憲法をかえて国を立て直すのが私の熱願

平沼赳夫氏:皆様方、大変ご苦労さまでございます。昨日、名古屋で橋下共同代表と石原共同代表が会談を致しました。その経緯について、ご報告があります。

石原慎太郎氏(以下、石原):お聞き及びのように、昨日ですね、名古屋に出向きまして、4時に名古屋のある場所で橋下さんと会見しまして「分党をしたい」ということを申し上げました。個人的な見解を加えて申し上げますと、私自身のことでありますけれども、私が都知事を辞めてあえて国会に戻った理由はいろいろありますが、そのひとつはなんといっても、日本の憲法をかえてこの国を立て直したいという、かねてからの私の熱願です。

それと、20年近く前に私が永年勤続の議員として表彰を受けた時、その謝礼の演説で、私はこの国の国政、それに携わっている自民党に愛想を尽かして、議員を辞職するということを明言しました。

その時にも申したことですけど、日本が戦後ずっと、アメリカにほとんど飼い殺しのまま、いろいろ収奪されてですね、男の体は成してるけれども機能は失った、いわば宦官のような国になったことに対する自責とか、そういうものを踏まえて私は議員を辞職しました。

その4年後、知事に出馬したわけですけれども、東京という大事な首都を預かる仕事を通じて改めて感じたことは、やはり日本の、中央官僚の支配している政治というのを変えなきゃいかんということ。

橋下氏・維新の会との合流時に抱いていた期待

石原:それでいくつかの試みをしてきましたが、いくつかの点で共感してくれたて、東京のやったことをそのまま受け継いでくれたのが、当時大阪府知事だった橋下さん。彼とは共感するとこが非常に多くて、私の人生のなかで、彼との出会いは大変な怪事だったと思っております。

その後、国政に戻る決心をしました。ここにおいでの平沼さんとは盟友の間柄で、私は知事時代、平沼さんが立ち上げた、たちあがれ日本の名付け親にもなりました。また応援団長として協力もさせていただきました。

さて、国会に戻ってきて、私も加わった、たちあがれ日本のこれからの行く先を考える上で、私が非常に評価をしていた橋下さんの日本維新の会と合体・協力して、もうちょっと大きな仕事をしようじゃないかということで、その申し込みをしました。

最期まで尾を引いた「石原さんしかいらない」発言

石原:京都で維新と行った話し合いのさい、私たち側は、私と平沼さんと藤井さんと園田さんの4人で出向きまして、何故か向こうには今、日本維新の会の幹事長を務められております松野さんが在籍しておりました。

私にとって非常に強い印象として残っていることがあります。今日ここに至るまで、いろいろ党内にギクシャクしたものがあったことは否めませんが、その最初の走りとなる小さな亀裂はその会談時すでにありました。

その会談のなかで橋下さんはハッキリと、「私たちが必要としているのは石原さん一人で、平沼さんたちは必要ない」という事を言ったんですね。ずいぶん思い切ったこと言うな、と私はその時実にハラハラしたんですが、平沼さんは先のことを考えて我慢をしてくれました。

私はですね、平沼さんってのは、ポスト小泉のあとの、自民党の有力な総裁候補だったと思っておりますし、現に、私も個人的に親しかった当時の小泉総理もそういった期待をしておりました。

この平沼さんが、その時よくそれを堪えてくれた。私は帰りの電車の中で彼に本当に感謝しましたが、そういったその時の心理的な亀裂っていうのがずっと尾を引いて、いろんな形で陰に陽にあったことは、私は否めないと思います。

現行憲法には我慢がならない

石原:私個人の問題で申しますと、先ほど申したように、私はこの国を立て直すため、アメリカが日本を解体するためのひとつの便法として作ったあの憲法、日本文としても間違いだらけの憲法を、何としても直したいと思ってる。そのことについてはいくつも論文で書いてきました。

いずれにせよ、「前文」という非常に醜悪な日本語で書かれている、憲法としてそれなりの理念を謳っているつもりの文章。助詞ひとつをとっても間違いだらけの文章ですが、こうしたものに私は、物書きの一人として、また日本語に愛着を持つ日本人の一人として、とても我慢がならないと申してきました。

