教育は“個性を潰す”仕組みの中で発達してきた

安部敏樹氏(以下、安部):一方で、今ってまさにコロナ禍も含めて、地域のコミュニティもどんどん崩壊していくし、物理的な距離や関係も離れている中で、主体性の喚起がしづらくなるじゃないですか。

コルクラボにしたって、リディラバが運営している「リディ部」にしたって、あるいはインターネット上に存在するあらゆるものって、主体性がなきゃ入ってこれない設計だと思うんですね。

その意味で言うと、僕らが作っているオンラインのコミュニティは主体性を手前で支える場所にはなってなくて。ある種のハイエンドの教育機会と一緒なんじゃないかと思ったりしますけど、そのへんはどうなんですか?

佐渡島:ちょっと話をずらすんだけど、これ、石川善樹といつもする話で。

安部:予防医学研究者の方ですね。

佐渡島:1880年くらいのパリ万博で、万博が始まる時に目指したものが、「スタンダードをパビリオンで見せる」っていうことだったの。

安部:ふんふん。

佐渡島:資本主義の中で何が発達していったのかと言うと、スタンダードな生き方ができる人間になって、スタンダードとされている理想のものを身につけることが、みんなが目指すことになったんだよね。

安部:はいはい。当たり前に適応するわけですね。

佐渡島:だから、「スタンダードの中に自分のかたちを押し込める」っていうか。そういう生き方をしていたから、そもそもの教育が、個性を潰す仕組みの中でずっと発達していて。今ってどんどん多様性やダイバーシティって言われているわけじゃない? 

本当はダイバーシティを活かすためには主体性を持たないといけないんだけれど、今の教育システムでは、6歳から22歳までの間に“主体性を持たない教育”がされていて。

安部:そうですね。まさにそれこそ、監獄と呼ばれた教育モデルと一緒なわけじゃないですか。社会でやっちゃいけないことをやらないように教育して、主体的であるかどうかは求めない。

“いい教育”を追い求めるほどに格差が広がる

安部:言われたこと、指示されたことをそのまま歯車として回せる人を作るっていうのが、もともと監獄を模した教育モデルであり、パノプティコン(全展望監視システム)という名前でよく言われますけど、それが今も続いちゃっているという話ですよね。

佐渡島:そう。それを誰がどうやって崩すかだよね。

安部:僕は教育の側から崩すのはもう無理だと思うんですよ。例えばさっきの佐渡島さんが言っていた森の教室の話も、すごく皮肉な話だなと思って。うちなんかも学校向けにスタディツアーをやってるから、当然教育の仕事も事業範囲に入るわけですけど。

親も、教育者も、個人として「いい教育を作りたい」ってすごい欲望を持っている人がいるじゃないですか。でも、いい教育は、追い求めれば追い求めるほど部分最適になっていき、社会全体では格差が広がるわけですよ。

いい教育を作って私学的なものをやればやるほど、そこにいる子どもだけが伸びて、そうではない子どもとの格差が広がってしまう。とはいえ、公的な教育を改革するのがいかに難しいかは関係者みんなが知ってるから、そこへのアプローチはあきらめる。だから、自分のちっちゃなユートピアを作ろうと思って、小さな学校を作るんだけど。

でもそれは結局、「教育格差を生んでるじゃないか」って話になるわけです。まず、そうじゃないかたちで教育に入っていかなきゃいけないって思うんですよ。

教育は「AIを育てるような感覚」ではうまくいかない

佐渡島:IT的な発想で「このPDCAサイクルの中に子どもを入れると、みんなどこまでも成長していく」みたいなものでは、簡単にうまくはいかない。結局、AIを育てるような感覚で教育を考えてもやっぱり、まだダメで。それは、本当にいろんな個性的な人を育てる中だとうまくいかない教育だろうなとは思うんだよね。

安部:基本的に、経済とは相性が悪いですよね。同じ型を作って、それをグルグル回すのが資本主義の得意な分野だとしたら、生徒に個別最適化して伴走していき、その子のいいところを伸ばしましょうっていう教育のやり方は、手法論があんまり標準化できないから、たぶんすごくコストがかかりますよね。

佐渡島:結局さ、同じものをグルグル回すのがよかったことって、これからは機械とか仕組みにやってもらえばよくなってきていて。

安部:そうですね。

佐渡島:それは人がやらないで、人は個別最適化のほうにコミットすればよくなってきているんだと思うんだよ。だから、今までは社会的に回らなかったことが回るような社会になろうとしている、まさに変革期で。そういうものをどういうふうにして仕組みで作っていくかだと思うんだよね。

