慶応SFCの入試問題は「漫画を読んで絵を描け」
小林雅氏(以下、小林):では、加藤さんお願いします。
加藤史子氏(以下、加藤):みなさんこんにちは。リクルートライフスタイルじゃらんリサーチセンターという主席研究員の加藤史子です。よろしくお願いします。
自己紹介ということで、今日学生さんも多いということなので、学生時代を振り返ってみようかなと。
私は趙さんと違ってですね、ほんとにのほほんと普通の子どもとして育ったせいで、全然やりたいこととか見つからなかった。
見つけようとも思ってなかったタイプです。高校3年生まで、国語、算数、英語とかいわゆる5教科を勉強して、5教科を学んだだけで、法学部に行きたいとか、経済学部に行きたいとか決められるほうが不思議だと思って。
なので、決められなくても済む学部に行こうと思って、SFC、慶応大学の環境情報学部に(入りました)。
当時読んだパンフレットが衝撃的で、最初は環境というから「ホエールウォッチング」みたいなことでもするのかなと思っていたんですけど、全然違って。
人間とそれを取り巻くものすべては環境で、その環境と人間をつなぐものが情報である、みたいなことが環境情報学部のパンフレットに書いてあって。
それって(学べることが)全部じゃないかと思ったんで「何でもやれそうだな」と思って、この大学に行きました。
そしたらですね、一応受験勉強とかはやっていたのに、入試は漫画を読んで絵を描け、という入試だったし(笑)。
私の受験勉強って意味ないと思ったんですが。学校に入ったら、個性的な学生さんと自由な教授だらけでですね。
まずい、ここじゃあ他人がどう考えるか、見えるかじゃなくて自分がどう考えるかどう思うかを徹底しないと残れないんだなー。というのがひとつカルチャーショックでした。
リクルートでじゃらんnetを立ち上げる
加藤:で、3年間経って就職活動するタイミングでも自分の適性もやりたいこともわからなかった。なので、商社に行きたい、銀行に行きたいとか、保険業界に行きたいとか決められなかったんです。
なので、一番よくわからない「リクルート」って名前はついてるのに、別に人材のことだけやってるわけじゃないし、いろんな本とか出してるけど、別に何か実業をやってるわけではないというよくわからない会社に行って。
モラトリアムを延長しようと思って就職活動をしてリクルートに入りました。
最初はですね、広告クリエイティブ職。いわゆるコピーを書いて、ADC賞とかに応募しちゃうようなそういうクリエイティブ職に憧れていたので、入ったんですけど。
実際はですね、もう情報工場リクルートって言うんですけど。リクルートって言ったらね。ひとりで原稿1000本をアウトソーシングを使いながら回せみたいな状態になっていてですね。全然、想像と違った。ただ「情報工場リクルート」は体感できたかなと。
でもクリエイティブをやるんなら、すでに原稿表現じゃないんだな。ということに気がついて。この会社で何かクリエイティブなことをしたいと言ったら何なんだろう? と考えたときに、新たな事業を作るとか、ビジネスモデルを考えるっていうことがおそらくクリエイティブなんじゃないかな。
ということで、希望異動をしてですね、その2年目で立ち上げたサービスが「じゃらんnet」というですね、宿泊予約がインターネット上でできるというサービスです。
紙媒体とインターネットの取り組み方の違い
加藤:当時のリクルートは紙媒体が全盛期でございましたので、紙媒体、雑誌とかですね。情報紙という紙媒体に対してインターネット。
「じゃらん」という雑誌ですね。広告収入、クライアントのことを良く書いて、例えば宿泊施設なら、女将がこんなに優しくて美人で、お料理がおいしくて、お風呂がこんなに快適で「さあ、泊まりに来てください」っていうのを、いかに紙、紙面で表現するかというのでお金をいただく広告事業というものから、ネットでは、実際に予約が入ってお客さんが泊まったらその分の何%かをくださいね、という成果報酬型に変化しました。
