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医療と和尚の、あうんの呼吸。(全4記事)

お互いが与え合う関係の中に「慈悲」がある 医療と和尚と命の話

一見、複雑で敷居が高く見える医療情報を「真面目に、やわらかく、やさしく伝えたい」。より根拠がある情報を届けて、医療を取り巻くすべてのコミュニケーション・エラーの解消を目指す、「SNS医療のカタチ」によるYouTube LIVEが開催されました。今回は、漫画家のおかざき真里氏、高野山の飛鷹全法(ひだかぜんぼう)和尚、編集者・たられば氏と病理医のヤンデル先生による「生老病死」についてのトークセッションをお届けします。最後のパートでは、仏教の言葉である「慈悲」をキーワードに、お互いに与え合う関係性について話しました。

平安時代には僧侶が医師の役割を担っていた

たられば氏(以下、たられば):1つだけ伺わせてください。飛鷹和尚がおっしゃっていた「仕事としてお経を読んだり、遺族と向き合ったりする」という話です。これが実はすごくよくわかります。

僕は母が亡くなったときに、お坊さんにも葬儀屋さんにも、また緩和ケア医にもすごくお世話になったんです。そのときに、お医者さんもすごく、「仕事として」やってくれたんですよね。それで、遺族としてはその姿勢に救われたんですよね。

なんだか「あぁ、この人たちにとっては仕事なんだ」「日常なんだ」と思いました。そのときにもし、ものすごく沈鬱な表情で「このたびは……。すみませんでした」と言われると、悲しみに引きずり込まれちゃうんですよね。

そういう仕事感を出してくれて、「ありがたかったな」と僕は思いました。おかざき先生は今の話を伺ってどうですか?

おかざき真里氏(以下、おかざき):そうですね。ちょっとさらに話を脱線させちゃうかもしれないんですけど、私とたらればさんと飛鷹和尚様が初めて会ったのが、僧侶であり医師であり、そして当時がん患者でもあった田中雅博先生のシンポジウムの懇親会だったんですね。

それまで私たち一般人にとってのお寺は、誰か身内が亡くなってから、要するに死があって初めてお世話になる場所だったんです。けれども、そのシンポジウムは「やっぱりお寺を母体とする宗教というのは、死から始まるものではなくて、実は生老病死すべてに関わるべきものではないか」というものでした。本当にそれはそうだと思いました。

私が描いている平安時代には、本当に僧侶の方がお医者様の役割も担っていました。ある意味、千何百年前はヤンデル先生も飛鷹和尚様も同業者で、役割がすごく違うということだったんです。

ただしその時に、受け手である私たち一般人が、今も変わらずにずっと受け手のままなんですよね。ですので、そういう宗教の教えや医療情報というのは、受ける側の問題でもあると思うんです。

「慈悲とは何か」がわからない

おかざき:もういきなり、最後のほうの話題にいっちゃっていいですか?

たられば:ぜんぜんいいですよ。いきましょう。

おかざき:私、僧侶様たちに取材をさせていただいていて「わからない」「わからない」とばかり言っているんですけれど。その中でも「慈悲」という言葉が一番わからないんです。宗教者の方は「慈悲」という言葉を最後にくださるんですけど、一般人の感覚として、その「慈悲」という言葉だけが因数分解できないんです。

たられば:「慈悲」とは何か。

おかざき:「慈悲」とは何か。でも「慈悲は慈悲です」と言われるんです。そしてあまりにも「わからない」と言っていると、ある方から「慈悲が成立しないことがある」と言われたんです。

たられば:うん。うん。

おかざき:お医者さんでもいいし、あるいは宗教者の方が「これはこういうことだ」という教えを一般の人間に授けることは、たくさんあると思うんですよ。一般人として、受け手側の「受け皿」がないと受けとれないことが、実はとてもたくさんあるんじゃないかなと思っています。

