「変わりたい」と思った時にうまくいく人・いかない人

衛藤信之氏(以下、衛藤):何かご質問は来ていますか?

温間隆志氏(以下、温間):ここまでのお話でだいぶ答えが出ているかと思いますが、最初にいただいたご質問なので、一応読ませていただきます。

小さなことにも喜びが感じられること。安直には求められないことの中に幸せを見つけられるというお話に共感しました。今はオンラインで、いつでもどこでも会えるし、考えなくてもAIが適当な文章をまとめてくれる便利な時代になりました。

その中で、逆に昔のような幸せを見つけづらくなっているので、不安な印象があります。そんな今の時代に幸せを見つけるために、何が大切でしょうか? 後半、先生がずっと答えを言ってくださったと思うんですけど。

衛藤:そうなんですよ。途中からご質問が画面に映っていたのでお答えしていました。

具体的なところでは、「自分が変わりたいです」と言った時に、高額なセミナーに行かなくてもいいんですよ。自分が変わりたいというのであれば、違う自分をちょっと演じる。

例えば、僕はいつもお話しするんですけど、マンガを読んでいる人だったら、哲学書の1ページか2ページを読んでみるのでもいいんですね。「哲学書を全部読まねばならない」と思うと挫折します。3行読んで、「うわぁ、すげ~。頭に入ってこない。以上」みたいなね。

その時にうまくいかない人は、こう言うんですね。「ほら、3行しか読めないでしょ」と。一方で、「今日は3行も違う行動をしました」という人は、シェーピング、スモールステップというんですが、何かやった時に「やった」というところに焦点をあてます。結果が出なかったというプロセス主義なのか、ゴール主義なのかということですね。

「読み切る」ことがゴールならば、ほとんどのみなさんが失敗すると思う。でも2~3行だったら、「やった!」みたいな。スポーツジムに行ってメニューを書いてもらって、「30分続かなかった。3分で私はバテたわ」と思った時に、「3分もやった」というのと、「27分サボった」というのとの違いかな。3分を楽しむ人は、やがて27分ができるようになりますね。

ポイントは「スモールステップ」と「受け取り方」

だから、一駅前で降りて歩いてみるのもいいんですよ。いつもの通勤電車で一駅前で降りる。僕が、「途中に6駅くらいあったら、そこで何回か降りたことありますか?」と聞くと、みなさん意外と「いや、通過するだけです。駅の名前は知っています」と答えられます。

例えば、「この2~3ヶ月かけて一駅ずつちょっと探索しませんか?」と言うと、「実は新しいお店が発見できました」とか「自分に合ったスイーツ屋さんを発見してよかったです」とか。それが「非日常に生きる」ということです。

自己啓発セミナーに何十万もお金をかけて、「何か変わるために」とやる人は、たぶん僕は挫折すると思うんですね。だから、シェーピングでスモールステップで、小さなステップを楽しめる人。

逆に言えば、哲学書しか読まない人はマンガを読んでみるのでもいいんですよ。そして、「ほぉ」というところで終わるとか。そうやって一駅前で降りてみるとか、「絶対この人に職場で声をかけない」という人に、今日1日1回どこかで声かけてみるとかね。そういう小さなスモールステップを楽しめる人は、絶対変われるはずなんですね。

「お父さんにしゃべったって、どうせ会話が続かなくなるし、また嫌味なことしか言わないから、絶対会話しない」じゃなくて、お父さんに、「おはよう」とか「お父さんがいてくれてよかった」とか、お尻のかゆくなるようなことを言ってしまう。

「バカかお前は」と言われたら、「よかった。やさしく声かけられずにバカかと言われた。衛藤先生が言ったように、天に宝を蓄えたということよね」と思える人なのか。

「やっぱり嫌な思いをした」という人は、嫌な思いをしたんじゃないんですね。「相手に声をかけたら会話が続くべき。続かねばならない」という思いにこだわっているから、「嫌な思いをした」というだけのことです。そういうところを意識してもらうといいかなと思います。

