子どもたちのラジカルさから考える社会運動の在り方

斎藤幸平氏(以下、斎藤):もう一つ僕がこの本(『コミュニティオーガナイジング』)をいいなと思ったのが、小学生たちが結構ラジカル(急進的)なんですよね。

『コミュニティ・オーガナイジング――ほしい未来をみんなで創る5つのステップ 』

鎌田華乃子氏(以下、鎌田):ラジカルですね(笑)。

斎藤:普通の子どもたちは、アクション起こしましょうというところまでは行けても、どうするかと言ったら、親に言うとか、校長先生に言うとかで終わっちゃう。で、先生が「そうは言っても教頭先生もいろいろ考えてるのよ」と話して終わる。あるいはPTAとかに変えてもらう。そんな感じだと思うんです。

でも、この本で書かれているように、それは結局、別の大人、教頭先生という大人からPTAや校長先生という別の大人におもねるようなやり方ですよね。1人の権力者に抵抗するために校長や親という別の権力者を持ってくる。それは自分たちの良さを生かしてないとか、ある意味で既存の構造を温存してるということが(この本には)書かれている。それで子供たちは気が付いて、じゃあストライキみたいな話、テストをボイコットしようという話になるわけですよね。

これは非常にラジカルだけれども重要で。自分たちが力を持ってるんだということに気が付いて、あるいは自分たちが何かできるというエンパワメントの経験を通じて、実際にアクションを起こして権力関係を変えていくということですよね。

日本では「学校ストライキ」という言葉は使わない

斎藤:実際、テストという制度があるんだけれども、もしみんなが回答しなかったらテスト自体が成り立たないので制度が崩壊するという意味では、確かに小学生の側に非常に力があるわけで、それを行使して変えていくというのは非常に面白いなと思っていて。というのも、今グレタたちがやってることって、まさに学校ストライキなわけですよ。

鎌田:うん。

斎藤:だけど今、日本では「学校ストライキ」って言葉は使わないんですよね。「気候マーチ」とかいうふうに言葉を変えていて。それはストライキという言葉が持ってるイメージが良くないから。過激なイメージとか、何となく環境問題に関心を持ってる子たちをびびらせちゃうというか、左翼っぽい感じだなと思わせちゃうことに対する懸念で、翻訳の過程でそういうふうになってる。

でも、子どもたちが政治家にかわいくアピールして、小泉大臣が分かった分かったと言って変えてくれる、ということを目指すのでは駄目なわけですよね。もっと自分たちが持っている力をどう使って変えていくかが大事で。それを使うためにラジカルな手段に訴えるというところに、多くの読者はびっくりしたんじゃないかなと思うんですよね。

鎌田:そうですね。そこを気に入ってくださってすごくうれしいです。こだわったところなんですよね。小学生がこんなラジカルなことをする話は反対されるかなと。PTAとかいろんなところからクレームが来るんじゃないかとか、いろいろ心配はあったんですけれども、私は既存の権力構造におもねるようなやり方はちょっと違うし、それは根本的に変えていくことにならないと思ったので、違うようにしたかったんですよね。

1970年代から残る「社会運動=過激」というイメージ

鎌田:ただ、日本で「気候マーチ」になっちゃってるというお話がありましたけれども、日本の文脈・文化の中だと、どうしても(社会運動には)過激なことを想起させるものがあって、まだ塗り替えられてない。1970年代に一部の人が過激化してしまったことが残ってるし、当時生まれていなかった今の若い子でもそういうイメージを持ってますよね。

フラワーデモとかを研究して思ったのは、やってることはすごくラジカルなんですよ。花を持ってみんなで駅前に集まるって、一見ラジカルじゃないですよね。優しく見えるんですけど、事前の調整も何もなく、参加した人が自主的に進み出て、みんなの前で自分が誰にも話してなかった性暴力の体験を言うということをやっているんです。それを参加者がじっと聞いてサポートする。フェミニズムの運動のどこを見ても、それをコンスタントに全国でやってる運動なんておそらくどこにもない。