たられば:ちゃんと、コミュニケーションの話になってきましたね。

おかざき:はい。この言葉がすでにあるということは、実はお医者様と宗教者の方が一緒だった千何百年前からずっと、「慈悲の不成立」が起こっていたんじゃないかなと思うんですよ。

そういう時に、せめて受け手として何があると受けやすくなるのかということを、発信者のお二人にちょっとお伺いしてみたいです。ちょっと変なかたちで打ち返して申し訳ないです。

たられば:ぜひ。

「慈悲を受けたら幸せになれる」と思わない

おかざき:受け手はどういう気持ち、心持ちでいるべきというか……。私がなんとなく考えていたのは、「幸せとセットにしないことが大事かな」ということです。

たられば:慈悲を受けるときに?

おかざき:慈悲を受けるときに。「その慈悲を受けたら、自分が幸せになれる」と思わないようにしようということです。

たられば:おぉー。

おかざき:なんだか、「慈悲を受けられたら宝くじに当たる」という問題じゃないんだという話です。

たられば:すげぇ。話のギアが上がった(笑)。なるほど。

おかざき:それで医療で言えば病気が治る、病気が治らないという過程を教えてもらうことは、「治ったら幸せになる」とか、「治ったら金持ちになる」とか、「治ったらモテモテになる」という幸せとは切り離すべきなんじゃないかなと、最近ちょっと考えています。

たられば:わかりやすい。

おかざき:そういう「一般の人間は、こういうふうにすると慈悲を受けやすくなるよ」というものって、ありますかね?

たられば:すごい剛速球が来た感じですけど、飛鷹和尚、いかがですか? 

おかざき:変な方向ですけど(笑)。

慈悲とは他者に対する共感のようなもの

飛鷹全法氏(以下、飛鷹):そうですね、なんだか……(笑)。きちんとお答えができるかわからないですけど、その「慈悲」というのは、仏教においても非常に大事な言葉ですね。「悲」とは、もともとインドの言葉で「カルナー」と言って、他者の苦しみに対する共感を意味するのですが、それに「大」という字をつけて「大悲」(たいひ)と言う言い方をします。

弘法大師が密教の修行に進むきっかけになったと言われている、『大日経』というお経の中に、「三句の法門」という密教の修行者の一番の原点である3つの言葉があるんですね。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(くきょう)とす」という言葉です。

まず最初に、私たちの命が私たちの個体性を超えたものだという気づきがある。我々は自分の1つの身体を持っていて、生命を維持するためにご飯を食べて、けがをしたら自分の個体が治るように、まずは生物学的な「自分の身を守る」ということを第一義的に考える仕組みになっています。

だけど、自分のこの命が、個体を超えて先祖から代々つながれて、またこの次につながっていく、といった命そのものの大きな根源性に気づいて、その命から自分を超えた他者に対して、気持ちを向け直していく。そこにまず「菩提心」というものが宿るわけです。

すべての生きとし生けるものは自分を支え生かす存在

飛鷹:そこから、命においてつながっている他者に「大悲」という「絶対的な共感」を持つことにつながる。この「大悲」の「大」というのは、「比較や相対ではない」というニュアンスです。

「慈悲が成立しない」とか、「こういう慈悲があればこういう効能があるだろう」というものはある種の相対的な関係性にあるわけですけれど、私たちが「仏」と呼ぶ存在の、本当の慈悲的なものは、相対的なものを超えて絶対性を帯びているわけですね。

「慈悲が成立するか成立しないか」ということは、もはや関係がない。ただひたすら自分および、自分を包摂するすべての生きとし生けるものに対する共感を「大悲」というふうに観念するわけです。その「大悲」をもとに、自分自身を磨いて修行を成就するための努力をしていくということで、「方便を究竟とす」ということになります。

これはある種の宗教性の目覚めから、自分を超えた命への気づき、さらに他者性への共感、そして自らが道に入っていくという、大きな普遍的なプロセスを描き出している3つの言葉なんじゃないかなと思うんですね。ですから、我々だけが受け手じゃないんですね。

