アニメとゲームの2020年代、地殻変動は次のステージへ

数土直志氏(以下、数土):みなさん、こんにちは。「アニメ×ゲームサミット2021」の最初の基調講演になります。今日は平澤直さんに「アニメとゲームの2020年代 地殻変動は次のステージへ」ということでお話を伺います。

私は今回聞き手を務めさせていただきます、ジャーナリストの数土直志です。ではさっそく平澤さんに自己紹介をお願いいたします。よろしくお願いします。

平澤直氏(以下、平澤):みなさん初めまして、今日はお時間いただいてありがとうございます。基調講演を拝命しました平澤でございます。せっかくのお時間ですので、みなさまに多くのものを持ち帰っていただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

さっそくですけれども、用意しましたシートがありますので、そちらをご覧いただきながら今日のメニューを進めていきたいと思います。

本日のメニューです。大きく4ブロックで進んでいきます。自己紹介のパート、そして「地殻変動」と表現したアニメ産業の変革のお話。さらに、「地殻変動は次のステージへ」という今回のタイトルのとおり、今後のアニメ産業がどう変わっていくかについて、自分なりに考えていることをお伝えしたいと思っております。

まとめのところでは、数土さんとの意見交換も含めて、さらに議論を深めていければと思っております。それぞれのパートにおいても数土さんからすでにご質問をご用意いただいているということで。ちょっとドキドキしながら、質問に一つひとつ回答していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

代表作のジャンルは「アニメ×異業種」

平澤:では進めてまいりましょう。簡単ですが自己紹介をさせてくださいませ。私、グラフィニカの代表取締役をやっております、平澤でございます。1978年生まれで社会人20年目、ずっとアニメ畑を進んでまいりました。

「アニメ×異業種」でわりと括れるようなタイプの作品が多く、代表作はだいたい異業種とのコラボレーションを含んでおります。そういった活動の中で2020年4月からグラフィニカの社長になりました。

そこに至るまでのキャリアを少しだけ説明させてください。3つのアニメ関連企業を経て、今は独立して代表就任となっております。一番最初はバンダイビジュアル(現:バンダイナムコアーツ)さんというビデオメーカーさんに新卒で入りました。

次にプロダクション・アイジーという手描きのアニメスタジオでプロデューサーとしてデビューしたあと、ウルトラスーパーピクチャーズという会社で主にアニメスタジオの企画開発のお手伝いを中心にしていました。

2017年からアーチという会社で、自分で企画・プロデュース会社を設立するに至りました。そこで活動しているうちにご縁があって、グラフィニカ社の代表に就任したという次第です。

では、さらに細かくお話しさせてください。もともと2001年4月から2005年10月の4年半、バンダイビジュアルという会社にご厄介になっていました。

自分はアニメーターになりたかったんですけど、「これはまったく無理だ」というぐらい絵が下手でございまして(笑)。大学へ行ってる時に著作権法と出会い、これを軸に勉強と就活を重ねて、一定の評価を得てバンダイビジュアルに入ることができました。

アニメ業界の変革を進めたいと、独立の道を選択

平澤:ジョブローテーションをしてる間に「DVDのマーケットは、これからちょっとしぼんでくるかもなぁ」と思ってしまい、「ほかで役に立てるところはないか」ということで、2005年10月にアニメスタジオでプロデュースをやることを思いつきました。

2006年2月に、上場直後のプロダクション・アイジーで「法務の責任者と兼任でプロデューサーをやっていいよ」と言われて。後任育成に成功して、2011年4月にキャリア10年目でプロデューサー専業になったと(笑)。

『翠星のガルガンティア』というタイトルで、ある程度委員会にきちんとお金を戻すことに成功しましたが、同時に「手描きのアニメ、これからちょっと苦しいかもなぁ」と思ってしまいました。じゃあさらに役に立つために、「CGのアニメスタジオでプロデューサーをやろう」と思って転職いたしました。

2014年7月から2017年9月まで、ウルトラスーパーピクチャーズという会社にいました。例えば『プロメア』のトリガーさんや、『BanG Dream!』のサンジゲンさん。あとはいろんな漫画やゲーム原作のアニメをやっています、ライデンフィルムさん。こういったスタジオの企画部門の責任者をやらせてもらいまして、『モンスターストライク』のアニメ等を担当しました。

そうするうちに、今日のテーマでもある「今って、20年に一度の地殻変動の時期じゃないかな」と思うに至りました。「変革を進められる存在になりたい」「でも転職する会社がない」ということで、「自分でどんどんリスクをとってみよう」と独立したのが2017年10月ですね。

アニメのプロデューサーと経営者というところ(ポジション)で、企画プロデュースの会社を始めました。トリガーさんの『プロメア』というタイトルに関わらせていただいたり、あとはサウジの劇場アニメの『ジャーニー』を手掛けるうちに、グラフィニカにもいくつか「こういう案件を一緒にやりませんか?」と提案していました。その結果、2019年4月から取締役を拝命し、社長就任となりました。