そういう運動を日本の中で生み出していけばいいんじゃないかなと思っています。一見ちょっとおとなしく見えるけど、すごくラジカル。「クワイエット・ラジカル」と呼ぼうかなと思ってるんですけど。

斎藤:うん。若い子たちは、思ったよりそういうものへの抵抗が、かつての世代よりはなくなってますよね。社会主義とか学生運動の記憶がもうほとんどないし、名前でさえも知らない。学生も、マルクスって誰ですか、ソ連って何ですか、みたいな感覚になってきている。

その一方で、もちろんみんなじゃないですけれども、こういう社会は結構しんどいなとか、環境問題さすがにやばいなと感じている子たちもいる。ラジカルな運動や、マルクスを含めて社会自体を変えていこうという発想に、彼らが関心を示す可能性はあると思うんですよね。

一番重要なのは法律や制度ではなく、市民一人ひとりが当事者として動くこと

斎藤:ただ、そうは言っても、いきなり非常にラジカルなことをやるのは、行動するコストのほうが勝ってしまう可能性がある。なので、その道をどうやって敷いていくかを、まずオーガナイザーや組織の側が考えてキャンペーンを作っていくことが有効だと思うんですけれども、今の日本だと、政治家にロビイング(企業が利益団体から、自国政府や国際機関に行う働きかけ)をして訴えれば変わるとか、選挙で野党が勝てば社会は良くなるというような期待、もはや願望に近いものが支配的になってしまっている。

その中で、いや、そうじゃないんだよと。もっと自分たちの力を発揮して、社会を変えていかなければいけないんだよというメッセージが、僕はこの本の中でほんとに一番いいと思うし、意外にそういうこと言ってる人はいないんじゃないかなと思う。

こういう法律で変わる、こういう制度をつくれば変わるみたいな話は結構あるんですけども、そうじゃなくて、市民の一人ひとりが当事者として動いていくことが一番重要なんだというメッセージは、僕もずっと言ってきたんですけれどもまだまだマイノリティだったので。もちろん、私の言い方も抽象的なところがあったので、こうして具体的にコミュニティ・オーガナイジングの活動をされてる方たちがいたというのは、僕自身も非常に学びが多かったです。

鎌田:ありがとうございます。すごくうれしいです。

旧来の環境NGOにおける「寄付」の構造の問題

鎌田:斎藤さんが提示してくれたビジョンに向かっていくために、どんな活動が増えていくといいなと思ってますか。

斎藤:ナオミ・クラインとかもよく批判してますけど、日本の団体に限らず旧来の大きい環境NGOって結局は寄付金集めみたいなことばかりしていて、しかも裏では政治家や石油会社と手を握るようなことをずっとやってきて、言わば彼ら自身が既得権益団体みたいになってしまっている。すぐ寄付を集めるんだけど、そのお金のほとんどはキャンペーンに使われていて、実際に社会を変えるためには使われない。だけどキャンペーンが大きいので、みんなついつい寄付してしまう。

僕はそういうのをアヘンと呼んでるんです。多くの人は、「私は1万円寄付したから、この問題に対して何かをしたんだ」と思う。これは完全に免罪符ですよね。1万円でお札を買ってるのと変わらない。しかもその1万円がまた別のキャンペーンに使われていく。こういう構造は非常に問題です。要するにオーガナイジングが全くないですよね。

そういう運動に対する批判が、いろいろなところで出てきています。環境問題もそうだし、Black Lives Matterもそうだし。大きな団体のリーダーたちがトップダウン型でやっていくのではなくて、むしろそういうのを拒絶して、自分たちで社会を変えていく、一人ひとりが立ち上がっていくという形に運動の在り方が大きく転換しているのが、この10年ぐらいだと思うんです。

