病院が隣にあっても医療を受けられない人たち

吉岡:ミャンマーというのは、最近よくテレビで出るようになりましたから、ご存知の方もたくさん増えたんですが、タイと中国とかインドとか、大国に囲まれた国なんですね。僕は1995年にミャンマーへ行ったんですけど、もちろん当時は軍事政権でした。そんな状況だったんですが、僕は全く、軍事政権が何かも知らず行ったんです。

僕は医者になった時、医者になろうと決意した10代の終わりに誓ったことがあります。それは何かというと、どうせ医者になるならば、絶対的に医療を受け入れられない人たちのためになろう、と誓ったんです。

例えば、日本には国民健康保険がありますね。日本のどこにいても、人は、外国人でもですよ。外国人ですら、病院にかかることができるわけです。日本には、お金がない人でも、低所得の人でも診なければならない病院というのがあるんですね。そういうふうに法律で定められた病院もあるんです。ですから、そういう病院は税金を免除されているんですね。ある程度、例えば済生会なんかそうですが、そういう病院があって、町中でバッタリ外国人が倒れても、この国は必ず病院に運んでくれるんです。

でも世界には、隣に病院があろうと、歩いて5分のところに医者が住んでいても、絶対に医療を受けられない人たちが存在するんです。その人たちのために自分は医者になろうと誓いました。

そして、10代の終わりに医学部を目指して、ちょうど30の時です、このミャンマーに行ってほしいということで、僕はミャンマーに行くことになりました。誰が僕にミャンマーに行けと言ってきたかというと、これは若い30の時の僕ですね。向こうの民族衣装を着ていますが、その隣にこっち向いているのが、今もう国連の偉い人になっている当時の若い現地の医者です。

日本とミャンマーの深い縁

実は僕をミャンマーという国に誘った(いざなった)のは、戦争の遺族の人たちなんです。ご存じのように約70年前の第二次世界大戦の頃、日本人たちはこのミャンマー、昔ビルマといったこの国に30万人従軍しました。30万人従軍して、なんと20万人が現地で亡くなるわけです。皆さん小説で『ビルマの竪琴』というのを知っている方もいらっしゃると思うんですが、「白骨街道」という名前が付いたぐらいの数の人たちが亡くなるんです。

これは当時、日本軍が残していった装甲車です。軽自動車よりももっと小さいですね。この小さな軽自動車みたいな装甲車でイギリスの大戦車隊と戦って、一発でこっぱみじんに吹っ飛ばされていく。あとは徒手空拳で戦っていくわけですが、そして20万人の方たちが亡くなる。そして戦後ずっと、遺族の方たちが慰霊を続けておられたんですね。

その遺族の人たちが毎年毎年行く度に、(ミャンマーの軍事政権は)どんどんどんどん社会主義の体制をひいて、経済状況が悪くなっていく。そして遺族の人たちは、医療を全く受けられていない現地の人たちを見まして、ぜひミャンマー行って現地の人たちのために働いてくれないか、僕のところへ依頼してきたのが、実は僕がミャンマーに行くきっかけになっているわけです。

今でもこうやって慰霊碑が無数に現地にあります。ですが、もう戦争に行った人も、その家族の人たちも、奥さんとかもですね、皆さんほとんど亡くなっていかれまして、今はひっそりとあちこちに古い慰霊碑がたたずむだけ、という形になっています。

これは向こうにあるパゴダと呼ばれている仏塔なんですけど、実はこれ、日本人たちが作った大きな大きな仏塔なんです。ちょっと画像だと見えにくいんですけど、壁にですね、日本人たちの名前が無数に刻まれているんです。ちょっと黒い、上下に刻まれていますが、無数にたくさんの人の名前がこう寄って刻まれているんです。そしてこれは、全部亡くなった人なんです。

ミャンマー、ビルマで20万人が亡くなり、10万人は生きて帰ってきているんですが、実はこの10万人の人たちもインドから撤退するなか、非常に傷ついたり、飢えたり、病で、また食べ物がなくなってもう歩けなくなって、または追われて、そういう人たちが実はその途中でミャンマー人たちに囲まわれるわけです。

