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#わたしたちの生存戦略 WE Launch Event DAY2 「社会システム」編(全9記事)

宮台真司氏が指摘する、歴史的に長く続いているものの価値 持続したものは、一挙にではなく徐々に変えたほうが良いワケ

“社会課題の解決” という社会ニーズの市場化を加速することを目的とした、社会事業家の有志連合「WE」。このWE主催で、4日間にわたって行われたローンチイベント「#わたしたちの生存戦略」の2日目は、社会学者の宮台真司氏、デジタルガレージ共同創業者の藤穰一氏、立命館大学の小川さやか氏、そしてヤマップの代表・春山慶彦氏が登壇。社会彫刻家/Next Commons Labファウンダーの林篤志氏のモデレートのもと、民主政を機能させるためのポイントや、インドネシア・スンバ島で行われる貴族間での“馬交換”が生むものなどが語られました。

小さな共同体が無数にある世界における「地球規模の問題」への対策

林篤志氏(以下、林):ちょっと視点を変えてみたいと思います。理想的な共同体の規模感と、我々が向き合う社会が抱える多種多様なレイヤーの課題に対しての話です。

僕自身は今、新潟県の山古志村という人口800人の限界集落でプロジェクトを行っています。もう山古志村という行政区は存在せずに長岡市の一部になっていますが、その山古志村でNFTを使って、デジタル村民・デジタル住民票を発行して、世界中からそこにメンバーが参画をしています。

別にそこにスマートコントラクトが実装されているわけでもなんでもないんですけども、そのNFTという、デジタルアートを介して新しい関係性が生まれ、新しい交流が生まれ、新しい文脈ができています。山古志という文脈が、デジタルとリアルを交錯しながら形成されつつある、そんな可能性を少しずつ感じているわけですね。

小さな共同体、冒頭で宮台さんがおっしゃった国民国家レベルで解決するのは難しいというお話ですね。例えば僕個人が向き合っている問題としては、日本の地方自治体です。

そもそも旧来のフレームワークはかなり劣化していて、このまま存続し得ないということに対して、いわゆる小さな共同体、新しい共同体が分散的にできあがることによって、私たちはそこで生き延びられるし、そこで仲間を見つけられるし、助け合えるんじゃないかという発想に至るわけなんですね。

昨日のスピーカーであった石山アンジュさんがコメントとして残してくれてた1つの懸念なんですけれども、一方でそういう小さな共同体が分散化した世界では、例えば「地球規模の問題を解決するプレイヤーが不在になるんじゃないか」ですね。コミュニティの中の文脈は成立したとしても、コミュニティ同士の分断とか対立を加速してしまうのではないかという点です。

つまり小さな共同体が無数に生まれることで、本当にコモンズの悲劇みたいなものを乗り越えられるのか。そこについて問い続けていきたいと、昨日のセッションの中でお話しをされていました。

この小さな共同体という範囲を越えた地球規模とか、例えば今だったら国連とか、もしくは国家が担っている役割を誰が担っていくのか、どうなっていくのか。ここらへんの議論をしたいなと思います。

民主政を機能させるためのポイント

宮台真司氏(以下、宮台):しかし、それは決着がついている議論です。ヨーロッパでいわゆるコミュニティ・ミュニシパリズム(共同体自治)というのがバルセロナから出てきていますが、それは実はEU的な自明性が存在することが前提なんです。

EUはいわゆるサブシディアリティ(補完性)の原則と言って、自分たちでできることは自分たちでやり、できないことについてはそうした複数のユニットを統合した行政レイヤーを下から上へと順番に使っていく。その頂点は国家ではなくて国家連合で、場合によっては世界政府だよというのが、いわゆる補完性の原則の考え方なんですよね。末端は民主政で、上層に昇ると共和政に近づきます。

ミュニシパリズムとは、ヨーロッパの伝統で言えばルソー主義です。ルソー主義は僕の言う「ルソーの定理」に基づくものです。ルソーの定理とは何かというと、ある政治的な決定があった時に「自分としてはいいけど、あの人はどうなっちゃうんだろう、この人はどうだろう」というふうに、まず想像できて、次に気にかけることができる場合にだけ、民主政が機能するという内容です。

その時に初めて、その決定は「みんなの、みんなによる、みんなのための決定」になる。つまりそれが一般意志、Volonté généraleだよというのがルソーの議論ですね。そこでは決定についてオーナーシップが問題になっていると言えるし、損得は損得でも個人の損得ではなくて、集団全体の損得が問題になっているとも言えるし、リソースを用いたコントロールではなく自生的なフュージョンが大切だとしているとも言えます。

しかるに、そのようなレジームは、匿名圏が発生しない小さい範囲でしか働かないでしょうということで、『社会契約論』のルソーは、2万人が民主政のマックス・ボリュームだと考えたのです。その2万人が、ヨーロッパでは実際に自治体の基礎的な単位として考えられています。これを基礎自治体と呼びます。