安部:いわゆる労働やルーチンワーク的なものは、全部機械がオペレーションをやってくれるようになって効率化されるから、これからはより理想的な多様化をしていくために、それぞれが百花繚乱の個性を咲かせるところに時間を使えるようになるんじゃないか、ということですよね。

“社会に空いた穴”に放置される孤独な人々

安部:今日は孤独というテーマなので、それに寄せると、孤独に苛まれた人たちが多様な個性を出していくまでのところに、やっぱり少しギャップがあるように思うんですよ。

佐渡島:すごくあるよ。

安部:僕は、昔は地域がこのギャップを埋めていて、孤独な人も個性を出せていたと思うんですよ。でも、自分が地域の活動とかに関わっているからこそ思いますけど、いまは地縁が劇的に衰退してしまっているから、それができなくなっている。あと、若い人のギャップに関しては、実はこれまで学校が埋めていたとも思うんですよね。

地域と学校で若い世代や困った人の孤独を分かち合って、ダウンサイドリスクを抑えてきたんだけど、もう学校も人手不足で回らない。地域コミュニティも衰退しています。

さらには家族も核家族化しちゃって、お節介を焼くような余力がなくなってきた。コミュニティとして機能を果たしていた学校、地域、家庭が、ぽっかりと穴があくように衰退していってると思うんです。

そうすると、そこにホワイトスペースが生まれるじゃないですか。このホワイトスペースが孤独な人を放置させて、社会問題化させてしまうところがあるなと思って。

佐渡島:すごくわかる。さらに「(自分は)そういう風にはならない」と思っている強い人とかも、人生っていろんなタイミングがあるから。

(自分は)大丈夫だと思っていたのが、車で事故ったことと親の介護と仕事の大変な時が全部重なって一瞬でうつ病になって。自分がうつ病になると予想してなかったから知識も持ってなくて、あっという間に抜け出せなくなって、誰にも声かけの仕方もわからないことって起きると思っていて。

安部:というか、起きますよ。それが起きた人を僕はたくさん見てきた。たとえばホームレス状態にある人で「昔は社長やってたんだよ」「こういう大学出たんだよ」と話す人は珍しくありません。

佐渡島:おぉ、そうなんだ。

安部:本当に誰でもなるんだなって、僕はそういうところでお話を聞くたびに思いますね。

佐渡島:いや、そうだよ。全員なり得る可能性がある。

援交少女、カツアゲ少年……これって子どもの責任なの?

佐渡島:安部君はなんでNPOをやろうと思ったの?

安部:昔、自分がろくでもない時期に、周りにすぐ援交しちゃう女の子や、すぐカツアゲしちゃう怖いお兄ちゃんとかいたんですけど。

援交する女の子は事あるごとに体売ってるんだけど、「別の仕事できるんじゃないの?」みたいな話をしたら、「私、もう人生とかどうでもいいの」って言って。それでよく聞いていくと、家でお父さんから性的虐待を受けていたみたいなんですよね。

佐渡島:なるほどね。

安部:カツアゲしまくってる怖いお兄ちゃんとか、すごいケンカ強いんですけど、いつも長袖を着てて。「長袖脱がないのはなんで?」と聞いた時があって、それはずいぶん経ってから教えてくれたんですけど、「親に虐待されてたから、長袖を脱ぐとタバコを押し付けられた跡がある」って話があって。

そういう人たちって、瞬間だけ切り取るとめっちゃ悪いじゃないですか。大人から見たら、「悪いのはお前ら」なんですよね。でも僕ら側からすると、「え、これ俺らのせいなの!?」って正直思っていて。

だって別に、好き好んでこの家や地域に生まれてないし、この学校に通ってるわけじゃないし。「自分に対して関心を持ってくれる、関わってくれる大人はいないの?」という不満がずっとあって。

あと、僕はやっぱり周りが期待してくれて、関心を持ってくれたからがんばれたんですよね。その意味でいうと、第三者の関心ってすごく大事だなと思ったんです。自分が問題の当事者から脱出する意味でもそうだし、セーフティネットの意味でもそうだし。

社会の無関心な人たちに少しでも関心を持ってもらうだけで、実は世の中が相当良くなるんじゃないかという仮説から、大学生のときに「社会の無関心の打破」っていう理念をもとにリディラバを立ち上げて。それで自然と団体の規模が大きくなってきたので会社にして、いまは活動を始めてからて12年目になります。