そのなかで、あるいは傷の手当てをしてもらう、あるいは食糧を恵んでもらうということで、10万人が生きて帰ってこれたんです。その人たちが日本を、戦後をささえてきたということになります。

実は僕、あとでわかってきたんですけど、今、僕が現地で医療をしている多くの人たちというのは、お金がない人たちです。先ほど言ったように、治療を受けることができない人たちに対して、僕は医療をしているんです。けれども、実は農家の、ずっと代々農家をやっている人たちっていうのは非常に現金収入が少なくてですね、もう病気なんかしたら病院にかかることができない。こういう人たちが僕のところに来ているわけです。

僕は最初に行ったころ、向こうの人たちを朝の5時から夜の12時までずっと診ていたんです。そしてふと、この人たちは、ずっと貧しい地域の人たちなんだけど、この人たちの親とかおじいちゃんやおばあちゃんが、実は日本人を救ってくれた人たちなんじゃないか……ということに、僕は気付くんですね。

人間というのはこうなっていて、人生というのはこうなっていて、世の中というのはこうなっていて。実はこうやって何十年もたって、彼らのじいちゃん、ばあちゃんが日本人に施して、助けてくれて、それが50年も60年もして、僕がたまたま偶然かもしれないけども、ここにやってきて、現地の人たちにこうやって今度は逆に医療をして現地の人たちを助けていく。世の中っていうのはうまくなっているもんだと、こういうふうに思いました。

遠くからやってきた患者でも、断り続けるしかなかった

だから僕、現地の人たちを一生懸命に診たんです。

これ、ピンク色の服を着て奥に座っているのが30歳のころの僕なんですけれども。この会議している場所、奥のほうに、鉄柱みたいな細いものが見えますね。これがなんと向こうの病院なんです。下は土です。看護婦さんも1人しかいない。これは市民病院の次のくらい、例えば国立病院ぐらいのレベルの病院なんです。医者なんていないんです。病気した人たちは、ここで治療を受けるわけです。

そこには医者は存在しなくて、看護婦さん1人だけ存在しているんですね。最初に行った地域というのはディストリクトというんですが、その中に40万人近い人口がいます。8万人の大きな街とその周辺地域に分かれるんですけれども、その周辺32万人に対して、このレベルの病院が2つしかないんです。そのうち1つはここ。このレベルだったんです。

僕が行った1995年というのは、ミャンマーというのはこのレベルの医療しか提供できていなかったんです。ですから、お金がないという問題もありますが、医療そのものがなかったんです。なぜかというと、非常に経済的にも制裁を受けている国であって、そして今の北朝鮮と同じように、軍隊、軍事費にどんどん回るわけです。インフラの整備に回っていると、保健とか福祉というのにはお金が回っていかないんです。ですから保健のサービスができていないような状態。この中で始めました。

朝から晩まで僕、一生懸命に診たんですよ。一生懸命に診たんですけれども、そのうちですね、どんどんどんどん「先生、手術をしてください」って人がやってきたんです。病気になって、抗生物質を買う、痛み止めを買うお金すらままならない人が手術を受けられるかといったら、それは難しかったです。それでもどんどんどんどん、僕のところへ来る。

交通費ですら借金です。借金でやってきているんです。でも僕のところへ来ても、医者は僕たった1人、あとは通訳の人、事務をやってくれる人が居ましたが、医療者はたった1人。そして、何もないんです。手術する道具もない。麻酔の機械もない。麻酔をかけてくれる医者もいない。何もない。

そういう状況の中で患者に、「申しわけない。僕には今、あなた、この子どもを治療するものは何もないんだ」ということで、いつも返していたんですね。せっかく2日間も3日間もかけて僕のところへようやくたどり着いてきて来てくれている人たちだから、その背中は非常にさみしくて、それを僕は何人も何人も見送ったんです。

子どもたちの現実を見ると、逃げることは出来なかった

そんな感じで、後でお見せするようないろんな病気の人、子どもだちを僕はずっと帰しているんだけれども、ある時、うすうす感じていたことを、スタッフにもう1度確認したんです。この子どもたち、僕のところに来て、僕が返してしまっているこの子どもたちは、生きている間に治療を受けられるのかと聞いたんです。あるいは5年先でもいい、生きていたら5年先でもいいから、この子どもたちは治療を受けられるのかと。