そうなると戦い方も全然違って。広告の場合はいかにお客さんの施設を良く見せるかということなんですけれども、成果報酬型の場合は女将の愛想が悪かったとか、露天風呂に落ち葉が浮かんでて汚かった。
みたいな、ありのままの消費者の情報をいかにネット上にそのまま載せるかということが、実際に信頼を得てそこでものが売れていくか、宿泊が成立していくということにつながる。
という全く逆のことをやらなきゃいけない状況で、そうすると新規事業でまだ赤字を垂れ流している状況の新規事業(じゃらんnet)が、お客さんの正直な感想を載せて、片や事業を支えてる屋台骨である情報誌のほうのクライアントとも同じ人ですので「何をうちの悪口を載せてるの! 年間取引止めるよ」と、すごい圧力があって、そういうような時代を過ごしていました。
そんなこんなの時に結婚して子供も生まれまして。なんかですね、ずっとビジネス開発みたいなのをやってたんですけど、これ、新しい価値を作ったんだっけ? って疑問を持つタイミングに合いました。国と仕事をし始めて、観光による地域活性をやるということになった時に……。
私がやったことって、既存の旅行大手会社からインターネットの事業者にプレイヤーが移っただけで、地域にとっては、箱根温泉にとっては、熱海温泉にとっては、お客さんが100人から200人になったんじゃなくて、別の旅行会社からインターネット事業会社にプレイヤーが移っただけで、何も価値を生まなかったんじゃないかな? と思うことがありまして。
ビジネスを作った自負はあったけれども、市場を作ったわけじゃなく、あくまで既存事業者からのリプレイスだけだったんだなと感じて。
地域観光の活性化に取り組む
加藤:そんな中で、すごく地域側は今地方創生という言葉が流行っていますけれども、衰退して行く中で、観光でどうにか人に来て、地域が盛り上がってほしい、困っているから助けてくれ。という声をすごく聞くようになったんです。
なので私がやりたいことがあってというよりは、困っている人がたくさんいて、それを自分が解決できるんであれば、それをやりたいことにした、ということです。
数年前に、スキー市場の活性化に取り組みました。社内では、スキーは昔流行ったことだし、今やるなら、訪日外国人旅行者とか、勝ち馬に乗るべきで、衰退産業を手伝うのはどうなのかな。
というようなまっとうなご意見もあったのですが、地域を助けたいという気持ちで、取り組みました。「雪マジ19」って知ってる人いらっしゃいますか?
小林:雪マジとか「なんとかマジ」を作っているのはこの人なんですけど、マジシリーズを知ってる人って?
(会場挙手)
加藤:お、すごい認知度。ありがとうございます。ひとりで勝手に始めたプロジェクトって感じだったんですけど、誰もが見向きもしなくてもですね。
それによって生活が成り立っている地域があるだとか、その業界に情熱をもっている人に寄与したいというのが、自分自身のモチベーションの源泉なのかな。というふうに思っています。
次のページですね。ここからはすぐいきます。
全国の19歳はリフト券が無料、というものですね。
次です。
福島県も非常に困ってまして、やっぱり震災の影響で、ファミリー層は来てくれないし、一番日本で困っている地域だと思います。福島県庁と恊働して「雪マジ! ふくしま」というのをやっています。
次です。
ゴルフ業界もめちゃめちゃ困っていて、日本に3000箇所もゴルフ場があるんです。……2400箇所だ。すいません。
練習場が3000箇所ありまして。ゴルフ利用税というものだけでも500億の歳入が日本にある。プレイヤーの平均が60歳とか65歳とかになっていますので、これをなんとか救おうとやっています。
「ゼロ円」の魔法で活力のある日本を作る「マジ部」
加藤:次にいきます。
温泉地も困っているということで(笑)。これはですね、大分県庁に頼まれてやっております。その次は……。
小林:え、マジシリーズって何個あるんですか?
