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ナーブ多田英起氏(全2記事)

「ゲームは買わない、自分で作る」 多田英起氏、VR事業のナーブを起業するまでの苦労物語

不動産事業や観光事業、ブライダル事業、教育事業など、さまざまな事業分野で利⽤可能な企業向けVRコンテンツ配信プラットフォーム「ナーブ・クラウド」を運営するナーブ株式会社・多田英起のインタビュー。自らの生い立ちやVRのテクノロジーに出会うまでのエピソードを話しました。※このログは(アマテラスの起業家対談の記事)を転載したものに、ログミー編集部で見出し等を追加して作成しています。

父から「ゲームは買うのではなく、自分で作る」と教わった幼少時代

アマテラス藤岡清高氏(以下、藤岡):まず、多田さんの家族構成や生い立ち、小さい頃の思い出について教えてください。

多田英起氏(以下、多田):家族構成は、父母と姉が1人、それと僕の4人家族です。生まれは西宮ですが、最初の記憶があるのは愛知の御油というところで、その後、香川に引っ越しました。

父は自動車の設計や電気系を扱う仕事をしており、パソコンが好きでした。小学生時代、近所のお兄さんがやっていたドラクエやスーパーマリオをやりたくて「ファミコンを買って欲しい」と頼んだら、当時マイコンと呼ばれていた、今でいうパソコンのようなものを与えられました。

「これではゲームができない」と言うと、「自分で作れば良い」とマイコン入門の本を渡され、読めない漢字と格闘しながら夜中までかかってじゃんけんゲームを作ったのを覚えています。

藤岡:小学生が、独学でプログラミングしたのですね。

多田:難解な説明書より、むしろプログラムの方がわかりやすかったです。

当時、作成したゲームはカセットテープに保存したのですが、僕はテープの端の白い部分に録音してはいけないことを知らず、翌日再生してみると折角作ったプログラムが消えていました。今でも忘れられない思い出です。父からは、そのような方法で「ゲームは自分で作れるのだ」と教えられました。

飽きるまで遊んだ後、勉学の楽しさに目覚めた工業高校時代

藤岡:学生時代のお話も聞かせてください。

多田:高校は工業高校に進学したのですが、ここが「勉強しろ」とまったく言わない学校でした。何も言われないのを良いことに、授業も聞かずに月曜日にはジャンプ、水曜日マガジンとサンデー、それからチャンピオンと少年漫画を読みまくり、毎日忙しく暮らしていました。

でも、面白いことに、1年もするとこういう生活にも飽きてきました。それで仲間と「やることないね。久しぶりにプログラミングやろうか」という話になり、改めて取り組んでみたら本当に面白くて。

藤岡:自発的にプログラミングの勉強を再開したのですね?

多田:当然授業もあるけれど、勉強となるとつまらない。それよりも、映画『バックトゥザフューチャー』に出てくる「ホバーボード」という浮き上がるスケートボードを作りたいと思いつき、そこから一心不乱に物理学の本や色々な論文を読み漁るうちに、いつの間に勉強がすごく楽しくなっていました。

遊び飽きたころに、知識欲求が満たされる楽しさに気が付き、「いくらでも知りたい!」となったわけです。工業高校ならではの充実した設備や先生方の協力を存分に享受することができ、恵まれた高校生活が過ごせたと思います。

英語力ゼロで渡ったアメリカでの、ビジネスとの出会い

藤岡:多田さんは大学時代をアメリカで過ごされたようですが、どんな生活だったのでしょうか?

多田:高校卒業後は世界に視野を広げたいと考え、「アメリカの大学へ行こう」と思い立ち、英語もわからないまま、とにかく行ってしまいました。

インターネットと出会ったのもこのころです。当時、日本はPC-98(PC-9800シリーズ)擁するNECが全盛期でした。ネットスケープが登場し、「インターネット革命だ!」と世の中がわくわくした時代でしたね。

ところが、ボストン空港に降り立ったらどこにも日本語はなく、全部英語じゃないですか。「Departure」と「Arrival」の看板でさえ全くわからない。最終便で到着したので、どんどん空港の電気が落ち始めて焦りました。

唯一持参した『これで完璧ガイドブック』という本には、挨拶は「How are you?」だと書かれていたのに、いきなり「How are you doing?」と言われ、すぐに本が役に立たないこともわかりました。

藤岡:最初は語学学校に入ったのですか?

多田:そうです。最初に入った語学学校でも、英語を使って英語を習うことに苦労しました。買い物でもレストランでも全ての意味がわからず、生命の危機を感じるレベルでしたから。

語学学校を卒業した後も、MIT(マサチューセッツ工科大学)に行きたかったのに落ちてしまいました。

藤岡:東大よりも難しいですからね。その後、どちらに進学されたのですか?

多田:結局、ボストンではノースイースタン大学とウェントワース工科大学で学びました。ノースイースタンはビジネスに強い大学なのですが、勉強してみたらものすごく面白く、「よし、ビジネスだ!」とそのままビジネスにメジャーチェンジすることにしました。

アメリカでは食生活の違いや言葉の壁、そして大学の授業の進め方の違いなどに辛い思いもしましたが、銀行のインターンなど貴重な経験もすることができ、やはり大変楽しかったです。

部下を救ってくれた恩義からエーピーコミュニケーションズに入社

藤岡:アメリカから帰国後の生活についてお聞かせください。

多田:帰国直前に父が骨髄腫という病気で倒れ、実家に戻ることになりました。闘病中、母は「骨髄腫友の会」に入りさまざまな情報収集をしながら父の面倒を見て、僕はひとまず仕事には就かず、父が好きだった登山に付き合って四国中の山を登ったりして、久しぶりに家族との時間を過ごしました。