そうするとどの現地人、ミャンマー人たちが一様に僕に話したのは、「先生それは無理だよ」と。「彼らにはお金がなさすぎて治療はもう受けられないと思う。彼らは一生あのまま生きていかなければなりません。この国にはこの病気を治療できる医者がほとんどいませんから、彼らはおそらくそのままなんです」と言われたんですね。

僕は、20歳前に医者になろうと決心して、30歳の時にようやくここまでたどり着いたんです。ようやく、僕が医療を届けたいと思っていた子どもたちの前にたどり着いた。だけど、また大きな壁が僕の前に立ちはだかったんですね。

その時に、僕はいつも言うんですけど、神様から聞かれていると思ったんですね。お前はよくここまで来た、10年かけてよくここまでたどり着いたと。だが、お前はこの後どうする。このまま進むのか、それともこのまま引き返すか、決めろ、と言われていると思ったんです。これは僕の人生のターニングポイントになりました。そして僕はその時、やろう、この子どもたちを手術していこう、というふうに決めたんです。

これもいつも言うんですけれども、僕がそのときに手術をできる条件なんて全く考えられませんでした。道具もない、人もいない、医療者も僕以外、誰もいない。その中でどうやって手術をするんだと。僕は手術をしないと言っても、誰も僕のことは責めなかったんです。僕だけは、あとで自分のことを後悔したとは思いますけれども。そういう中でやろうと決めたんですね。

ダメだ、出来ないと思っている間は、出来ないという理由ばっかり自分の中に出てくるんです。ですけど、やろうと決めた瞬間に、やらなければならないと思った瞬間に、その後はそれを突破するためのアイデアが1つ、また1つと、自分の中に思いついていくんですね。

そして、当時ろくな道具がなかったんですが、パキスタン製の道具を買い集め-日本の道具に比べたら天と地の差があるようなものですが-、注射器を1つ1つ買い集め、薬を1つ1つ集め、そしてようやく数カ月後に手術をするところまでたどり着きました。

僕は人道的な支援としてやろうと思ったんじゃないんです。手術を求める子どもたちが僕の前に次から次に現れて、そしてもう僕はその子どもたちの現実に押し倒された-というのが正直なところだと思うんですね。この子どもたちはこのまま生きていくのか、というふうに思っただけで、僕はもう耐えきれなくなったんでしょうね。それで僕は、手術を始めることにしたんです。

障がいを抱えたまま生きていく子どもたち

これもそうですね。これ赤ちゃんですけれども。

これ火傷の子どもですね。

これも10歳の火傷の子どもですね。

これは口唇裂と言われている疾患です。

この子も口唇裂。

この手術も、日本では形成外科医というのがありまして、非常に難しい手術の1つとして、形成外科医でも非常に特別の人たちがやる手術なんですけれども、こういう子どもたちが僕の前にどんどんどんどんやってきて。でも死ぬ病気ではないんです。この病気は死ぬ病気ではないんですけれども、でもこのまま生きていかないといけないんですね。

最初は手術室すら手製だった

僕は何をしたかというと……この画像は2003年、もう1度僕がミャンマーで子どもの外科を学び直していたときのものです。これは何かというと、僕が用意した手術室です。これが手術室なんです。ただ木でベッドを作らせて、向こうで比較的ましな部屋を借りまして、そこにビニールのシートひいて、これです。麻酔の機械も何もないんです。この中で血管麻酔を使って、局部麻酔を使って、そして品素な道具を使って、手術を始めました。2003年でもこれだったんですね。

あれから10年経ちました。だから、先ほどお見せした映像なんかまだマシで、当時はもうそういう状態でした。ここからスタートした感じです。ここに立っているのはその当時の看護婦さん。この中で始めたんです、こんな感じのところでね。

これは村に行って、なんか首の手術をしているところです。すぐ向こうに土があって、自転車で通っているおじさんがいますが、こういう形で村でも手術を始めました。

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