「噂のマイコン少年」と言われていた学生時代
――まずは、戀塚さんがプログラマーになったきっかけをおうかがいします。中学生の段階でプログラマーになることを決めていたとのことですが、どのような経緯があったのでしょうか。
戀塚昭彦氏(以下、戀塚):小学生の時の家庭用コンピューターはマイコンと呼ばれていて、使い方としては、プログラムを作る以外ありませんでした。そもそもソフトウェアそのものが入手できないというか、自分でプログラムを作るか、雑誌に掲載されたソースコードを打ち込んで、それを実行したり自分で改造したりするのが基本で。
カセットテープに保存したソフトウェアの販売とかも一応ありましたが、小学生的には高くて、わざわざ買うのは大変だったので、欲しいものは作る必要がある世界だったんですね。そのため、あの当時にコンピューターを始めていれば、プログラムを書くのが当たり前。プログラムを始めるのは、コンピューターを始めるのと同義だった感じです。
その当時はインターネットなんてまだ存在しない時代なので、情報交流をする場所は、雑誌か、直接の友だち同士のつながりしかありませんでした。誰かがパソコンを買ったとなったら、使い方がまずわからないので、わかる人を探します。そんな時に、私によく声がかかって、あちこち遊びに行って教えつつ、私もいろいろなパソコンを使えて楽しいということを繰り返していました。
なので、周囲ではよく知られたマイコン少年みたいな感じになっていて。「パソコンが周りの人よりもだいぶ得意だから、仕事になるんじゃないか」と思ったという感じでしたね。
――すごいですね。周りからの評価は、ご自身の自信にもなっていたのではないでしょうか。
戀塚:そうですね。中学の段階でプログラマーになるという選択は、つまりは高校を情報系の高校にするという選択だったわけですが、その時もちょうど運がよく、一番近所に情報系を含む総合技術高校が新設されて、1期生を募集していました。
中学を卒業して高校入学のタイミングで、ちょうど1期生だった私の中に、「コンピューターは新しい機械のほうが性能が高くて楽しい」という考えがあり、なるべく設備が新しいほうがうれしかったので、周辺にも既存の高校で募集しているところはありましたが、新設校が一番楽しそうということで、そこに行きました。そうしたら、今度は先生方に「噂のマイコン少年がやってきた」みたいに言われていたみたいで。
1期生なものだから先輩がいなくてやり放題というか。最初は設備が全部は揃っていなくて、高校2年になる時に実習棟が完成しました。初めて汎用機の大型のコンピューターから基盤までを使える環境ができるということで、1期生の生徒たちで開封の儀をやったりとか。そんなこともやっていましたね。
先生方にも恵まれていて、先生方も期待にあふれていたというか、新しいことにチャレンジするような人たちでした。実習棟の校舎も設計も先生方が自分でやっていたようなレベルで。
その設備ができた時に、生徒たちに「これらの設備はピカピカだけど、とにかくどんどん使って壊せ」と言ってきたんです。「壊すことを恐れてはいけない。むしろ壊すことは大歓迎だ」と言われて、もうバンバン遊びました。あれはすごく恵まれた環境でしたね。