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アジアの子どもたちを救い続けて20年の医師が語る、これからの国際人道支援(全6記事)

難病の子供ひとりと多数の患者、どちらを救う? 岐路に立たされた医師がとった決断とは

ミャンマーを中心に、東南アジアで人道支援活動を続けるジャパンハート・吉岡秀人医師。20年間、計1万人以上の子どもたちを救い続けてきた同氏ですが、かつて「難病の子ども」に対する医療方針について究極の選択を迫られることがありました。重病を患う子どもに対し、親や医師はどのように立ち向かうべきなのでしょうか?(IVS 2014 Springより)

親だけは見捨てなかった難病の少年

吉岡:この子はなにかというと、実は首の腫瘍なんですけど、現地の病院で既に2回治療を受けているんですね。手術を受けたけれど、再発した。それで、僕のところへ治療をしてくれと来たんです。さっきの手術室にですよ。皆さんにお教えしたとおり、麻酔もないんです。医者も僕しかいないし。

こんな首のでっかい腫瘍なんて、僕1人でやったら手術中に死ぬに決まっているということで、僕は家族に話したんですよ。申し訳ないけど、麻酔医が来たらやりましょう、ということで話してたんです。

だけどそうこうしているうちに、僕が現地でもらっている医師免許が切れたんです。そして、僕は帰らなければならなくなった。僕はどうせ麻酔医なんか日本から来ないだろうなと思っていたんです。だからこの子には本当に申し訳ないけど、もうどうしようもないというふうに思っていたんです。

そして僕は帰ったんです。帰って、もう1度僕の免許が出たのはそれから半年後。もう一度戻ってきたんですよ、2004年の初めに。その間、半年後じゃないや、2、3カ月だったんですけど、この子を最後に診てからは半年以上経っていたんですね。僕はもうこの子は死んでいるだろうなと思っていたんです。

でもやっぱり、僕は見捨てた後悔があったんだと思うんですね。見捨てたこの子はどうしているのかなと、探しました。今僕が働いているところから150キロ離れたところに住んでいる、町の名前だけは覚えていたんです。

この子が死んでいるかどうか確かめようと思って。なぜかというと、少しお金を、新聞社がやっている基金がありまして、これをもらえるかもしれない、ということになったんです。結果的にはもらえなかったんですよ。もらえなかったんですけど、もらえるかもしれないという目処が立ったので、もしかしたらこの子を治療するために国外へ連れ出されるかもしれないと思ったから、探しに行ったんです。

もう死んでいるんだろうな、と思っていたんです。150キロ行って、町へ入っていろいろ話し、子どもの名前と親の名前を言って、とうとう探し当てたんですね。

そしたらこの家の中で、小さなかごに入れられて、もう動けなくなっていたんです。耳元にあてがわれたラジオを聴かされて。どんな状態だったというと、こんな状態になっていたんですよね。こうやって、この状態でまだ生きていたんです。ウジがたくさんわいて、ハエがたくさんたかるもんですから、動けなくなっていました。

だけど親はね、この子どものことを非常に大切にしていました。しかし私たちが行った時には、すでにお金がもらえないことがわかっていたんです。また、どうしようかなと。

だけどもうどうしようもない、ということは自分で分かっていたんです。この場に及んで、この子は、僕は助けることはできないと思っていたんです。

なぜかというと国外に連れ出すというのが、当時のミャンマーでできなかったんです。なぜかというと、ミャンマー政府は公にこう言ってたんです。ミャンマーというのは医療は遅れていないと。国民が海外へ出て医療を受けることなんて必要ない、と言っていたんです。本当は政府の高官たちはどんどん海外へ出て医療を受けているんですよ。だけどそう言ってたんです。

その中で、この子を海外へ連れ出すことも非常に困難だということを、僕は理解していたんです。この時、僕はこの子を見て、そして「今度また様子を見に来るよ」と言って、最初は帰ろうとしたんです。次、診にくるときは死んでいるんだろうなと思いながらも、帰ろうとしていたんですけれども、だけどふと思ったんですね。

自腹覚悟で、日本の大学病院にて手術を敢行

自分は今まで医療をやってきて、この子を見捨てて、例えば1年後、2年後にたくさんの人たちを迎えても、なんか意味あるのかなと思ったんです。それは、現地の患者たちのためには意味があるかもしれない。だけど、僕の人生にとって、それは意味あるのかなと思ったんですよ。

