自己啓発本で言われていることは、だいたい仏教が言っている

――稲田さんは、著書の『世界が仏教であふれだす』やフリーペーパーの『フリースタイルな僧侶たち』、またご自身のSNSなどを通して、仏教に関するユニークな発信をされています。先行きが見えない時代と言われる中で、仏教に関心を持つ人も増えているのではと思いますが、稲田さんは「仏教」のイメージと実態のギャップについてどうお考えでしょうか?

稲田ズイキ氏(以下、稲田):僕が捉えている限りでは、同世代の世間のイメージは「仏教って宗教でしょ」という、「信仰」の印象がかなり強いです。遠い世界にあるものとか、ちょっと小難しいような印象を持たれている方がいると思います。

僕の本(『世界が仏教であふれだす』)じゃなくても、近所にいる僧侶に「仏教ってなんなの?」と聞いたらいいと思うんですけど、「普通にためになるものだ」という感想になると思うんです(笑)。現代人に合わせて仏教を説いているわけでもなくて、釈迦が最初に気付いて、仏教として説いた内容は、シンプルにめちゃくちゃためになることです。

仏教はどちらかというと「哲学プラス日常における実践方法」というのが基本で、「信じる気持ち」などはあくまで一部でしかないというのが僕の認識です。

僕の本の担当をしてくださった集英社の編集者が、たまたま僕の本の担当になったことで仏教に触れて、僕に「世の中の自己啓発本で言われていることは、だいたいすでに仏教が言っている。仏教って知恵のマスターピースじゃないですか!」と言ってきたんです。

それで「次回は『だいたい仏教が言っている』という本を書いてください」とか言われて(笑)。でも本当にそうなんですね。

仏教は想像以上にクリエイティブな思想

稲田:あと宗教や哲学は、「自分自身の感性が働かないこと」とか「想像の余白があまりない」と思われる方も多いかもしれないんですけど、仏教は想像以上にクリエイティブな思想なんですよ。詳しく話せばいっぱいあるんですけど、仏教には曖昧なままに残しておく性質があって、余白の領域がすごく多いんです。

例えば有名なところでいうと、「不立文字」という鉄則があって「悟りとは何か?」は、絶対に言語化しない。最後の最後は各々の感性に委ねている部分があります。そういう性質もあったり、釈迦が「私の教えは川を渡るための筏のようなものだから、向こう岸に着いたら筏は捨てなさい」と言っていたりと、そもそも教えを固定化しようとする性質もない。

だから、仏教の歴史って2500年の間に何回もアップデートが続いていて、すごいことになっているんですよね。

というふうに僕は割とフラットな目線で仏教ってすごいなと思っているんですけど、同世代の友達といざ話してみると、僕のことをお坊さんと認識した上で「稲田の家って神社だよね」と言われたりします(笑)

――神社とお寺の違いですね(笑)。

稲田:もちろん今20代でも仏教に可能性を見出している人はめちゃくちゃ知っているので、二極化している感じですね。

悲しいニュースや出来事への「過共感」がつらかった

――稲田さんは「僧侶も人である」と、自分自身の悩みをさらけ出していらっしゃって、そこにすごく親しみと共感を感じています。この2年間、コロナはもちろん世の中でいろんなことがあり、最近稲田さんが感じた不安や焦り、周りの方からどういった相談をよく受けるようになったかという傾向があればぜひ教えていただきたいです。

稲田:僕がなぜ「僧侶も人である」というスタンスを取っているのかというと、そういう人生相談が来ないようにしているんですね(笑)。今回は「自分が悩む」という前提で、自分が感じていたことを、自分でどう受け入れるようになったかについて話をさせてもらいます。

基本的に、実は僕はあまり悩まないんですね。もちろん煩悩はあります。欲望とかはすごくあるんですけど、基本的にはけっこう能天気で、ストレスをぜんぜん溜め込まない性質です。例えば今も口座に万札が一枚もがなくなっちゃったり、さっきも彼女の家のオーブンを壊したりしていて。

――(笑)。

稲田:それでも笑っていられる(笑)。「まあまあ、大丈夫。つらいこともあるでしょう」みたいに受けられるんですけど、唯一ダメなのは悲しいニュースや出来事です。昨日(10月31日)の京王線の事件も、一歩間違えれば十分テロでしたよね。実際に逃げている人の動画を見たりしていると、急に悲しくなるというかつらくなるというか、心がザワザワしてくるんです。

