教育哲学者が語る「勉強するのは何のため?」

苫野一徳氏:みなさん、どうもこんにちは。苫野です。今日はご参加いただきましてありがとうございます。「きかちゃんを救う会」に少しでも応援ができたらなと思って、今日の会を開催させていただきました。

(司会の)彦野さんをはじめ、何人もの方にご協力をいただいております。あらためて感謝いたします。今日は、「勉強するのは何のため? 〜そして、未来のきみを変える読書術」というタイトルで、本邦初公開になるようなお話もたくさんあると思います。時間がどれくらいになるか少し読めないところもあるんですけれど、できるだけみなさんとのやり取りの時間も持てたらいいなと思っています。

いくらでもチャットに書き込んでいただいても構いませんし、どんどん直接お話をしていただいても構いません。和気あいあいとした時間になったらいいなと思っています。今日は小学生高学年ぐらいからであれば、きっと……。いや、ちょっと難しいかもしれないんですけど(笑)、対象年齢を小学生から大人までにしています。

ご家族で見てくださっても構いません。もしご興味のあるお子さんがいれば、ちょっと難しい話も我慢してもらえるなら、ご一緒してもらえるとうれしいなぁと思っております。

じゃあ、さっそく始めさせていただきます。昨日、この見本が届いたんですけれど、来週(9月17日に)発売されることになっています。『未来のきみを変える読書術』。なかなかかわいらしい本だなと思うんですけど。今日はこちらの内容も初めてみなさんにお話ししたいなぁと思っています。

その前に、『勉強するのは何のため?』という本も出していますので、そのエッセンスもお伝えしながら、今日のテーマについて考えていきたいと思っています。

未来のきみを変える読書術 ――なぜ本を読むのか? (シリーズ・全集)

哲学とは、「物事の本質を徹底的に考え抜いて解き明かす」学問

最初に少しだけ自己紹介をさせていただきます。いつも使っているスライドなのでもう何度も見たっていう方もいらっしゃると思いますが、私は哲学者そして教育学者をやっています。哲学とはなんなのかと一言で言うと、「本質洞察に基づく原理の提示」をする学問と言っています。

物事の本質ですね。この本(『愛』)だと、愛とはいったいなにかがわかれば、どうすれば私たちは豊かな愛を手に入れることができるのかがわかる。(『​​「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』で言うと、)自由とはいったいなんなのか。その本質がわかれば、どうすれば私たちは自由になることができるのかがわかる。

また、この本は「よい社会とはなにか」という問いに答える本でもあるんですが、よい社会とはなにかがわかれば、どうあればよい社会を作ることができるのかということも考えていけるんですね。逆に言うと、物事の本質がわからなければ、私たちはなにをどう考えていけばその問題を解き明かすことができるのか、まるでわからなくなってしまうんです。

その意味で、物事の本質を徹底的に考え抜いて解き明かす哲学は、めちゃくちゃ大事だといつも言っています。またこの哲学に基づいて、そもそも教育とはいったいなんなのか、どうあればよいと言えるのかという、この問いに答えるという仕事もしてきました。

哲学の本質は「みんなが納得できる考え」にたどり着くこと

まさに教育というのは、「そもそもなんのためにあるのか」がわからないと、信念の対立、主義主張の対立、ほとんど趣味の対立みたいなことがたくさん巻き起きてしまう。それぞれの教育観や教育の信念が違うと、教育の現場では無数の対立が起こってしまうんですよね。

そんな時に、そもそも教育っていったいなんなのか、なんのためにあるのか、どうあればよいと言えるのかという、できるだけ誰もが納得できるような本質。これをしっかりとあきらかにすることができれば、そのためにみんながどうやって力を合わせていけばいいかということを考えていけるようになりますよね。

つまり対立ではなくて、そこから協働に向かっていけるようになる。これが哲学のものすごく大事な意義だといつも言っています。

もちろん、絶対に正しい教育の本質とか、絶対に正しい愛の本質とか、よい社会の本質とかがあるわけじゃないんですけど。でも、どこまで「みんなが納得できる考え」にたどり着けるかに、すべてを懸けていく。これが哲学の一番大事な本質になります。