加藤:ええとですね、最近数えられなくなってきたんですけど(笑)。10個はないと思いますね。でも5個以上はあります。
で、あと、観戦者がずっと歳を取ってきていたりとか。プロスポーツも活性化しないと、アウェイ旅とか地域リーグは本当に困ってます。ですので、Jリーグと共同して「Jマジ」というのをやっています。
とにかくですね、日本の若い方々にはやる気がないんじゃあない。よく草食系とか、何を考えているのかがわからん、と言われるじゃないですか。それは間違っていると私は思っていて。
単純にですね、情報過剰社会の中でまだ出会っていないだけだと。だから、みなさんのように、若くて感受性があって好奇心旺盛で行動力もある時期に、いろんな経験や日本の素晴らしい地域と出会っていただいて。
活力ある日本を作ろうということをね、この「マジ部」というので進めていますね。手段は簡単なんですよ。
なんでも無料にしちゃうという「ゼロ円」という魔法で、みなさんの行動を支援していく、ということをやっています。はい。ありがとうございました。
小林:これ、ちなみに、なぜ「マジ」なんですか?
加藤:マジって本気のマジじゃなくてですね「人はマジック」っていうふうに書いてあります。
小林:マジックの略なんですか。
加藤:魔法。だいたいですね、女の子は、スキー場で3割増しくらいでかわいく見えます。それはゲレンデが白いから反射してレフ版の役目を果たす、ということと、ゴーグルとかをつけると小顔に見えるということなんですけども。
まあ「いろんなマジックがあるよね!」ということです。
小林:ディズニーランドのような。
加藤:はい、そうです。
小林:ありがとうございます。
(会場拍手)
はじめから研究者になりたかったわけではない
加藤:では、最後に琴坂さんで。
琴坂将広氏(以下、琴坂):みなさん、やりたいことがわかってる、これがあるっていうのはどれくらいなんですか。
小林:やりたいこと、明確な人!
(会場挙手)
小林:あ、けっこういますね。
琴坂:けっこういるんですね。たぶんそれ、10年ぐらい経つとかなり変わっている人も多いだろうなと思います。
実際僕も研究者やってるんですけど、研究者やろうと最終的に決めたのは2年くらい前で、最初からこうだと決めてやってきたわけではないんです。
経営者をして、コンサルタントをして、結局いま私が何をしているかというと、私は研究者です。
ただ、研究者ですが、普通の研究者ではなくて、職業は何ですか? と言われると、わたしは大学教授とは言わないで、この3つをやっている人だと答えています。
この3つっていうのは、研究と教育、あと実践です。
どのひとつでもなくて、その3つの真ん中にいるのが自分だと定義してます。いろいろな経験をしてきたのですが、この3つの中間で価値を出すために必要なピースが31歳までの間に埋まっていったというかんじです。
最初、私もお二方と同じように一緒にSFCに入りました。AO入試です。
AO入試でSFCに入る時には、学問には興味があったんですが、具体的にどうやっていいかっていうのがわかっていませんでした。
ただ、環境情報という概念が、独特な視点で世の中をとらえていることに惹きつけられて、SFCにきました。
法学とか経済とかの学問領域に閉じこもるのではなくて、世の中にある情報と人間とのインタラクションを捉えて、それを議論する。これはおもしろいと。
それでSFCに入って、よし、これで学問を勉強できるぞ! と思ってたんですが、なぜかいつの間にか会社の経営に参加することになっていました。
なぜかと言われると、詳しくは覚えていないのですが、覚えているのは、それが楽しかったから。
学問をやりたいという気持ちはあったのだけど、今しかできなそうなおもしろいことが見つかってしまったので、まずはそっちをやってみようとそちらにのめり込みました。
起業家からマッキンゼーの社員に
琴坂:結局、大学4年間はずーっと会社をやっていたような気がします。最初の会社で必死に頑張ったのだけど、自分にはエンジニアやデザイナーの才能はなさそうだと気付いて、次は店を作ることになって。