自分とは関係のない他人のことなのに、かなり心配だと思ってしまう。「過共感」というんですかね。共感し過ぎちゃう。それでかなり心がやられるタイプなんですよ(笑)。

ーーわかります。

世界と共感し過ぎたが故に、病気を患うことに

稲田:コロナもそうですよね。ずっと悲惨なニュースを見ているとしんどくなっちゃって。僕は最近自分のことを......、ゲームとかアニメのキャラクターにたまに「彼女自身が世界だ」みたいな設定あるじゃないですか?「彼女は世界の心とつながっている」という感じで、世界が荒れると彼女もしんどくなるし、彼女のメンタルが荒れるとこの世界も荒れるような、「巫女」みたいな名前で呼ばれるやつ。

僕、それなんですよ(笑)。世界が荒れると、僕もやはりしんどくなっちゃうんです。特に扁桃腺が腫れるんですよね。

世の中が荒れだすと扁桃腺が腫れるので、僕の扁桃腺はたぶん世界とつながっているんだなと思っています(笑)。コロナに関しては、軽度ですぐに治ったんですけど、「メニエール病」という神経系の病気に診断されて、耳鳴りがしたり難聴になったりしました。この世界と共感し過ぎちゃうんだと思います。

――共鳴し合うんですね(笑)。

稲田:ニュースで流れてくる、店を畳まないといけなくなった人の話とかをどうしても見ちゃう。Twitterでもすごく切羽詰まっている人たちや、不安だと思っている人たちの言葉を無意識に取り入れてしまって、ちょうどコロナが流行り始めた去年の春頃は、めちゃくちゃ気が塞いじゃっていましたね。

仏教では「偏り過ぎる」ことがつらさの原因と説かれている

――私もニュースを見て、悲しい気持ちになって涙することがあります。「過共感」って、ある意味「慈悲深い」ということなのかなと思いました。

稲田:そうとも捉えられますね。『維摩経(ゆいまきょう)』という経典に、「衆生病むがゆえに、我は病む」という言葉があるんです。あまり知られていないけど、『100分de名著』(NHK)でも選ばれてる、すごくおもしろいお経です。

基本的に、お経の主人公って、だいたいは釈迦なんですよ。もしくは釈迦の弟子たち。でも、維摩経だけは「維摩」っていういわゆる普通の人が主人公なんです。仏門に入っていない、野良仏教家みたいな人です。

初期仏教は「自分1人が救われる道」を追求していたんですけど、維摩経が成立した頃の後期の仏教では「世間の苦しみに寄り添っていきましょうよ」と他者とともに自分を救う世界観に展開していきます。それがまさに「世間病むがゆえに、我は病む」の一言に出ているんじゃないかなと思うんです。みんな苦しんでるのに、自分だけ悟った顔してるんじゃねぇ! って感じで。

それで、僕も「世間病むがゆえに我も病む」なんですよね(笑)。まあ後付けですけど。

ーー私たちもお互いに共感し合えたら、つらいと感じる人も減るのでしょうか?

稲田:し過ぎはあまりよくないと思いますよ。なんでもそうなんですけど、「偏り過ぎる」ということが、仏教ではつらさの原因だって説かれています。二項対立があった時に、どっちにも寄らずに常に超越するあり方を探さないといけない、というのが仏教なんです。

なので、共感し過ぎるというのもまさにしんどさの原因になりうるんですよね。もちろん1人になり過ぎるのもしんどいので、自分だけの世界になってる人は「世間病むがゆえに我も病む」的なスタンスを持った方がいいかもしれません。

しんどさの原因は、自分の都合で他者を見てしまっていること

稲田:「なんでこんなに自分がしんどくなっているのか」を自分なりに分析してみたところ、コロナがもたらしたものの本質は、「全員を同じスタートラインに立たせた」ってことだと思うんですよね。

「みんなが同じように感染する」という危険性によって全人類を均質化して、めっちゃ(自分と他人の)差を可視化してしまったんですよ。自分はこうだけど他人はこうするとかね。ワクチンとかが一番わかりやすいですけど。

普通ならなんでもない他者として処理できる情報が、すべて「自分から見た他者」として共感することのできる情報に変わってしまったということです。今は特にSNSをベースにして情報を取得する人が多くて、ただでさえ繋がりが過度な世界だから、その勝手な共感のし過ぎがしんどさを生んでいるんだと思います。