国の問題としてではなく、自治体の問題として考えてみる

斎藤:日本でももっとそういう形に転換していくことを考えるとき、どこからできるかと言うと、地方自治体かなという気はしています。

鎌田:うん。

斎藤:バルセロナなどの例を見習いながら、自分たちの街でもっと持続可能なまちづくりをしていこうと。地域電力をつくろうとか、もっとカーシェアリングを増やしていこうとか。そうした試みが地方では出てきやすいし、地方自治体の政治家ならそういう問題に耳を傾けてくれる余地もあるし、気候変動という問題を自分たちの生活に直結する形に落としやすいと思うんですよね。

いきなり国の問題として考えるとどうしても話が大きくなり過ぎるので。自分たちの自治体で気候非常事態宣言というものを、言わばボトムアップ型に出していく。鎌田さんの本の中に成人式の事例がありましたけれども、地域で成人式の時期を変えたように、自分たちの街で気候非常事態宣言的なものを出していくような若者たちの運動が出てくるといいんじゃないですかね。

鎌田:そうですね、確かに。気候変動の問題に取り組んでる人たちや環境NGOの人たちにもコミュニティ・オーガナイジングをよく伝えるんですけど、すごく問題が大きいので、どこを目標に設定したらいいか分からないという難しさがあるんですよね。

でも、成果が見えにくいということもある中で、地方自治体レベルから取り組んでいくのは大事だなと。先ほどの、バスが来なくて困ってると言うおばあさんがいるとして、それはマイカーが増えた結果だから、もっとみんなでカーシェアをしたりバスなどの公共交通機関の利用を増やしたりしようという話とかは、取り組みやすいことの例ですよね。

なので、コミュニティ・オーガナイジングの戦略を立てるときには必ず1年か2年ぐらいで達成できるようなゴールを立てましょうと言っています。そうじゃないと疲れてしまいますし、多くの人が参加できなくなってしまうので。そこはすごく大事にしています。

海外では「政治に詳しくないとデモに参加しちゃいけない」と思う人はいない

斎藤:2050年あるいは2100年までかけて、経済成長を最優先にしてそのために人間も自然も徹底的に収奪するような社会の在り方から、社会全体の仕組みをもっとスローダウンしていくことで、別の豊かさ、僕は「ラジカルな潤沢さ」と呼んでますけど、それを取り戻すような社会に変わっていこうと。これもすごく長いスパンの話なわけですよね。

大きなビジョンがないと、小さな運動もどこに向かっていいか分からずその場その場で右に行ったり左に行ったりしちゃう。他方で大きな話だけだと、それで何したらいいんだよ、50年後のことなんて俺らには何もできないじゃないか、というような無力感とか疲弊感、徒労感みたいなものにとらわれてしまう。バランスが必要だと思っています。今はとにかく大きな話も小さな話も少な過ぎるんです。大きな話も小さな話も、もっともっと出てきていい。

鎌田:確かに。

斎藤:でも、そのさらに前の段階として、まずはやっぱり「今の社会、おかしいよね」と言うことのハードルを下げることも重要だなと思っています。

プロセスとしては数段階あって、最初は「今の社会おかしいよね」と言った人の声が大きくなる。だけど具体的な要求がないとうまくいかないという、ある種の失敗の経験をして、それ踏まえて、要求をつくっていかなきゃいけないんだと気が付く。そうすると、オーガナイジングや勉強会がもっと重要だと思われるようになる。そういうステップ・バイ・ステップだと思うんです。

今はやっと、ハッシュタグとかでNOと言っていいんだという機運が少し出てきている段階。でも、さっき鎌田さんがおっしゃったように、1回出てきても、それだけでは持続しないと思うんですね。日本でもこの10年ぐらい、SEALDsとか、反原発運動とか再稼働反対とか、自衛隊関連の緊急事態法案反対とか、そういうNOは出てきたけれども、シングルイシューで終わってしまったり、持続的な組織化ができてない状況。その反省を踏まえる段階に僕たちはきている。