一緒に過ごすうちに、改めて父に対するリスペクトの気持ちも湧いてきました。父の人生は「こういうふうに終われるのはすごくいいな」と思える人生だったように思います。

父の亡くなった後、仕事を始めました。最初に入った会社は大企業過ぎて思うような仕事が出来ずに辞め、その後転職したベンチャー企業は入社後間もなく経営危機に陥りました。

そこで、当時所属していたチーム10人くらいで就職活動を始めました。幸い僕はすぐに内定が決まったのですが、部下の就職活動のために100社くらい面接を受け、「僕の部下にこんな人材がいるのですが、御社のお役に立てると思います」と話しました。会社が潰れて部下が路頭に迷うのだけは避けたいと思い、必死でした。

でも、経験の少ないエンジニア2人だけどうしても決まらず困っていたところ、最後にエーピーコミュニケーションズ(APC)に拾ってもらいました。何度か会ううちに、僕の顔がみるみる疲れてきたのを見て、救いの手を差し伸べてくれたのです。この決断に大変恩義を感じ、結局僕も3年間の約束で、彼らと一緒に入社することにしました。

退職願いから一転、新規事業立ち上げへ

多田:そして、約束通り3年後に退職を申し出ると、社長から「3か月間、何でも自由にやって良いから頑張ってみないか」と声をかけていただき、有難く受けることにしました。

とは言え、たった1人のプロジェクトでどうすれば良いかわからず、まずはお付き合いのあったIIJに相談の電話をしてみると、「500万円出す。それで何を作るかは、一緒に考えよう」とチャンスを頂けることになりました。そして、新しい組織を立ち上げることになりました。

藤岡:素晴らしいですね。これが今のVR事業の始まりですか?

多田:いいえ、まだです。当時、会社ではITコンサルをやっていたのですが、コンサルだけでは少々面白みに欠けると感じていたので、それに加えてシステムの構築から導入、さらにその後の補償まで丸ごと提供してみたら面白いのではないかと考え、チャレンジしてみることにしました。

これが成功し、次のステップとしてNTTやKDDIと一緒に我々にしかない技術を開発して技術に特化したイノベーションを起こそうと、様々な事業を開始しました。その中の1つにVR事業があったのです。

その時点では組織も40名ほどの大所帯になっていたのですが、事業が順調だったこともあり、VRにはかなりの額の投資を行いました。ただ、残念ながら売上はゼロでした。

藤岡:当時VRは最先端過ぎて、発注元も理解が追いつかなかったのではないですか?

多田:はい、お客様はNTT研究所だけでした。でも、VRには大きな可能性を感じて、「この技術で世の中が変わる」と確信しました。そこで、もっと世の中が変わる新しい研究をしなければと思いました。

失敗の繰り返しから辿り着いた「未来の当たり前をつくる」という経営方針

藤岡:その後、事業全体としては順調だったのでしょうか?

多田:色々な分野に取り組みましたが、失敗の連続でした。

その中でも一番苦い経験が、とある企業のクラウドサービスです。そこから国内のクラウドを発展させようと考えたのです。

国内の通信キャリアがプライベートクラウドを提供すれば、市場企業がパブリッククラウドの3倍あるので、パブリックの代表のAmazon Web Serves(AWS)に勝てるのではないかと考えました。しかし、全く歯が立たず、最終的にはAWSの1強になってしまいました。

藤岡:確かにあらゆるところに入っていますね。なぜ負けてしまったのでしょうか。

多田:最大の要因は、「視線の先」の違いだったと思います。僕らはひたすらAWSを意識し、機能も価格も全て彼らとの比較で売り込んでいました。一方、AWSは僕らの方を一切見ていませんでした。ただシンプルに、変えたい未来だけを見据えて進化を繰り返していました。

「勝てないかもしれない」と諦め始めると、ダイレクトコネクトを使って我々の牙城だったプライベートクラウド市場まで徐々にAWSに喰われだして、悔しいけれど完敗でした。

技術面では絶対に負けていないはずなのに、提供するサービスは相手が遥かに優れているということに、非常に危機感を覚えました。

実はこの「技術的には勝っていたけれど、なぜか負けた」という言葉は、日本のエンジニアがよく言う言葉です。しかし、負けたという事実に間違いはない。この言い訳は一回捨てようと思いました。

「勝った人」と「負けた人」ではどちらの学びが大きいかというと、僕は「負けた人」だと思っています。

その負けた経験を活かし、以後真剣な投資に集中するようになりました。気にするべきは損益分岐点でも他社が提供する機能でもなく、「自分がどのように世界を変えたいのか」ということです。

1位がいて、アメリカにこんな会社があって、その会社を追いかけて、みたいな話は絶対面白くないし、勝てない。未来の社会のビジョンは自分たちで描いた方が絶対面白いはずです。

来年の自分達よりももっと色々作りたいし、もっと早くリリースしたい。来年の自分達をどうにかして超えたい。すなわちそれは「自分たちが社会をどう変えるか」です。

藤岡:それが多田さんの現在の経営方針に繋がっているのでしょうか。

多田:「ナーブの60回の失敗」と言っているのですが、僕は数多くの失敗を繰り返して来ました。でも、失敗と改善を繰り返せば世の中に近づくし、もっと高速回転で繰り返して行けば自ずと未来が見えて来る。

僕らがやっていることは結果的には世界を変えることになり、それが世界の当たり前になっていくはずです。決して凄く難しいことを世界最速でやろうとしている訳でも最先端を走ろうと思っている訳でもなく、ただシンプルに「未来の当たり前」を作っていきたい。それが僕らの今の方針です。

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