たられば:あー、なるほど。

飛鷹:実は我々も与える存在であるし……。これは弘法大師も言っていますけど、すべての生きとし生けるものが、自分の「四恩」なんです。

「四恩」というのは、自分を支えたり生かす存在のことを言いますけれども、そういった存在があればこそ自分は生かされている。だから自分は、そういった人たちのために供養もするし、尽力もするというかたちになっています。

ですから、仏の慈悲は絶対的なものなんだけど、その仏も我々、すなわち「衆生」(注:人間をはじめ生命のあるすべてのもの)がいるから、そういった施しをするという、1つの大きなダイナミズムの中に関係性があると思うんですね。

慈悲は一方的なものではなくお互いに与え合うもの

飛鷹:だからおそらく、私やヤンデル先生が送り手で、おかざき先生が受け手という構図だけではなくて、実はそこには非常に大きなダイナミズムがあるのだと思います。ちょっと話が長くなりますけど、先ほどおかざき先生がおっしゃった田中雅博先生のシンポジウムは「臨床宗教」がテーマだったんですね。

つまり「宗教者がいかに臨床の現場に入っていくのか」ということが大きなテーマだったわけなんですけど、そこで宗教者がやることはもはや説法ではなくて、「相手の人生の物語をいかに聞くか」という「傾聴」することが大事なんです。

そうすると、もはや我々が何かを与えるのではなく、我々自身がその人の生きた物語を与えられているとも言えるわけです。ですから、そうやって与えて与えられるという1つの大きな円環的な関係の中に、おそらく「慈悲」というものの1つの運動があるんじゃないかと思います。

おかざき:なるほど。

飛鷹:だから「慈悲」というのは、ベクトルがAからBに行くというように、起点と終点があるものではなくて、ある種の止まらない1つの運動体と考えたらいいんじゃないかなと思いますね。つまり、命そのものの動きに「慈悲」という1つの形容詞がついていると考えたらいいのかなと思います。

たられば:生物学者の福岡伸一先生のようなお話だ。ありがとうございます。ヤンデル先生、今の話を受けて、20秒ぐらいで意見をお願いします(笑)。はい。もう、まとめろと言われています。

市原真氏(以下、市原):すごい。「慈悲」は一方的じゃないという話が最高。もう、本当にいいね。

たられば:最高だよねぇ。ちょっと鳥肌たった。

飛鷹:(笑)。

やさしいという言葉への向き合い方

市原:20秒、いや40秒くれ。このセッションの1つ前の「カンブリアナイト」の新城健一さんが、「技術を作る側だけじゃなくて、それを受け取って使う側もすごく大事なんです。フィードバックがある、回転だ」ということをおっしゃっていて「あ、ここ、つながった!」と思いました。

あと、人類学者の磯野真穂さんという方が「動きを止めないことが人生なんだ」というようなことをおっしゃっていたことも思い出します。確かに僕は、「どちらかがどちらかに慈悲を与える、優しさを与える」という一方的な関係ではやっぱりだめだという考え方に納得できる。

「やさしい」ということに対しても、絶対にひっかかっている医療者や患者がいっぱいいるんですよね。「やさしい医療と言ったって、死ぬことは苦しいことじゃん」ということもあります。だから、「これがやさしい」とか「これが幸せだ」という定義についても、そうじゃないんだよねというダイナミズムの話で腑に落ちました。はい、以上です!

たられば:いやぁ、ありがとうございました。それでは、おかざき先生、またもう一言いただけますか? 

おかざき:はい。これからもがんばって運動体の中にいようと思います。

たられば:ありがとうございました。(自身の衣服を指しながら)このTシャツは、おかざき真里先生が描いてくださいました。今日、少量ですけど売っているそうです。あと15枚とか20枚ぐらいしかないと思います。

本日は、どうもありがとうございました。またやりましょう。これ、すごく感動しました。お疲れさまでございました。

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