子供の頃に刷り込まれた、勉強への苦手意識

少しずつ本題に入っていきたいと思います。私は哲学者をやっていますが、学者は基本的に勉強することが仕事なんですよね。1日中、四六時中勉強しているわけなんですけど。ところが私自身は、子どもの時はもう勉強が嫌いすぎて嫌いすぎて、本当に嫌いでたまりませんでした。なんのためにこんなことをやらなきゃいけないのかさっぱりわからなくて、勉強にすごく苦手意識があったんですね。

今も、子どもの頃に刷り込まれた苦手意識がめちゃくちゃあって。なんで自分は学者なんかやっているんだろうって、たまに思うぐらいというか(笑)。天職だとは思っているんですけど、お勉強が本当に苦手だったんですね。

私が幼少期を過ごした兵庫県の阪神間は、中学受験がめちゃめちゃ盛んなところで、相当数が中学受験をするんですよね。私も否応なくその中に入れられて、ひたすら劣等感を煽られまくりました。

有名な進学塾に通っていたんですけど、あまりにも勉強ができないので母親が呼び出しを喰らいました。母親の前で塾の先生から「お前、この問題解いてみろ」って言われたんです。算数の、分数の計算かなんかをしたんですよ。濃度の計算だったかな。そうしたら、ありえないような桁数の数字を導き出しまして。

それを見た先生が、「ねぇ、お母さん。この子はこんな問題も解けないんですよ」って言われたんですよね。もう一事が万事、そんな感じでした。とにかく毎日毎日劣等感との戦いでしたよね。「自分は勉強ができない」「自分は勉強が苦手」「こんなのは大嫌い」って、ずっと思ってました。

なので、今でも本当に不思議なんです。毎日ものすごく勉強してるんですけど、今でもすごく苦手意識が残ったりしてるんですよね。

小1で考えていた「なんで生きているんだろう」という問い

でもその一方で、哲学的な問いへの目覚めはすごく早くて。ここにも書きましたが、小1の頃ぐらいから「なんで生きてるんだろう」とか、「なんで生まれてきてしまったんだろう」という問いをずっと考えてました。これは自分の中では本当に大事な問題で、学校や塾のお勉強は苦手だしできないけど、そんなことより大事な問題があるという思いがあったんですね。

自分はこういった哲学的な問題のほうが大事なんだよって。ちょっと強がりなところもあったんですけど、そんなことも思ってました。

あと致命的だったのが、私は流行のゲームとか漫画にまったく興味がなくて、手塚治虫が神だったんですね。その中でも『火の鳥』とか『ブッダ』という作品があって、まさに生き方を考えさせてくれる漫画なんですね。

私の子どもの頃でも、すでに手塚治虫ってちょっと古い世代の漫画だったので、周りの友だちはほとんど読んでなかったし、『ブッダ』とか『火の鳥』の話をしたって誰も興味を持ってくれないんですよね。

自分の好きなものは誰も興味を持ってくれないし、みんなの流行のものには自分が興味を持てない。だからとにかく孤独を感じてましたね。いろいろと強がって、友だちがいるようなふりをしていたし、実際に今考えればいい友だちもたくさんいたんですけど、心の中ではすごく孤独で。「なんで自分の切実な問題意識に、誰も興味を持ってくれないんだろう」って感じていました。

小1ぐらいから「ねぇ、なんで人は生きてるんだと思う?」みたいなことを友だちに言っていたんですけど、いつも「はぁ? お前なに言っとんねん」って言われてましたね(笑)。

孤立して意固地になり、過敏性腸症候群に

忘れもしません、中学3年生の修学旅行でした。ある友人が「なぁ苫野。なんで人間は生きてるんやと思う?」って言ってきた時があったんですよ。「ついに来たか!」と思いましたね。「10年待ったぞ!」と思って(笑)。