そういうミュニシパリズムの延長線上で全体を考えていく時に、当然ながら、かつての軍閥闘争が象徴するような「ホッブズ問題」(各人が功利的に行動する時にいかにして社会秩序を実現するかという問題)が問題になります。「万人の万人に対する闘争」が「すべての基礎自治体のすべての基礎自治体に対する闘争」にならないかという問題です。つまり、民主政的なスモール・ユニット同士が共和できるのかという問題です。

今日成功しているミュニシパリズムは、例えば食の共同体自治とかエネルギーの共同体自治から見てもわかるように、テクノロジカルな連携なしには無理です。それを拒絶すれば、「文明的な退行を辞さない」というおかしな決意表明を伴う共同体を営まなければいけなくなり、それは宗教的カルトに似たものになります。

実は、共同体自治のカルト化の可能性は、潜在的にはいつもあるので注意が必要です。とは言え、そんな文明否定的なカルトは、人をさして集められないので、残念というか幸運なことに、民主政的な自治的共同体が相互に共和できるかどうかは所詮は歩留まりの問題になります。自治的共同体がテクノロジカルであるほど歩留まりが高まるという摂理になります。

今日では、ミュニシパリズムは、それを貫徹しようとすると、互いの補完性、社会学で言う有機的な連帯を構想する以外にはありません。それ以外の道は、人々が文明的な生活を要求する限りはありえないので、全体の共和の不可能性は、あまり心配しなくていいでしょう。例えば「うちの共同体だけで全面的に自給自足できます」というかつてのコミューンみたいな共同体をどれだけ地球上に作れますか?

なので、むしろ問題は、誰もが「1人に1つのメタバース」に閉じこもって、AIが作り出したNPC(ノン・プレイヤーズ・キャラクター、AIが作り出したキャラクター)と仲良く遊ぶようになることで、リアルな共同性や、共同生活の前提になる気候変動や戦争の問題を、気にしなくなってしまうことです。しかし、コミュニティ・ミュニシパリズムにおいては、まさにその危惧が、コミュニティを支えるための共通の問題意識になるんです。

市場価値に流通する馬とは異なる、“交換財”の馬

小川さやか氏(以下、小川):そうなんだろうなとすごく思うんですけど、もともと林さんがおっしゃっていた石山アンジュさんの話は、たぶんもうちょっと世界観の規模が小さいんじゃないかなと個人的には思っています。

デジタル村民は、錦鯉の何かを売るんですよね。それもちょっとだけ、例えば村以外の社会とうまくつながるような。それをテクノロジー的にできないかなと、今日伊藤先生とお話しするのをすごく楽しみにしていました。宮台先生もファンだから楽しみなんだけど(笑)、ちょっとうちの大学院生の話を、YAMAPとも関係するのでしてもいいですか。

:どうぞ。

小川:いきなり、すみません。人類学の社会の話なんですけど。私は本当にいつもアナーキーな社会をやっているので、アナーキーで何が悪いと思ってる人なんですけど(笑)。うちの大学院生がスンバ島(インドネシアの小スンダ列島にある島)の馬の話をしているんです。スンバ島はもともと貴族、平民、奴隷の社会階層があって、昔は奴隷が贈与・交換されていたんですけど、それが今は馬になってるんですよ。

この馬はほとんど交換財でしかなくて、もはや貨幣のような役割を果たしているんですね。社会的通貨です。今では馬は市場でも手に入るんですけど、貴族集団同士で同盟を結んだりする時に使われる交換財の馬は、市場価値で言う馬とは違うんですよ。「速く走る」というようなこととは違っていて。

1つは同じ毛色、同じ毛並みを集めないといけないんです。そうしないと親族がバラバラになっちゃうから、というようなイメージを持ってるんですね。ままならない自然や他者に親切にした見返りとして、たまたま手に入る「ラッキーホース」がいるんですよ。馬は自然なのでままならないし、現代の生殖技術では完璧に同じ体格、同じ色の馬は産まれないわけです。『クリプトキティ』だったらできるかもしれないけど(笑)。

だから1の条件を満たして、あるA貴族・B貴族が同盟を結ぶためには、まず別のC、D、Fのようないろんな貴族からお馬さんを集めないといけない、というゲームにいそしむことになるわけです。

さらにこのゲームもちょっと複雑で、同じ毛色集めの成否を含め「なんだか俺、最近運よくない?」となるような、風向きを左右するラッキーホースちゃんがいるわけです。このラッキーホースちゃんを獲得するためには、まず自然である馬に敬意をはらって親切にしないといけない。

とは言え馬は自然で気まぐれだから、親切にしても必ずラッキーホースを届けてくれるわけじゃないんです(笑)。それでも信じてお馬さんに働きかけると、いつかラッキーがやってくる、という発想で生きているわけです。

貴族間での“馬交換”が生むもの

小川:これはすごくおもしろいゲームの仕掛けだと思います。抽象化すればすべての馬が感情を持っているわけじゃないけれども、たまに感情を持っている貨幣がいるわけです。大半はただの馬だけど、何頭か感情を持っている馬がいる、ドボンゲームみたいになっているんですね。私の予想だと、これはもともと貴族と奴隷のノブレスオブリージュからきていると思うんですよ。世界に親切にしないといけないよ、というような(笑)。