そして、店を作ったけれど、今度はまた別のことに興味がわいてしまって、また別の会社を作って、会社という器を使って、ずっと自分を探していたのかもしれません。
ただ、自分で小さいながらもお金を稼いでみることで、実際の現場の感覚はつかめたんですが、あるとき自分の成長の限界に気付いてしまいました。
このまま急激な成長をすることもなく定常飛行で会社をやっていると、いつのまにか30歳ぐらいになっていて、おそらくその頃にはフェラーリは乗ってるかもしれないけど、英語も話せないし海外も行っていないし、何より自分があまり成長してないんじゃないかとすごい危機感を覚えるようになったんです。
それで、どっかで修行したいと思って、コンサルティング会社のマッキンゼーというところに一度就職したという経緯です。
実際、マッキンゼーに入ったときの理由で一番大きかったのは、誰かの下で単純に修行したかったというのが大きいと思います。自分で会社やってしまうと、やはり自分が先頭に立たなければならないので、自分が逆に見えなくなってしまうと感じていました。
あと、自分で小さな会社を必死でやっていると、次の給料日の支払いができるかできないかとか、このお客さんへの提案どうしようとか目先のことばっかり考えてて、世界のことはもちろん、自分の10年、20年後が見えてこなかったというのも大きいと思います。
東京の目黒区のこのお客さんのことは考えていても、世界市場のことは考えられなかったので、逆にもっと大きなことを、全体像が見れるようになりたいと考えて、国外に出れる可能性も高いコンサルティング会社に会社に入りました。
そういう理由があったので、入社した時からある意味目指す目標を決めていて、自分はここで学ぶだけ学んで、できるだけ広い世界を見るということを最優先に考えていました。
なので、そのまま国内に残って早く昇進することもできたはずなんですけども、2年終わるぐらいでドイツに転籍しました。
世界各国で異なる事業に従事
琴坂:ドイツに転籍してからは基本的に武者修行でした、もし、出世とか職の安定を求めるなら、コンサルティング会社でもできるだけ安定した仕事をやっていったほうがいいんですけど、そうではなくて、冒険をして、2つ縛りでいきました。
1つは自分が働いたことがある国ではもう働かない。2つ目は自分がやったことがある産業はもう一度やらない。
そういう縛りにして、コンサルティングでも、北欧から欧州行って、中国行って、東南アジア行って、中東も行って、韓国も行って、いろんなところでサーモン売ったり、制度の規制作ったり、化学薬品売ったり、メディア産業やったり、通信やったりいろんな経験をしてきました。
結果的に、すごい幅広い経験ができて、その経験をもとにして、実践に関する考え方が固まってきたのだと思います。ただ、やっぱり自分というのは泥作業というか、現場も経験したけどそれも少し違う。そうもやもやしたものがあったんですね。
多国籍企業の少し大きなグローバル事業に携わったんだけども、それもやっぱり自分の中の好みのど真ん中じゃない。
やっぱり自分は少し引いて世の中とは何か。学問とは何か。ということを考えることに興味関心があったので、少し自分のフォーカスを変えてみようと考えてとりあえずは修士課程に行くことにしました。
その後博士もやって助手もやっていたんですけど、最後の最後の瞬間まで自分っていうものを探し続けてたんじゃないかと思います。
最終的になんで研究者になったかって言われると、これまでの自分の経験で、大学で悩み苦しんだことであったりとか、コンサルティング会社で死に物狂いで働きながら世界50ヵ国くらいを見たりして。
その経験の中でようやく自分というものの存在が3つの中間点にあるというのが一番いいなと思うようになって、それを実現できるような環境は日本でも作れるなと考えて戻ってきました。
日本に帰っても閉じないで、世界を舞台に働けることがわかったので、最終的に決めたというストーリーになります。
小林:ありがとうございます。