あの時のうれしさは今でも覚えています。なんだか、自分で勝手に孤独感をずっと抱えていたんですね。そうするとだんだん自分も意固地になっていくんですよ。他の人がゲームをしていたら、「ゲーム? なんだよゲームって。ゲームなんか誰がするか!」って言ってました(笑)。

私は本当に大学までゲームをしたことがなかったというか、しないと心に誓ったんですよね。それでますます孤立していく。みんながゲームの話で盛り上がるのに、自分だけまったく話ができない。でも「それで構わないんだ」と。俺には『火の鳥』と『ブッダ』があるんだと(笑)。

ずっと意固地になっているとなにが起こるかというと、心身に不調をきたすんですね。一番つらかったのは、過敏性腸症候群というやつです。とにかくお腹がいつも下痢なんですよ。もう本当に重度でしたね。

当時は過敏性腸症候群という病気があることを知らなくて、私は大学になって初めてそういう病気があるのを知りました。病気だったら「まぁなんか仕方ないか」って、ちょっと恥ずかしくなくなったんですけど。やっぱり長い間、めちゃくちゃ恥ずかしかったんですよね。

なにかあったらすぐトイレに駆け込むわけですよね。「絶対に友だちにバレちゃいけない」と思って、でもトイレに行けないってちょっとでも思うと、お腹が痛くなるんですね。だから授業中とか、教室で座っているのが耐えられないわけです。だからお尻に消しゴムを詰めてるっていう、そういう子ども時代だったんです。

電車も乗れないし、飛行機も乗れない、バスも乗れない。本当にしんどかったですね。これも最近ようやく、ちょっとずつ良くなってきたんですけど。今日もこの講演会の前は、ずっとトイレにこもってました。いつでも私はトイレにこもってるんです(笑)。

18歳でうつ状態になり、「人類愛教の教祖さま」になる

そんな中で、本格的に精神を病んだのが18歳ぐらいからで、躁うつ状態になりました。ものすごくハイになる時と、ものすごくうつになる時とを周期的に繰り返すのを、8年ぐらいやったんですね。これも本当に辛くて。うつになると、いつも自殺することを考えて、躁状態になるとよくわからない全能感に満ち溢れて。

ある時、躁状態の時に、冗談じゃなくて本当に「人類愛教の教祖さま」になっちゃったんですよ(笑)。「なに言ってるんだこいつ、怪しすぎだろ」って思われると思うんですけど。『子どもの頃から哲学者』という本で私の人類愛教時代の話をあけすけに書いたので、もしご興味のある方いらっしゃればお読みいただければうれしいです。

人類愛というのは……かつて生きていた人類、今生きている人類、これから生きてくる人類、この世のすべての人が誰1人として欠けることができない。誰か欠けたとしたら私が存在しえないというぐらい、すべての人類は結ばれあっているんだという絶対的な直感としてあの時はやってきたんですね。病気だったので許してください(笑)。

上から降ってきたんですよ。降ってきたというか、その光景が見えたんですよね。すべての人類が互いにつながりあって愛しあっていると。これは世界の真理だと思って、この世の真理は人類愛だと説いてまわっていたら、宗教みたいになっちゃった時期があったんです(笑)。

哲学と出会い、自分の「孤独を埋めたい」という欲求に気づく

ただ、この後に哲学と出会うんですね。哲学に出会って、その人類愛もろとも私のすべてが壊れていくという経験をしました。なぜ自分がそんな人類愛みたいなものを見てしまったのか。ここで「欲望相関性の原理」という哲学の考え方があります。竹田青嗣という、やがて私の師匠になる人が言っていることです。

私たちのものの見え方・考え方というのは、欲望に応じて世界を見ているんです。喉が渇いた時には、そこにある水は「飲み水」と認識されます。でも火を消したいという欲望があった時は、これは「火消し水」になるんです。誰か敵がやってきたら、この水は武器になるかもしれないですね。

私たちのものの見え方は絶対に正しいものがあるわけじゃなくて、いつでも欲望に応じて世界を見ているんだという、この「欲望相関性の原理」を知りました。他にもいろんな哲学の考え方を竹田青嗣から学んだ時に、「そういうことか」とわかったんです。

