芸術と大衆文化、その違いとは
カリン・ユエン氏:アヴァンギャルドは近代芸術の世界の先導者です。そうですね? もしアヴァンギャルド、つまり「前方の守り」、または「前衛」があるのなら、もちろん「後方の守り」、つまり「後衛」もあるはずです。そうでしょう? そのことについてお話しします。
みなさんこんにちは、カリンです。Little Art Talksへようこそ。今日は、「キッチュ」についてお話します。キッチュはドイツ語で「がらくた」を指す言葉ですが、どのような観念かご説明しましょう。
この言葉は、通常、低俗で廉価、あるいは大衆文化、消費文化の感傷的な形相を表現するのに用いられます。
そしてまた、教養の低い、大量生産された、大衆的な文化の象徴に用いられています。
この言葉は、1920年代に大衆的、消費的な文化の形式を言及するのに時折使われていました。1939年、アメリカの美術評論家のクレメント・グリーンバーグ(1909〜1994年)は、評論「アヴァンギャルドとキッチュ」において以下のように論じました。
「アヴァンギャルド、つまり、前衛があるところに、たいていリアガード、後衛があるのだ。実際のところ、アヴァンギャルドの導入と同時に、工業化された西洋に出現した。これは、ドイツ人がキッチュという素晴らしい名前をつけたものである。大衆的で、商業的な芸術と文学、着色活版図を掲載した文学、雑誌表紙やイラストレーション、広告、ぺらぺらの三文小説、漫画、大衆音楽に、タップ・ダンスやハリウッド映画などがそれにあたる」。
ヘルマン・ブロッホ(1886〜1951年・オーストリアの作家)は、キッチュの本質とはイミテーション(注:模倣品)であると論じました。倫理的な配慮もなく、前例を即興で真似た、単に美しさを写すことを目的にしたものだとしました。これは良いことではありません。
ウォルター・ベンヤミン(1892〜1940年・ドイツの文芸批評家)は以下のように述べました。「キッチュと芸術の違いは、芸術とは異なりキッチュは即物的なオブジェである。つまり物と観客との間に批評的な距離が無い」、また「知性による意思もなく、距離の要請もなく、昇華されることのない、瞬間的で感情的な悦びなのである。キッチュは観客についての事柄よりも、観察される事柄が少ないのである」。
ロジャー・スクルートン(1944年〜・英国の哲学者)によれば、「キッチュはまがいものの芸術であり、偽物の感情を表し、その目的とは、消費者がなにかしら深く真面目なものを感じていると欺くことである」と説明されています。
もともとこの言葉は、19世紀に好まれたある種の美学をもった芸術との区別するために採用されます。その美学とは、後に美術評論家が感傷的でメロドラマのように誇張されているとみなしたのです。よって、キッチュな芸術は、感傷的な芸術表現と密接に関わっています。
キッチュは、ユーモラスで皮肉な性質により、キャンプ(Camp:けばけばしい、仰々しい、悪趣味な意味をもつ美学)という概念とも関連付けられます。しかしながら、1950年代には芸術家は、大衆文化への関心を持ち始め、1960年代にはポップアートが出現します。
このキッチュへの参与は、90年代のネオ・ジオのムーブメントや、ジョン・カリンや
ジェフ・クーンズ、
ポール・マッカーシーの作品にも現れています。