「おもちゃの誕生秘話」と「おもちゃ流のアイデア発想法」

大澤孝氏:本日は、どうもありがとうございます。大澤と申します。よろしくお願いします。

(会場拍手)

ありがとうございます。今日はコロナの関係で、多くの参加者の方がオンラインということで。カメラの向こうのみなさま、よろしくお願いします。会場にもいっぱい来ていただいて、本当にすごく感謝しています。今日は楽しくやっていきたいと思いますので、お付き合いいただきたいと思います。

テーマとしましては「“社内外から引っ張りだこになる”おもちゃ流アイデア発想の極意」ということで。

ちょっとたいそうな題名にしていますが、自分なりにいろいろおもちゃを作って学んだことなんかをお話ししたいと思っていますので、よろしくお願いします。

「何の話をしようか?」と悩んだので、事前にアンケートを実は取りまして。1位は「アイデア発想法」だったんですが、その他の3項似たような感じで「おもちゃの誕生秘話」とか「業界の話」とか「おもちゃができるまで」みたいなことが、同じくらいの得票数だったで、全体を2つのコーナーに分けました。

前半のパートが「こんなものを作りました」という感じで。僕がこれまで手掛けたおもちゃがいろいろあるので、その「おもちゃの誕生秘話」とか、それを話す中で「おもちゃ業界の裏話」「おもちゃができるまでの過程」みたいなことも説明したいと思います。

後半のパートでは「おもちゃ流のアイデア発想法」ということで。おもちゃを作って学んだ、自分なりの発想法みたいなお話をさせていただきたいと思います。一応、90分で話そうと思っていますが、最後までお付き合いいただけたらと思います。

23年間、一貫しておもちゃを作り続ける「トイクリエイター」

改めまして自己紹介なんですが。「トイクリエイター」と名乗っていますけども、おもちゃ作りをずっと仕事にしておりまして。今まで23年間くらい、おもちゃを作っております。今はアイデアステーションの代表をしながら、株式会社パートナーズというところで、玩具部門・マーケティング部門の部長をやっております。

タカラトミーに21年間くらいおりまして、そちらでいろんなおもちゃを作っているんですが。その経験を生かして、今はパートナーズというところでおもちゃを作っています。一貫して、おもちゃ作りの仕事をしています。

最近は「共創」ということをテーマに仕事をやっていまして。自分1人でものづくりをするんじゃなくて「いろんな方と一緒にものづくりをしよう」というテーマで仕事をしておりますので「共創に新しい価値を生み出す」ということを、今、仕事のモットーとしてやっております。

最近は自分だけじゃなくて、いろんなクリエイターの方とか、いろんな企業の方とかと一緒にものづくりをやらせていただいています。その他、見ていただいたかもしれませんが「アイデア総研」のサイトを運営したりとか。あとは、大阪府立大で講師をやらせていただいています。

「ひらめき」に頼ると、アイデアを出すのって本当に大変

1998年。(会場の参加者に対して)2人とも若いからたぶん、子どもの頃だったと思いますが。今から23年前からおもちゃをずっと作っておりまして、今もまだ作っています。ですので、ひたすら共通してやっていることは「おもちゃの開発」ということで。ちゃんとは数えてないですけど、だいたい500個を超えるくらいのアイテムを作っていまして。本当に、一生の仕事としてもおもちゃ作りを続けたいなと思っています。

おもちゃ作りをやっているんですが、それ以外にもライフワークとしてやっていることがあります。500個くらい作ると、もうネタがすごく大変なんですよね。アイデアを考えるのが仕事ではあるんですが、これらも本当に、日々アイデアを考えなきゃいけないので、大変なんですよね。アイデアって、出たり出なかったりするので。

どうすればいいかな? という中で「ひらめき」に頼ると、アイデアを出すのって本当に大変で。これが例えば「1年に1個(のおもちゃを)作れ」と言われたら、ひらめきが出るまでずっと待っていればいいんですけれども、そうもいかないんですね。500個も作ると「ひらめきに頼らないで、ものづくり・アイデア出しができないか?」というのを考えていまして。簡単にいうと、楽をしたいんですよね。考えるのって、苦労しますから。