そして同時に、私自身がドドドドドと、世界もろとも壊れていくという経験をしました。その時に気づいたんですね。「あぁ、人類はみんな愛し合っているって思い込んでいたけれど、実はこれは『人類はみんな愛し合っていてほしい』という欲望だったんだな」と。

特に幼少期からずっと孤独感を抱えていたからこそ、この自分の孤独を埋めたいという欲望がすごく強くあって。孤独を埋めたい欲望に応じて、「実は人類って愛し合っているはずなんだ」という強烈な世界の見え方をしてしまったんじゃないかなと、ある時ふと思い当たってしまったんですね。

そうしたら、今まで自分が、なんとか自分を生きさせるために必死になって築きあげてきた世界観というものが、全部崩れるわけです。そしてすべてが壊れて空っぽになって、私もまたうつ状態に陥りました。でもその時に、「自分をここまで破壊した哲学には、なにか大きな意味がある。なにかすごい力があるぞ」と気づいて、竹田青嗣の本を全部読み、そして「哲学」というものを一つひとつ読んでいくことになったんですね。

哲学を始めて認識した「人生をかけて研究したい問い」

「哲学」とは、さっき言ったように「物事の本質を洞察する」という、極めて強靭な思考法なんですね。2500年の長きにわたって人類が徹底的に鍛え抜いてきた思考法なんです。

それを自分の中にインストールする中で、「そうか。自分のひ弱な思考ではなくて、本当に力強い考え方を身につけていくことができれば、本当に自分が解きたい問題、解かなきゃいけない問題が解けるぞ」とだんだん気づいていったんですね。そして、哲学を0からやり直すようになりました。

その中で、自分の中の「人生を賭けて探究したい問い」がはっきりとしてきました。一言で言うと、「多様で異質な人たちが、どうすればお互いに了解し承認し合うことができるだろうか」。これが自分が生涯をかけて解決したい問題だと気づくんですね。

自分はずっと孤独だ、孤独だと思っていたし、ある時は「誰も自分のことなんか理解してくれないし、むしろ理解なんかされてたまるか」ぐらいに意固地になってた時期がずいぶん長かったんですよ。でも実は、本当は心の中で「理解してほしい、愛してほしい」という思いをずっと抱えていたんですよね。

ということは、いろんな人たちがこの世の中にはいるけれど、みんなどうやったらお互いを認めあうことができるだろう、了解しあうことができるだろう。ここが自分が生涯かけて問わなきゃいけない問題だなぁと、哲学を始めてはっきりと認識していくんですね。

1つの問いが解けると、新たな「解かなきゃいけない問い」が生まれる

ではそういった社会はどうしたら可能になるのか。それから、教育はすごく大事なんですね。この後も少し言いますけれど、教育はすごく大事。そんな教育って、どうやったら可能になるのだろうか。つまり、そもそもよい社会ってなんなのかとか、そもそも学校教育ってなんのために存在しているのか。ここから解き直さなきゃいけないんだと、問題がどんどんはっきりしていくんですね。

それから、やっぱり人類愛が降ってきていましたから、愛っていったいなんなんだという問いはどうしても解かなきゃいけないって、ずーっと思っていました。これらそれぞれの問題は、一応自分の中ではけりをつけることができました。

こちらに挙げた本の中で、『愛』はこの問いに答えるのに20年かかりましたね。自分の中では一応「愛」とは何かがわかった。「どうすればそれは可能か」もある程度わかったなぁと思っています。「よい社会とは何か?」も、「よい教育とは何か?」も、自分としてはけりをつけることができたと思っています。

他にもたくさん問いはあるんですけど、問いっておもしろいもので、1つ問いが解けると、また次の問い、また次の問いって、「どうしても解かなきゃいけない問い」が生まれてくるんですね。

なので、じゃあそんな社会ってどうすれば作れるんだろう。そんな教育ってどうやったら実現できるんだろうとか、こういった問いにどんどんより具体的、実践的な問いにも立ち向かっていきたいなぁと思っているところです。