温間:ありがとうございます。スモールステップを大切にすることと、やっぱり受け取り方ですね。

衛藤:そうですね。

修行をした人と修行していない人の違い

温間:こちらに書かれていない質問で、真逆の質問が来ていて、両方一緒にいってしまいます。

「先生の考え方は、仏教・釈迦の教えから来ているのでしょうか?」ということと、「先生はアメリカでどんな心理療法を勉強されてきたんですか?」と。別々の質問ですけれども、アメリカのことと、仏教のことを感じた方からの質問なのかと思います。

衛藤:僕がアメリカで勉強したことは、先ほど言った論理療法とかミュージックセラピーとかゲシュタルト療法とか、ありとあらゆるセラピーを勉強しました。でも、その前に、僕は禅寺のお坊さんにすごくお世話になって、禅の考え方をすごく教わったんですね。

禅の考え方からゲシュタルトとか認知行動療法を見ると、難関な理論が「あ、これはもともとお釈迦さまも言っていたよね」と。例えば、「修行した人と修行していない人の違いは何ですか?」と言われた時に、お釈迦さまは「修行した人も、足を踏まれたら痛いと思う」と言ったんです。

これは第一の矢というんですね。「足踏まれた痛い」というのは第一の矢、感受作用がある。だから、第一の矢は誰もが受ける。でも、修行した人間は第二の矢を受けない。足を踏まれたら痛いと思うけど、「この人が悪い。この人をやっつけたい」という第二の矢は受けない。

桜を見てきれいだと思う。それは修行した人も修行していない人も同じだ。でも、「きれいだと思ったからポキっと持って帰って家に飾ろう」という第二の矢は受けない。

「あの上司、話がぜんぜん通らないな」というのがあると。あまり心地よくないというのは第一の矢、「だからあの上司の意見は絶対に聞くまい」という第二の矢は受けない。

だから、修行した人間も修行しなかった人間も感受作用はあるので、「嫌だ」とか「つらい」とか「親にこんなこと言われて傷ついた」というのはある。でも、その傷ついたことを、先ほど言ったように「だからトラウマになったんだ」とか「だからあの親は、絶対に永遠に私は恨み続けてやる」という第二の矢は受けないんだというのは、認知行動療法ですよね。

それって、お釈迦さまが言っているようなことなんですよね。だからそういう意味では、僕の中に仏教を感じたと。

50人の敵か、1人のやりにくい妻か

衛藤:ただ、キリスト教でも似たようなことをいっぱい言っているんですね。

僕らは罪の中で生きている、罪だと思って生きると。「人生は原罪の中での刑期」だと。刑務所に入っていると思えば、けったいな人ともかかわらないといけない。「けったい」というのは関西弁で、変な人という意味ですよね。そうすると、けったいな人が身近な人かもしれないと。

小林正観という人が、こういうことを言っているんですね。これも実は仏教から出てきている話ですけど、「自分の味方と敵は『50:50』でフィフティフィフティなんだ」と。

うちの受講生で、ひすいこうたろうくんという子がいるんですけど、小林正観さんの話を聞いた時に、「俺、50人も敵はいないな」と思ったんですね。「5~6人は僕嫌いっていう人いるけど、50人も敵いるかな?」と考えたらしいんですよね。

でもその時に、50人が、数ではなくて、1人の人がそれを背負っている。背負い込んでくれている可能性があるなと思った時に浮かんだのが、奥さんだったんですね。「妻だ。妻が50人の敵を引き受けてくれているんだ」と思ったということです。

ひすいこうたろうくんは50冊くらい本を書いていて、一番最初に書いた本が『名言セラピー』で、それが一番売れたんですけど、ゲラを奥さんに見せたら「こんなの売れるわけがない」と、ゴミ箱に捨てられたというんですね(笑)。ゴミ箱から拾って売り出したら、すごく売れたわけです。だから、妻に「こんなの売れるわけがない」と言われると、「売れた」と思うんですって(笑)。