「なんとかシステマチックに考えられないかな?」みたいなことを、日々考えていました。「どうすればアイデアって出るんだろう?とか「アイデアが出たときって、どうやってたかな?」みたいなことを考える中で、楽をしたいがために考えてきた。

アイデアは勘に頼らないでも出せる

そうこうしているうちに、いろいろと「アイデアの発想法」みたいなことをまとめるようになってきたら、それを「アイデアの出し方」として社内の新人研修みたいなところでしゃべったりし始めて。そうすると、また外の企業さんとかと「一緒にコラボしましょう」とか「うちの会社でも、新人研修やってください」みたいな話が出たりして。徐々に、こういうことを話す機会が増えてきました。

大学が多いんですけどね。大学で学生さんにおもちゃ流のアイデアの出し方を教えたりとか、あとは企業さんと話ししたりとか。あと、行政の「市のイベント」とかに呼ばれて、アイデアの出し方の話なんかをします。

こういうのをまとめていく中で、アイデアの出し方って「勘に頼らないでやれるな」ということをすごく感じておりまして。それを日々、体系化しています。誰が見てもアイデアを出せるようなやり方。そういったものをまとめるのをライフワークとしていますので、今日はその中で培ったことを、少しお話しできたらいいかなと思っています。

今日、全部は話せないので「アイデア総研」というサイトを見ていただけましたら、話せなかったところに関してもいろいろ載っているかと思いますので。余裕があったら、ぜひ見ていただきたいと思います。

あと、Twitterを今年の2月ぐらいからちゃんと運用しだしまして。日々、アイデアの出し方みたいなことを、なるたけ毎日出していきたいなと思っているんですが。

これもいつか尽きると思いますし、あまり言うと自分の首を締めるので。ゆるい感じで更新しながら、アイデアの出し方なんかもアウトプットしてきたいなと思っています。ですので、今日話せなかったところは、アイデア総研とかTwitterのほうも、ぜひ見ていただきたいと思っています。

23年間で作ったおもちゃの「誕生の経緯」と「企画のヒント」

ではさっそく、第一部に入りたいと思います。自己紹介も兼ねまして「こんなものを作りました」という、僕がこの23年間で作ったおもちゃ。「どういう経緯で作ったか?」「どんな思いでアイデアを出したか?」とか、そんな話をしながら「企画のヒント」みたいなところをお話しさせていただきたいと思っています。

こういう話をよくするんですけど。売れた商品のことしか言わないですよね、だいたいね。(笑)。売らないと「なんでこいつ、(登壇者としてここに)いるんだ?」みたいになっちゃうから、売れた話をするんですが。500個も作ったら、当然売れないものもありますし、逆に売れないものがほとんどなんですよね。

「1割ヒット出したら天才」と言われる世界なので、もうほとんど売れていないです。ですが、売れたものばかり話すと、なんかちょっと片手落ちな感じもするので。今日は敢えて、いつもは話さないんですけど、売れなかったほうの話もしたいと思いますので。

クイズ形式みたいになるかわからないんですけど「売れたものと売れていないものの違いは、どこにあるんだ?」みたいなことを見ていただけると、これからアイデアを考える時にヒントになると思いますので。こちらを全部で10個話したいと思います。

いかにして「ビーダマン」は生まれたか?

1個目が「ビーダマン」というおもちゃです。(会場の参加者に対して)お二人は若いのでご存じないかもしれないですけど、配信を見ている方はたぶん「ああ、あれだ!」と思っている方もいらっしゃると思いますので、心の中で「あれだ!」と思ってください。

そんな「ビーダマン」というおもちゃがございまして。1993年なので、物心付いていないというか、生まれていない方もいらっしゃると思いますけども。これでリアルに遊んだ世代って、30代後半かな? と思いますが、タカラで1993年から売っているおもちゃです。

僕がタカラトミーに入ったのが1998年なので、僕が入る前から売っていたおもちゃなんですが。「どのようにしてビーダマンは生まれたか?」みたいなエピソードを先輩から聞いたので、その話をしたいと思います。