鎌田:段階があるというのは私もそうだなと思います。フラワーデモの参加者にインタビューをしていても思ったことですが、デモに参加するには政治のことをよく知ってなきゃいけないとか、意見をしっかり持ってないといけないと思ってる人が多いんですよね。アメリカやヨーロッパで、政治のことに詳しくないとデモに参加しちゃいけないと思っている人なんていないと思う。日本でそういうハードルが下がっていくことがまず大事だなと思います。

社会運動は、「価値観」で緩やかにつながる関係性であるべき

鎌田:あともう一つ、日本特有かは分からないですけど固有の課題としては、今までの左派というか、組織を嫌がってる人たちが多いんですよね。無理やり運動に組み込まれてしまう感じがあるようで。昔のいわゆる「オルグ」のイメージなのかわからないけれども。

斎藤:オルグ。

鎌田:はい。何かよく知らないけど「仲間だよな?」みたいな形で無理やり毎週参加させられるとか、絶対に会費を払わなきゃいけないとか、抜け出せない組織というイメージ。若い人にはあまりいないんですが、40代とか50代にはそういう意識を持ってる人がすごく多いなと。「だから私は組織に入りたくないんです」と明確に言う人も多いと思います。

ただ、組織がないと運動は続いていかないので。緩やかに、柔らかくつながっていける組織というか……1回入ったら抜けられないんじゃなくて、人生のステージによっては子育てが忙しくてできないときもあるし、就職したてで忙しいときもある、だから抜けてもよくて、出入り自由で、ほかの団体に行っても大丈夫、という組織でないと。

斎藤:たいへん興味深いんですけど、コミュニティ・オーガナイジングは「オルグ」ではないんですか。

鎌田:「オルグ」という言葉がすごく偏った意味、例えば何らかの「組織」が無理やり人を巻き込むような意味で使われてることもあるので、気を付けたほうがいいなと思って。

斎藤:どういうイメージで捉えたらいいですかね。もうちょっと緩やかな感じですか。

鎌田:そうですね。コミュニティ・オーガナイジングのやり方は色々とありますけど、一番大事なのは価値観でつながっていくこと。例えば斎藤さんが提示してくれたような、みんなで共有するような、共助するような社会をつくりたいよね、というのが、大きな価値観だと思うんですよね。そういうものをベースにつながっていくことを大事にしている。また、その人の主体性を育むことを大事にしていて、最終的に行動するかかどうかは、その人が選択する。なので、無理やり巻き込む運動の作り方と違います。

持続的な活動を妨げる「オルグ」のイメージの悪さ

鎌田:あと難しいのは、「運動」と「組織」は違うと思うんですよね、ある意味。一緒なんですけど違うと思うので。そこをどう考えるかが、私もまだそこまで整理できてないですし、やってる側も見えてないところもあるんじゃないかなと思います。

斎藤:なるほど。僕もまさにオルグ的なものへの拒絶感に直面することが多いんですよね。そういうことに対するイメージが非常に悪い。実際に日本のFridays For Futureとかでも、オルグ的な組織ではないですよということを非常に強調するし、そういう代表やリーダーはいませんと言うんです。

ただそれは、オーガナイザーと言われるような人がいないということではないし、ある種の組織化やオルグ的な要素も必要にはなってくるので。オーガナイジングは、Fridays For FutureやSEALDsみたいな団体でも必要なんですよね。

何か分裂しちゃうんですよね。新しい運動には、「労働組合の人は入ってこないでください」というような分断があって。それは一面では正しい。労働組合みたいな人たちが入ってきてもしょうがないので、入ってくるなと言いたい気持ちも分かるんだけども、他方でオーガナイジングというものを否定してしまったら活動自体が長続きしないので。僕は専門じゃないけど、そのあたりの言語化はすごく必要なんだろうなという気はしています。

鎌田:そうですね。私も今、これをどうやって乗り越えていけばいいんだろうと。まさに研究しなきゃなと思っているんですけれども。

斎藤:オルグのイメージがやっぱり悪いですからね。

鎌田:悪いんですよ、ほんとに。でも必要なんですよね、組織をつくっていくのは。

斎藤:そうそう。