変化やギャップが大きいところにチャンスがある

藤堂高明氏(以下、藤堂):みなさま、こんにちは。奈良県に本社がございます、ファーストグループの代表をしております藤堂と申します。今日は短い時間ではございますが、何卒よろしくお願いいたします。

今日、みなさま方にお伝えしたいこと、お話ししたいことが3つあります。

「人生一度キリ」……なんかありきたりな言葉ですけどね。それから「他責からの卒業」。それから「地方と首都」という3点でお話をしたいと思います。

まず、「人生一度キリ。トコトン勝負する」とはどういうことかというと、相対性理論で有名なアインシュタインさんの言葉に「人類最高の発明は複利だ」という言葉があります。

ご存知の方も多いかもしれませんが、複利のすごさというのは、最後の25年目とか30年目の最後の5年とか10年の伸び率がすごいんですね。

運用当初の1年目とか5年目は単利運用とたいして変わらないんですけど、利息に利息がつきますから、最後の30年目がでかい。「今日は投資のセミナーか?」みたいな(笑)、違いますからね(笑)。

私は、人生も複利かなとつくづく思います。サラリーマンで通信会社で6年働いて、その頃は渋谷で勤めていたんですけど、辞めて、父親の田舎の会社を継ぐとなった時と今とを振り返ると、まさに人生も複利かなと。

何かというと、元本はお金じゃないんですね。我々には等しく持ち合わせた財産があります。これは命ですね。命=時間ですね。

この時間というものを元本に、そこにいかに利息を乗せて、人生の満足感や納得感を最大化させるのかと。「自分が生まれてきた意味があったよね」と死ぬ瞬間に思えたら最高だと思うんですよね。いつか死にますからね。

さらに思うと、厳しい環境で優秀な人たちのなかでがんばるのもいいんですけど、投資の基本はやはり人が目をつけていないというか、「安く買って、高く売る」という基本のところだと思います。

変化とかギャップが大きいところって、実はチャンスがあるんですけど、誰もそこに価値を見出していないというところがあるわけですね。このへんをお伝えしたいなと思っています。

30歳で迎えた人生の転機

私がサラリーマンを辞めて、父の会社に入社したのが平成15年です。今、13年経ちまして14年目です。

私にとっては大変なことだったのですが、今思えば幸いというか、戻って2年目ぐらいで父親が体調を崩しまして、4年目に肝臓を悪くして他界してしまったということで、社長を継ぐわけなんですけれども。私にとっての人生の転機は、まさにその30歳の時でした。

(スライドを指して)写真は、当時働いていたNTTコミュニケーションズという会社です。今はもうスマホとかネットの時代ですけど、当時はまだ学生のところに就職本を送りつけていて、ある年の会社の顔にさせられたというか、日比谷公園に呼ばれてパシャッと(写真を)撮られたんです。

細かいところは割愛させていただきますが、かなりやりたいことをやらせていただいていて、ネットで動画を配信するとか、自分なりに立ち上げたいろんな事業を2000年の頃にやっていて、成功体験を積ませていただきました。

感謝していたんですが、大きい会社だけじゃダメということで、転職しようと思っていたところに、父親から「奈良に戻ってこないか?」と声をかけられました。

私としても「一生サラリーマンで終わりたくない」というのがどこかにありましたので、父親からは「好きに生きていけ」と言われていたんですが、「継ごう」と決意しました。

ところが、帰ったときの会社の事業は、本を読まれた方はわかると思いますが、当時は不動産事業と、もう1つが車の自動車整備工場をやっていました。

私、前の会社を辞めるのに半年以上かかったんですね。なぜかというと、技術や顧客を持ち出してほかの会社に行くんじゃないかと思われて。

最後の最後で、「実は父親の会社を継ぐんです」と言ったところ、「ああ、そうなんだ。だったら最初から言えばよかったのに」ということで、リリースしていただいたんですけれども(笑)。

その時の送別会の状況はこうでした。「俺らは都心でがんばる。君のやってくれたやつ、あとは続きを伸ばしていくからね。遠いところから見ていてよ」みたいな感じです。

「親父さんなにやってるの?」「車屋さん? 大変だね」「じゃあ、車屋さんになるんだ」みたいな感じで、若干の哀れみじゃないですけど、「地方に行くんだね」みたいな。

その場で私も、都落ちじゃないですけど、「東京から奈良という地方に転落するのか……」という思いがちょっと芽生えてしまったと。悔しいと。「いつか首都圏になんらかのかたちで戻るぞ」と決意したのが、この辞めるタイミングでした。

17億円の借金を背負うことを決意

ただし、会社の状況は決してよくなくて、不動産は安定収益がありましたが、その利益を全部食いつぶすだけの赤字を自動車整備工場が作っていたということで、廃業寸前でした。

社内はもう仲が悪い。社員同士は喧嘩すると。24人社員がいたんですが、営業と現場でセクショナリズムを作って仲違いする。こんなことが頻繁にありました。

私が帰った時は、工場のガラスにヒビがいって、冷蔵庫がへこんでいたんですね。なぜかというと、怒り散らした職人がガラスにあたるわ、冷蔵庫を蹴るわで……。『スクールウォーズ』のような会社だったと。

挙句の果てに、車を落っことしても平気みたいなね。これお客さんの車ですからね(笑)。お客さんの車を落っことしても隠蔽しちゃうような会社だったんですね。

もしみなさまがそのような会社に後継ぎとして帰ったときにどうするかと。ぜひ、みなさんが私だったらどうするかと思ってほしいんです。

私もそれなりに会社に勤めていて勉強させていただいたので、分析をするわけです。3C分析とか、SWOT分析とか、いろいろやるわけです。

分析して出る結論は、やはり「なぜ父親はここまで放置していたんだ?」「なぜ社員同士は、こんなに赤字なのに協力しないんだ?」と。私は「こんな会社の状況になったのは、父親のせいだ。社員さんが悪いんだ」という意識だったんですね。評論家的だったわけです。

ところが、父が死んだ時に、いよいよ会社を継がなきゃいけなくなりました。父親が当時持っていた株式は51パーセントしかなかったんですね。オーナー会社じゃなかったんです。なのに、14億の借金の保証人に個人でなっていたと。これを継がなきゃいけないということになって、大変な思いになりました。

母親と喧々諤々の相続問題を話し合うこともあって、このへんの話だけで1時間ぐらいになるんですけど、結局どうなったかというと、株も株主さんから買い取ろうということで、頭を下げてまわったわけなんですが、14億の借金が3億増えたんですね。17億の借金を背負うことになったと。

もうこうなったら、ちょっと頭の線がピッと飛ぶんですね。100万円も1億もそんな変わらんくなってくる。「誤差の範囲だ」と。「だったら思いっきりやろう」と決意しました。

この記事は無料会員登録で続きをお読み頂けます

既に会員登録がお済みの方はログインして下さい。

登録することで、本サービスにおける利用規約プライバシーポリシーに同意するものとします。

SNSで会員登録

メールアドレスで会員登録

パスワードは6文字以上の文字列である必要があります。