小学生男児の遊びの両輪「おもちゃとゲーム」のバランス

おもちゃの歴史を話す前に、ゲームの歴史を時代背景で話したいと思います。1983年にファミコンが出ました。僕はもうずっと玩具業界にいますが、これは本当に歴史的な出来事で。

昔はクリスマスとか誕生日というと、もう「おもちゃを買う」と相場が決まっていたんですよね。絶対に売れたんですけど、ここから歴史が変わりまして。ゲームというのが、子どもたちの中で大きなウエイトを占めるようになりました。

1983年のファミコンから1987年にPCエンジン、1989年にゲームボーイ、1990年にスーパーファミコン、1994年にプレイステーションと、本当にどんどん性能が上がっていって、新しいゲームが山ほど出ました。

子どもたちはこの刺激をすごく受けたので「じゃあゲームソフトを買おう」というと、お金の問題でおもちゃが買えなくなっちゃうんですよね。ファミコンのソフトが当時で5千円とか6千円とかしたと思うので。そういったものが変わってしまうと、おもちゃシェアが減ってくるというようなことがございます。

小学生男児の遊びの両輪。今も変らないですが、テレビゲームとおもちゃというのが、だいたい子どもたちのクリスマスとか誕生日のプレゼントになるんですが、財布(予算)は決まっています。

なので当然、大ヒットテレビゲーム。みんな買うような大ヒットゲームがあったりとか、今でいうNintendo Switchとかがめちゃめちゃ売れると、おもちゃが売れなくなります。(おもちゃ)業界的には、その年は非常に苦しい時になりますし。

逆に「テレビゲームのヒットがないと、おもちゃが売れる」みたいに、限られた予算というか親のお財布ですかね。子どものお小遣いとか。この辺を、どのくらい割いていただけるか? というのが、テレビゲームの状況によって変わってくるようになったというのが、1983年以降の業界の様子です。

「ゲームのキャラをおもちゃにしたらいいんじゃない?」

という状況にあって、1993年に「ビーダマン」を作った、当時の僕にとっての先輩は「どうしようか?」と。「テレビゲームにパイ取られちゃって、困るよな」という話をした中で「いっそのこと、テレビゲームのキャラクターをおもちゃにしたらいいんじゃないか?」と、当時の先輩たちは考えました。

そこで目をつけたのが、こちらの「ボンバーマン」というゲーム。最近、またNintendo Switchで出ているのかな? もしかしたら、最近の方もご存知かもしれませんが、これ、めちゃめちゃおもしろかったです。僕はファミコンでやったんですけど。

すごく画期的なゲームで、パズルゲームというかアクションゲームなんですけどね。爆弾を使って、どんどん敵を倒してクリアしていくようなゲームなんですが。対戦がゲームボーイでできるようなって、そこから一気にめちゃめちゃ流行りました。今やってもおもしろいゲームなんですが。

この「『ボンバーマン』を使って、おもちゃを出そうよ!」というアイデアが出まして。それがこの「ビーダマン」の始まりです。写真を見ると「ビーダマン」って「ボンバーマン」の格好をしておりますが、お腹にビー玉が入っています。このビー玉を発射するんですが、これは「ボンバーマン」の爆弾をイメージしていて。爆弾を発射して敵を倒す、という感じのおもちゃでした。

1個だけ売っても儲からないから、いろんな「パーツ」が登場

そんな流れで「ビーダマン」というおもちゃを、1993年に売り出しました。これがけっこう売れたんですよ。なんで売れたか? というと、ビー玉遊びってシンプルなので、なんでもいいんですよね。「適当な的を置いてそれを倒す」という遊びが、家の中とかいろんなところでできたので、わりと遊びの汎用性が高かったんです。場所を選ばず遊べたので。

当時のタカラは、いろんな遊びのセットを出していって「こんな遊び方ができるよ」「こんな競技ができるよ」みたいなことをどんどんやって、大会とかをやっていました。

そうして流行っていったんですが、やはりこの人形、1個だけ売っても儲からないんですよね。「これ売って終わり」になったら、そのあと売れないですから。なので、当時どうしたかというと、いろんなパーツを出しました。