それでたくさんの日本人、一緒に行ったスタッフが数人いて、そして現地人の人たちも、もうそろそろ帰るんだろうなと思っていた時に、僕は後ろ振り返りましてですね、こう言ったんですね。「今から、みんなの力を貸してほしい」と。今やっているその150キロ離れた場所の医療活動を僕はいったん停止したい、と言ったんですよ。

今からこの子どもを助けるために、みんなで動かないかと言いました。お金は無い。無いのはわかっていると。だけど、無いのはわかっているんだけど、お金はまた働けばいい、僕も日本で働く。だからこの子をとにかく助けようじゃないか、と言ったんです。

それから1人1人ビザの交渉をする係、日本政府の大使館にビザを交渉する係、パスポートをミャンマー政府に頼む係、日本の病院にあたる係と分かれまして、全員が動き始めたんですね。そして日本政府は、すぐにビザを出してくれました。普段出さないんですけど。そしてパスポートセクションのミャンマー人たちも、軍人たちもみんな協力してくれまして。この子の話をすると、そしてあっという間に準備が整って、日本へ連れて行くことができました。

けれども飛行機会社は乗せてくれませんから、この子を赤ちゃんみたいに身ぐるみ包んで、寝たふりさせて飛行機の中へ突っ込んだんですけれども。そして日本の国立病院で、僕が小児外科を学んだ病院ですが、ちょうど小児外科の僕の恩師が院長をしていたので、そこへ話に行って、そして、この子の手術を敢行しました。

これ、手術のあとです。帰るときですよ。この恩師に僕が呼ばれるんです、食堂に。日本でこんな手術したら何百万とかかるじゃないですか。(手術の)途中で事務の人が僕のところへ来て、言わなくていいのに「500万過ぎました」とか言うんですよ。それでも、僕はもういい。覚悟はできているから、いくらでもいいなと思っていたんです。

そしたら最後、院長に呼ばれまして、「吉岡、おまえいくら払える」と聞かれたんです。僕はいくらでも払うつもりだったから、「いいですよ、いくらですか」と言ったんです。「いくらでもいいです」と言ったんです。そうしたら、「いや、いくら払える」と。

「ご飯を好きなもん食べろ」と言われたから怪しいなと思っていたんですけれども、何回も「じゃあいくら払える」と言うから、「いくらですか」と逆に聞いたんです。そしたら指3つたてられたんですよ、じゃあこのぐらいでどうだと。僕は途中で500万と聞いていたから、えらく負けてくれて、300万に負けてくれた、と喜んでいたんです。そして「300万ですか?」と言ったら、「いや30万でいい」と言われたんです。

続けて僕の恩師がね、院長ですけど、「吉岡、ここの病院には600人、700人の人間が入院しているから、子ども1人分ぐらいの食糧は余る。そしてCTスキャンを動かすことは、テストでも何回もやることだ。この部屋も、僕の裁量でいつでも無料にする子どもたちがいる。だからお前が払わないといけないのは、かかった原費だけでいい、それだけでいい」と言ってくれたんですね。

そして30万だけいつ払うかと言われたから、「今すぐに払います」と言ってすぐに払いました。あとで値上げされたらかなわないので、それで払ったんですけれども。

少年の回復とその後

そしてそれから、この病院に僕は10人近い人間を海外から連れて行きまして、手術を、それからはもう無料でしてくれるようになりました。だいぶ前ですけれども、『夢の扉』(TBS)という番組に僕が出たときに、この子の最後の様子が載っていますので、それをちょっと見せます。

(映像開始)

ナレーター:あれから4年、この日ウィン君が訪ねてきたんです。

現地の人:こんにちは、チョー・スー・ウィン。

ナレーター:すっかり元気になったウィン君。6歳になりました。

ウィン:先生、僕頑張ったんだよ。

吉岡:でっかくなったな。

ナレーター:実はウィンくん、手術後も病気の後遺症で立つことも歩くこともできませんでした。でも懸命のリハビリの結果、歩けるようになったというのです。先生の前で歩きたい。それがウィン君の願いなのです。見事吉岡さんのところまで歩ききったウィン君。4年前には想像もできなかったほどの回復ぶりです。

