み込まれています。個人がいて、個人には名前があって、そしてネットワークのノードになっています。このつながりは、社会経済学的な意味合いをもってつながっています。

この社会的相互作用によって、市場が形成されています。社会の相互作用があってこそ、この市場の存在が見えてくるのです。例えば「なぜ昨夜このレストランに行ったのですか?」と聞くと、「レビューが良かったから」という返答が返ってくるかもしれません。これが、社会的相互作用になります。

または、「なぜMacに乗り換えたのか?」という質問をしたとします。「同僚がMacを使っていたから」という返事がくるかもしれません。また、「なぜあのハンドバッグを買ったのか?」「このブランドが人気だったから」「なぜその投資戦略を採用したのか?」「専門家からアドバイスをもらったから」といったやり取りも社会的相互作用の結果となります。

では、さらにこのモデルに肉付けをしていきましょう。社会的経済学の中に、アイデンティティを盛り込んでいきます。ここに、社会的分類によってカテゴリー分けされた個人がいます。

(スライドを指して)今回は青と赤で区分してあります。この場合のアイデンティティは、さまざまな社会ネットワークを網羅している状態です。これはアイデンティティを抽象化したもので、それぞれ赤と青がつながっているところもあったり、赤が青につながっていたりしています。

これは、多種多様な場面に現れる、具体的なアイデンティティに対して当てはめることができます。例えば、青が男性で赤が女性といった性別、あるいは民族。この宗教を信じている、あるいは信じていない、または特定の宗教ということもあるかもしれない。それとも自国民そして外国人、といったような、いろいろな社会アイデンティティを表現することができます。

個人に付着するカテゴリー

けれども、ここで鍵となるのは、それぞれを個人として取り扱っているのではなく、社会的に分類をしているということです。さて、ここで疑問がでてきます。このような社会的カテゴリーは、我々の振る舞いにどう影響するのか、また我々の振る舞いに対してどのように形成をされていくのかを、考えなければいけなくなるわけです。

1点目に、ある特定の状況においては、この社会的分類はさまざまなカテゴリーに区分されるため、個性を区別するのが難しいです。ということで個人の名前は消えます。主には社会カテゴリーのメンバーであるというかたちで、ある条件のもとで取り扱われます。その際の、事例もご紹介していきます。ここでの効果・影響ですが、さまざまな既存の社会経済関係を網羅し、そして社会ネットワークに対しても影響していきます。これは、実際の社会のネットワークの中に同類項というものがあります。

例えば、この主体は自分たちの集団の中では同じようなところとつながり、そしてほかの部分とは分断されています。友情に関しても、同じことが言えるのではないでしょうか。自分たちと同じ文化思考、政治的な思考や、あるいは経験、理想、ゴールといった社会クラスなどという概念、同じものに対して共感してそれがグループ分けされていくのです。

これをアイデンティティに可視化できることもあるかもしれません。さまざまな場面において、当てはめるというようなこともあるでしょう。けれども、このようなかたちにしていくと、それぞれの主体の間でのリンクが弱まるというケースも出てきてしまいます。

カテゴリーによる分断

極端な場合には、ネットワークが2つに分かれてしまうというケースです。それぞれは均一ですが、主体は自分たちの内集団同士しかつながらないというかたちになっていきます。

例えば、米国の政治的な趣向を考えていきましょう。ここでは、非常に多くの極端な分け方が行われています。そのような状況では、共同体の中での対立や、あるいは民族の対立が生まれていきます。

例えば、先ほどのスリランカの事例です。これは、ある特定のシンプルな信念の変化によって引き起こされてしまうケースが起こりえます。例えば、赤が、青が突然攻撃してくる、と思いこんだとしましょう。また、青を攻撃しなければ、ほかの赤が自分たちを攻撃してくるだろうと思ったとします。そうすると、そこではすぐにさまざまなグループ間での関係が分断されていきます。

このネットワークがそれぞれ均一な、バラバラの集団に分かれていきます。そして2つの間には対立関係が生まれます。これは、共同体の対立の中にはよくあることです。けれど、事実を見ているだけでは、前兆やサインを見抜くのが難しい場合が多いです。

どのような状態で対立が生まれるのか、ということを知るのは難しいです。このようなかたちのグループマーカーがなかった場合、既存の社会そして経済的なネットワークを網羅したかたちになっていくものを予見するのは、難しいのです。