例えば(スライドを指して)これは「マガジン」というんですけど。これは何か? というと、ここにビー玉入れます。普通の「ビーダマン」はビー玉を1個だけ入れて打つんですけど、連射ができないですよね。でもマガジンを付けると、ここにビー玉を2~3個入れて連射ができるということですね。

また「バレル」というパーツもあって、これは何かというと重心になっていて。普通の「ビーダマン」は、玉がどちらに飛ぶかわからないんですけど、これを付けるとまっすぐ進むんです。なので、バレルやマガジンを付けていくことによって、どんどん性能が上がっていくというふうになっていって。

最終的にはこれが「(パーツを付けすぎて)ビーダマン、どこにあるの?(笑)」という感じに。「こっちのパーツが本体じゃないの?(笑)」な感じになっているんですけど。このように「ビーダマン」が、どんどんパワーアップしているんですよね。そんな感じでヒットしていきました。

ヒットを決定付けた『コロコロコミック』の漫画連載

そして、これのヒットを決定付けたものがあったんですが。懐かしいと言えば懐かしいんですけど『爆球連発!!スーパービーダマン』という漫画がありまして。今でもたまに、ネットに画像が載っていたりするんですけども。

小学館『コロコロコミック』で「ビーダマン」発売の2年後、1995年からスタートしまして。僕がちょうど会社に入った1998年の頃に、まさに絶頂期という状況でした。

今賀(俊)先生が描いた傑作漫画なんですが。この漫画がなにしろ、めちゃめちゃおもしろい。漫画の中でいろんな競技するんですよね。それで「パーツを付けると強いぜ!」みたいなことを漫画でやっていくので、それを見て子どもが「じゃあ買おう!」みたいな感じで。漫画が盛り上がるほど、どんどん商品が売れていくというサイクルになって。

そして「ビーダマン」が非常にヒットした、という歴史になって。僕はちょうどヒットした頃に入らせていただいた、という流れになっています。

おもちゃの開発者たちがキャラになってTVに出る時代だった

余談なんですが、そういう「ビーダマン」の話をしてくれた先輩方は、当時、テレビに出ていました。変な感じなんですけど、当時はけっこうおおらかな時代で。おもちゃを作っている自分がキャラクターになって、漫画に登場してテレビにも出る、みたいな感じで。今はあまりやらないんですけど、当時は自前でやっていたんですよ。

なので、(スライドを指して)ドクター・タマノという……これはアマノさんという方なんですけど。この方は、いつも会社来る前にテレビ東京に行って収録していたりとか(笑)。本当におもしろかったんですけどね。

この方にもおもちゃ作りのノウハウを教わったりしたんですが。こっちのマスター攻略王というのは、マーケティングをやっていた方なんですが。この方が“名人”みたいな感じで、自分で大会をやってキャラクターになったりなんかして。

僕は運よくというか悪くというか、キャラクターにはならなかったんですけど(笑)。こんな世界でやっていまして、本当にすごく楽しかったですけどね。学生のノリでやらせていただいたし、僕がテレビで見ていた方が教えてくれるのですごく楽しかったです。

ビーダマンがヒットした、3つの要素

ちなみにこれ、僕が作った「ビーダマン」の中で一番売れたものなんですが「スプレッドワイバーン」というやつで。一応、デザインかじっていたんですけど、当時は三面図で描きました。

これが主人公のライバル(西部)丸馬くんが使った「スプレッドワイバーン」というやつで、けっこう売れたんですけどね。これが入社2年目とかで担当して、思い出に残っているやつです。ということで、「ビーダマン」はすごく売れました。

これは『コロコロコミック』とのタイアップが成功しました。あと、プラモデルなんですよね。キット式で組み立てるようになっているので、そもそもガンダムみたいな感じで、プラモデルとして作って飾るだけでもおもしろい・格好いい、というところがあって。そこのおもしろさで売れました。

また、ビー玉遊びというのが絶妙で、なんでも遊べちゃうんですよね。その辺にペットボトルを置いておいて倒せば遊べちゃうので。友だち2人いれば、とりあえずパッと競技ができるみたいなところで。非常にこの辺の完成度が高かったので売れた、というところで。これはまず、最初のヒット商品というかたちの商品になります。