ウィン君父:先生は本当に命の恩人です。歩けるようにまでしてもらって、出会えたのが奇跡です。

ナレーター:ウィン君。今日最後のお願いは2ショット写真。

ウィン:先生、かっこいいよ。大きくなったら僕もお医者さんになるんだ。

ナレーター:患者の笑顔、どんなにつらくてもこの宝物がある限り、吉岡さんは戦い続けます。

(映像終了)

吉岡:はい。今も元気にしていまして、非常によく勉強ができる子になっているらしいですね。

最期の迎え方

この子は何かというと、助かる子ばっかりでもなくて、やっぱり死んでいく子もたくさんいるんですね。

この写真は死んだあとにいただいたんですけれども、実はもっと大きな子、28歳の女の子だったんです。9歳のときに脳炎になりまして、それから寝たきりになるんですね。脳性まひみたいになって、その子がどこも診てもらえないということで、最後に僕のところにかかるんですね。3週間ぐらい、生きるか死ぬかの境をずっとさまよっていたんだけど、結局だめで亡くなったんです。

家族が、この子どもが赤ちゃんの時の写真を僕のところへ届けてくれたので、その写真なんですけれども、このお兄さんお姉さんがその子を24時間看るんですよ。日本でも寝たきりの脳性まひの子って、やっぱり肺炎を起こしたりして早く亡くなっちゃうんですね。人工呼吸器があるわけじゃないので、現地だとなおさら厳しい状況ですね。

ですけど、28歳まで生きたのはなぜかというと、やっぱり家族がもう兄弟で、親子で、一生懸命に面倒をみるからなんです。この子はもう、言葉はしゃべれないんです、身体も曲がっているし。だけど本当に家族と一緒にいると、知能は正常なので、本当に幸せというか、信頼しているし、本当にこの子はもう十分、家族に面倒みてもらって幸せなんだろうなと思ったんです。死んでいくときに。

でも、今もう命が切れようとする瞬間、心電図がピーッとのびていって、血圧もふれなくなって、ほとんどゼロになったときに僕は「しまった」と思ったんです。なんで「しまった」と思ったかというと、この子はもう充分家族に感謝しているし、幸せだったと思う。だけど、この家族がまだ救われていない、と思ったんです。

最後助けてあげたかったのに、またこんなふうになって、本当に家族が、このあと家族が救われていなかったと思ったんです。そのとき僕は、看護婦さんたちにこういったんです。「ちょっと心電図止めてほしい」と。ほとんど心臓止まっていたと思うんですけれども、「もう心電図止めてくれないか」と、外させたんですね。

人間というのは心臓が止まったあと、脳が死んでいきますね。やがて血流が途絶えて、脳がどんどん死んでいって、最後に残るのは聴覚だと言われているんです。ビルマ人、ミャンマー人たちは仏教の国で、生まれ変わりというのを本当に信じているんです。人間は生まれ変わってくると。だから死者に対する未練なんてないんです。また生まれ変わるからですね。

その時に僕は家族に向かって、こう言ったんです。「この子は、おそらくみんなに感謝しています。日本でもこんなに生きられる子どもは少ないです。皆さんが本当にこの子のことを大切にしてくれたから、この子は本当に感謝してると思います。だけど、この子はこの命で十分健康に生きられなかった、だから皆さんにお願いがあるんです」と言ったんです。

「ぜひこの子が次生まれてくるときは、今度は元気に、そして長い長い寿命で生きられるように、皆さんでこの子のために、最後にこの子を囲んでお経を上げてくれませんか」と。ミャンマーは仏教の国ですから、お経を上げてくれませんかと言ったんです。

そしたら家族がこの子を囲みましてですね、今僕のいる病院中に患者がいたんですけど、その間はみんな黙ってそのお経を聞いていました。子どもを囲んで10分ぐらい、ずっとみんなでお経をあげていたんですね。それを僕もずっと聞いていました。それで10分ぐらいたったときに、僕は「ありがとうございました。もう心臓が止まると思います。これでこの子は次きっと、皆さんと兄弟であったり、親子であったり、また皆さんと共に生まれてくると思う」とそう言ったんです。生まれ変わりがあるかどうかは、僕はわかりませんが、そう言いました。

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