SNSやニュースを眺めていて「なんでみんなこういうことをしちゃうんだろう」とか「なんでこんなこと言っちゃうんだろう」と思う時がありますけど、他者を見過ぎていたり、自分の都合っていうフレームで他者を見てしまっていることがしんどくなる原因なんだろうな、ということだけはわかったんです。

「がんばろうとし過ぎる」ことも、しんどくなった原因の1つ

稲田:あと、別に悪いことじゃないけど、がんばろうとし過ぎてしまう。しんどくなった原因はそれも1つあると思っています。

実はコロナの最初の時期は、「お坊さんとして何かしなくちゃいけないな」と思っていたんですよね。『遊戯王』の闇遊戯みたいに、僧侶としての自分の人格が湧いてきて、「世の中のために何かやれ」みたいに心の中で囁かれるんです。

――「もう1人の僕」ですね(笑)。

稲田:このコロナに乗じてではないですが、ビジネスパーソンの方も、このタイミングでちゃんと組織が回るように変えないととか、このタイミングでWebに特化したコンテンツを出さないととか、実質コロナがマーケティングの機会になっていた部分もあったと思うんです。

振り返ると、実はお坊さんとしてもそういうところがあったんじゃないかという気がしています。頼まれたわけじゃないんですけど、何かしないといけないと思っていた時期もあって。とはいえ、僕に何ができるんだという葛藤があるし、まず自分自身がしんどかったたりもして(笑)。

だからもう振り切って、「何もしないでおこう」と(笑)。

――(笑)。

「あえて無意味なことをする」という自衛手段

稲田:「何もしないこと」って、実は一番難しい。最近『何もしない(How to Do Nothing)』という本が書店で売れてるらしいんですけど、僕は何もしないことをするために、「あえて無意味なことをしよう」と舵を切っていましたね。

例えば本当にしょうもないんですけど、なぜか無人島にいるような感覚になっていたので、近所の木の幹にサバイバルナイフで毎日「正」の字を書いたりとか。

――監禁されているわけでも、勾留しているわけでもないのに(笑)。

稲田:何かを封印しているわけでもないのに、部屋の壁に「封」という御札を貼ったりとか。何の意味もないんですよね。扇風機に自分の好きな文豪の顔を貼るとかね。「筒井康隆の風を感じるぞ」とか(笑)。「あえて無意味なことをする」ということをしていました。

「コロナでみんなが『しんどい』と言っている中で、なんで僕は何もせずに生きているんだ」とか、「自分が生きているのは何の意味があるんだ」という思いが湧いてきて、それでしんどくなっちゃうので、あえて無意味なことをするのはその対処法だったんでしょうね。

例えばゲームとかは「他人から与えられた意味の中で何かやっている」という感じがするので、そうじゃなくて「自分から何か無意味なことをやる」のがいいんですよね。自分のペースで無意味なことをしたかったんです。「自分自身の意味を問わない」という自衛手段はすごく身につきました。

「意味があることをやりたい」というスタンスは危うい

――確かに、コロナである意味「時間」ができましたよね。

稲田:そうなんです。さっきの「どういう悩み相談が増えましたか?」という質問で。コロナ禍でオンラインで講演をやった時にチャットを通して質問が来たりしてたんですけど。

そこで多いなと思ったのが、「意味があることをやりたいです」みたいな質問ですね。何が起こるかわからない世の中だから、例えば今のうちに「簿記を勉強したいです」「資格の勉強したいです」といった話がけっこう多かったですね。

「意味がある行為」を自分で判断してやるとなると、その意味がなくなってしまった時につらくなりますよね(笑)。そういう「意味」って、基本的に自分が決めているように見えて、実は社会が求める、世界が求める「意味」を勝手に想像して、それをやってしまっているということだと思っていて。

仏教では、この世界は無常で変わっていってしまう「諸行無常」なので、その世界が必要とする意味も、実はすぐ変わってしまうんですね。だからこそ、「意味のあることをしたいと思います」というスタンスは、すごく危ういというか、リスキーだと思っています。下手すりゃ、自分が生きている意味ごと吹き飛んでしまうこともありそうで。

「何事も意味がある」というスタンスがいいんです。「意味があることをする」というのはすごく怖い。だからこそ、自分はあえて無意味だと思うことをしていました。

『世界が仏教であふれだす』(集英社)