ただ全部の馬が人格や感情を持っている世界は、ほとんど監視社会だと思うんです。何か悪いことをしたら「お前はドボンだ」と言われると最悪じゃないですか(笑)。そうすると今度は人間が馬の奴隷、つまり貨幣の奴隷になっちゃうと思うんです。だからそのラッキーは、ほとんど偶然なんですよ。それでも何か良いことをしないとラッキーはこないという信念だけはあるんです。

この「たまにヤバいやつがいる」というのが大事で、その親切と見返りの因果が不明瞭で、ある程度偶然のバグが入っている感じなのです。神さまの気まぐれですね。ふだん貴族は自分の野心に執心して、交換ゲームをして財を獲得できるけど、あまりに世界をないがしろにすると不運がやってくる。

このほどほど感で回る人間社会の「世界がこうあったらいいな」を馬という貨幣で物理的に可視化して、市場交換と並行して贈与交換の世界を維持しているのがおもしろいと思っています(笑)。

常に気前よく善人でないと痛い目にあう規範や信仰に基づいた世界は息苦しいけど、でもこの世界のどこかしらはモノや自然との循環の中で成り立っていて、その思いの集積を無視しない程度には良いことがあるかもしれないという希望があるのもいいんじゃないかと。

これをもうちょっと普通の社会でやると、例えば色つきトークンのようなものがあって。そのトークンで「A社の取引のために全部赤トークンで揃えなきゃいけないけど、財布に青トークンと黄色トークンしかないから、嫌いな人とも取引して赤トークンを集めないといけない」という設定を組み込む。

しかもその嫌いな人に頼み込んだ貨幣がラッキートークンだと「やっぱり嫌いな人間にもたまには親切にしておかないとな」という気分が出てきますよね(笑)。

人生はギャンブルだから、くさくさしていてもいろいろやっていると回ってくることもある、という世界をたぶん古代の社会は作っていたんだと思うんですよ。こういう私の人類学的世界観の中では、けっこう自然・アニミズム的な話、人格、マネー、そして社会が異なる社会グループを橋渡ししないと成功しないというのが、それなりの自生通貨として動いていると思うんです。

こういうのを例えばテクノロジーで、『クリプトキティ』のレアキティちゃんを作るとかじゃなくて(笑)、論理体系としてガンガン埋め込むことはできないんですかね? ということを聞きたかったんです。

歴史的に長く続いているものの価値

宮台:前置き的なコメントをすると、キーワードは保守主義だと思います。エドマンド・バークがフランス革命の同時代に提唱した考え方です。これは伝統主義とはまったく関係がなくて、「我々の理性のキャパシティが限られているので、長く続いてきた社会のゲームがなぜ続いているのかを我々は理解できない。だから、社会を一挙に変えるのではなく、少しずつ変えるべきだ」という思考です。

これはインクレメンタリズムとも言われますけれども、何かを変えるにしても、だんだんと行うことが必要なんだということですね。これは、もちろん分析を放棄していいということではなく、その逆で、我々が知的な限界を抱えているからゲームが長く続く理由が簡単には理解できないと言っているんであって、むしろ知的な分析をし続けることを推奨しているんです。

今、小川先生に出していただいた話は、何かが長く続いている理由を知的に分析しながら、分析がすべてをカバーしているとは主張しないという、非常におもしろい例です。最後のほうに小川先生がおっしゃった「確かにこれは持続可能だよな」と思えるようないくつかの合理的な知恵の集積があります。しかしそれは誰かすごい人たちが考えたというよりも、「歴史的に長く続いてきている」ことによって信頼が担保されてきたということが、やはり重要です。

社会学者イヴァン・イリッチとか人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの発想も、その意味では、伝統主義ではなく、保守主義です。長く続いてきたものを思考停止で尊重しろという発想ではなく、長く続けることができた合理的な理由を説明しようとしているからです。その意味で、持続可能性についてのテクノロジストの知的な妄想ではなく、実際に万年スケールで長く持続した生活形式や感情的働きの合理性を知的に分析することが大切です。

バークの有名なセリフで、「塀を動かすのであれば、塀がそこにある意味を十全に理解してからにせよ」というものがあります。今日的にはこれは機能主義的な思考です。機能はあまたの視座、機能的準拠枠ごとに記述できるし、「これらが機能的準拠枠のすべてである」という主張は原理的にできないことに注意が必要です。その意味で、社会システム理論における機能主義的な思考は、バーク流の保守主義に親和的です。

人間には、ジェノミックなさまざまな「身体性の限界」があると同時に、マーク・ハウザーがトロッコ問題の解釈で述べた「感情的働きの限界」があります。「身体性の限界」は(マルティン・)ハイデガーが言うように技術で上書きされ、「感情的働きの限界」は(マイケル・)サンデルが言うように社会の文化で上書きされてきましたが、二人に共通した警鐘は、上書きがやがて逆立(ぎゃくりつ)になりうるということです。

この変曲点を僕らはまだ十分に把握しておらず、原理的にクリアカットな指し示しが不可能かもしれません。

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