結いの党と合体する所以はない、という確信がある

石原:その後、いろいろ経緯がありまして、私と一緒に共同代表を務めてる橋下さんがどういう所存でか、結いの党との合体というものを一つの引き金にして、野党の再編成をしたい、そういう希望を持っていると。

それは私は否みません。しかし私には、それがそんなに大きな引き金になるとはとても思えない。

それから、(結いの党代表の)江田という人物を私はよく知りませんで、彼とは儀礼的な訪問を一回受けて、平沼さんと同席のもと話しただけです。

その時、彼が憲法についてなにか言おうとするんで、「それはこれから国会の中で、たとえば集団自衛権の問題についてもあなたの見解をお聴きする機会があると思うから、その時にゆっくり聞きましょう」と言ったら、「わかりました」なんて言って、その時も非常にプロトコル(儀礼)なもので終わりました。

いずれにせよですね、結いの党との合併・合体というものがどうやら進んでいくプロセスのなかで、集団自衛権に対する江田氏・結いの党の見解、あるいは集団自衛権という、日本にとっての致命的な問題に対する見解に大きな齟齬が感じられて、私はとてもこういう人たちと維新の会が合体する所以は無いなと確信を抱くに至りました。

ということで、これは野党の再編っことのひとつの眼目かもしれません。私はそれを否定しませんけれども、その目的に向かって進むにしても、選択の方法が違うんじゃないかと思い続けてきました。

その相手として結いの党を選ぶっていうことに、私はどうにも合点がいかない。

目的は同じだが、山の登り方が違う

石原:そして同じように考えている仲間が、案外に維新の会にもいました。実は私が昨日、名古屋に出かける前、「自主憲法研究の会」の若い8人のメンバーから、日の丸を背にした寄せ書きをもらいまして、強い激励を受けたんです。そういう仲間もいるということも含めて、私は結いの党との合体にどうしても賛成するわけにはいかない。

ということならば、やっぱり目的は同じにしても、山を登る道がそれぞれ違うということもあり得るだろうと。私は橋下さんに「分党した方があなた方も潔く、スムーズに結いの党との合体ができるだろうし、私たちは私たちで、野党の再編成なり、あるいは憲法の問題、集団自衛権を考えていきます」と申しました。

集団自衛権の問題は譲れない

石原:特に集団自衛権の問題はですね、私が都知事時代に火をつけた尖閣諸島という日本の固有領土の統治権の問題。これは、私が衆議院在任していた当時、数人の仲間で作った青嵐会がこの問題に着目して、あそこの持ち主から買ってもいいじゃないかと決意をしたぐらいのものです。

いずれにせよ、その問題というのも今日ち大きく浮上してきてるわけで、こういった、私たちが政治生命を賭けてきた問題について、いかにも合点のいかない政党と手を組むということは、私は十分に許容できない。ということで私は、平沼さんなんかとも図って、思い切って分党しようという決心を固めました。

最初に「分党」を提案したのは橋下氏

石原:実は、"分党"ということを最初に言い出したのは私ではありません。

前々回の執行役員会で、橋下さんから「来年の中央統一選挙の成り行きを考えると、非常にいろいろな問題がある。これをクリアするために、大阪維新の会が独立して一つの政党になって、結いの党と合体して力を添え合い、中央選挙を切り抜けたい」ということを申されました。

これは私たちにとって心外な問題です。あの時点で大阪維新の会が独立して一つの政党を作るってことは、どうにも危うい選択だと思って、私は反対しました。

執行役員会でもこれについて反論が起きて、彼はその時思いとどまってくれましたが、皮肉なことに、私たちが今回の決心をしたのはその時でした。

不利や不幸をあえて受け止め、志を遂げたい

石原:私も平沼さんも、かつての吉田松陰や大塩平八郎のような熱烈な陽明学の信徒ではありません。けれども、陽明学を説いていると、自分の志を遂げるためには、自分の身に降り掛かってくる不利や不幸をあえて享受しながらでも、行動を起こさないといけないと。行動を起こさない人間は、孔子が言うところの人間の最高の徳である「仁」を体現できない。

ともかく、非常に限られたメンバーではあるけれども、自分たちの政治生命を賭してその志を遂げたい。そのため、分党を申し込んだわけであります。

以上、私たちの分党の決意と経緯を申し上げました。