だから、ひすいこうたろうくんに言わせれば、50人は数じゃなくて、1人の人がそれを背負っている可能性がある。それが言うことをきかない息子であったり、わかり合えない夫であったり。そういう意味で、「50人の敵を作るのと、1人のやりにくい妻とかかわるのと、どっちがいいか」と考えた時に、今の妻を大事にしようと思ったんですって。

離婚の意識を変えた言葉

もともと、ひすいこうたろうくんは、「離婚しよう」と思って僕のカウンセリングの講座に来たんですよ。僕が最初に言われたのが、「衛藤先生、結婚って本当に楽しいですか?」と。僕は楽しかったので、「楽しいよ」と応えました。

「僕はそう感じないんですよね」という話の中で、その話が出たんですね。「50人の人が敵だと小林正観は言ったかもしれないけど、もしかしたら1人の人がそれを束ねているかもしれないよね」と僕が何気なく食事会で話したら、「妻だ」と思ったんですって。

「50人の嫌な人と付き合うくらいだったら、あの妻を大事にしよう」と思ってから、妻が僕の人生の修行の中で一番強力な敵で、それを身内に持っているだけでも楽かもしれないと。

やっぱりある種、運命共同体なので攻撃はされるけど、徹底的にけちょんけちょんにはしない。だから、それはもしかしたら楽なのかもしれないなと思ったら、すごく楽になったということですよね。

そういう意味では、僕の中には仏教もインディアンもキリスト教の考え方もあります。心理セラピーにはゲシュタルトとか論理療法とかアドラーとかいっぱいありますけど、僕はどこか1つの派閥に入るのが好きじゃなく、僕がやっているのはマイクロカウンセリングという折衷主義です。全部使えるようにしておきたいというのが、僕らが主催する日本メンタルヘルス協会です。

だからセラピーは全部やるので、ご質問いただいた「衛藤先生の考えは仏教ですか? 仏教にもそういう考え方がありますよね」というのは、本当にそうです。まさに仏教とかキリスト教とか、昔の宗教が果たした役割を、心理セラピーが現代風にアレンジし直していると思っていただくと、「なぜその香りがするのか」の答えになる気がしますね。

「プロセスを楽しむ」ことの重要性

温間:今現在4つの質問が来ているので、ぜひこの残りの時間で4つ答えていただけるとうれしいんですけど大丈夫ですか?

衛藤:もちろん。

温間:せっかくの機会なので、直接自分の声で聞いていただきたいと思うのですが、声を出せますか?

質問者:今日はありがとうございました。僕には好きな言葉というか考え方があります。「幸せは目指す目的じゃない」と。「目指すものじゃないんだけど、結果である」というのがすごく好きなんですけど、今日の先生の話とつながるところって、ありますでしょうか?

衛藤:僕もインディアンのところで生活していた時に、最終的に人生の結論は死ぬ直前に出ると。その間はプロセスで、その段階で結果の良し悪しは決められないと聞きました。おそらく、そういうことだろうと思うんですね。

例えば僕は子どもの時、先ほど言ったように両親が離婚して、おふくろも自殺して最悪だと思っていたけれども、今カウンセラーという職を持った時に、事例がそばにいたから、それはラッキーだったなと。

その都度その都度で、判断基準はこれからも変わると思うんですね。だから、死ぬ直前じゃないとわからない。そういう意味では、ゴールで出てくる結論なのかもしれない。「だったら、プロセスを楽しんだほうがいいよ」というのが僕の考え方です。

「これは正しかったんですかね、間違ったんですかね?」とか「これはよかったんですかね、悪かったんですかね?」という結果を今すぐ知ろうと思うと、それ自体がほぼ矛盾ですよね。だから今おっしゃったように、結果はたぶん死ぬ直前じゃないかなという気はします。

質問者:なるほど。わかりました。すごくピンときました。ありがとうございました。

衛藤:「プロセスも楽しみましょう」ということですね。結果は先じゃないと答えが出ないので、「自分の人生はどうだったか」というのは、プロセス過程で考えてもしょうがないということだと思います。

質問者:ありがとうございました。

衛藤:とんでもございません。いい質問です。