2020年4月からグラフィニカの社長になったんですが、実はグラフィニカと自分はそれまでにもご縁がありました。2012年1月に放送した『輪廻のラグランジェ』を、2011年1月ごろにCGの制作を依頼して。これはロボットアニメなんですけど、飛行形態で飛んでるところをCGでやっていただいたり。

2014年には『楽園追放』を見て、「この会社さんはすごい将来性があるからぜひ仕事をして、クライアントを紹介していきたいな」ということで、いくつかのメーカーさんをご紹介したこともございました。

というところが、まずは駆け足で自分のキャリアの20年でございました。ご清聴ありがとうございます。さて、ここまでがブロック1だったわけですけれども、数土さん、なにかご不明な点ありますでしょうか?(笑)。

数土:20年と言っても、たぶんほかの人の一生の3倍ぐらい、もうすでに動いてますよね。

平澤:ありがとうございます。

「名前を覚えておいてもらった」が活きる世界

数土:本当に単純に不思議なんですけど、キャリアチェンジをする時や新たな仕事を始める時に、当然「人の縁」が発生するわけじゃないですか。それってどうやって手繰り寄せたり、巡り合ってるんでしょうか。

「独立したい」とか「別のキャリアを探りたい」という人は世の中にたくさんいると思うんですけど、なかなかきっかけがない時に、どうやってそういう人脈を作っていってるんですか?

平澤:種明かししますと、自分は新卒で入ったバンダイビジュアル以外はすべてリファラル採用で、関係者とのご縁で(キャリアが)作られていきました。

神山(健治)監督の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の第2シーズン、『2nd GIG』。この時自分は、バンダイビジュアルでこのタイトルのアシスタントプロデューサーだったんです。

それで、DVDの映像特典を作る時にアイジーに出入りしてるうちに、メンバーと仲良くなって。今はNetflixに行った櫻井(大樹)さんとか、当時から仲良かったんですね。その関係の中で「さて(これから)どうしようかな」といろんな相談をしてたら、「じゃあぜひウチに来てください、社長に紹介します」と言ってもらって、ある種引っ張ってもらったところがあります。

また、アイジーからウルトラスーパーピクチャーズへの転職のきっかけは、ウルトラスーパーピクチャーズの中心的なメンバーである、サンジゲンの社長の松浦(裕暁)さん。実は自分、バンダイビジュアル時代に独立直後のサンジゲンの松浦さんとお仕事してたんですよね。当時、『きらめき☆プロジェクト』と『ストラトス・フォー』というタイトルでお世話になってるんです。

おっしゃるとおり、ありがたいご縁に恵まれています。やっぱり、仕事したメンツと次もまた仕事できる状況にできたことが、自分のラッキーなポイントだったかなとも思ってまして。

アーチで独立してすぐに仕事をくださった方々の中には、『ワンピース』をずっと続けられていた、東映アニメーションの清水(慎治)元常務との関係があったり。さまざまなところで軽くお仕事をした時に「名前を覚えておいてもらった」こととかがわりと活きる世界なんですよね。

社員の「出」はあるけど「入り」が少ないアニメ業界

平澤:アニメ業界ってよく「人が抜ける」って言うんですけど、逆に中途で入ってくる人はあんまりいないんですよ。みんな若い時にワッと入ってきて、そこからだんだん抜けていくんだけど、残る人って10年来や20年来の知り合いがけっこう多いんですよね。

なのでアニメ業界は、「出」はあるけど「入り」が少ない世界です。長い間やっている時のご縁を大事にしていると、わりと次の良いステップにつながっていくのはあるかもしれないですね。「(一緒に)仕事をしたことがある会社にしかだいたい転職してない」って言い方もあると思いますが、これはアニメ業界の良い特徴かもなって。

逆に一度悪さをすると、長くそれが残っちゃうので(笑)。一見自分にとっては損に見えても、いろんな仕事を通して相手に得になることをしておくと、あとで呼ばれることはけっこうあるかもしれないですね。そんな感じで自分は思ってます。

数土:第2ブロック、第3ブロックがまだあるんですけど、もう1個だけこの第1ブロックで話をお伺いします。いわゆる内部スタッフや、法務とか海外番販(注:民放各局が海外に番組そのものを販売すること)もやり、プロ向けの制作のプロデューサーもやり、スタジオのプロデューサーもやり……とけっこう多彩なんですけど、これのメリット、あるいはデメリットを感じられたことってあります?

平澤:メリットはやっぱり、多面的な視座を持ってさまざまな課題解決にあたれることです。デメリットとしては確かに、それぞれの職務のときにつながったご縁の中で必ずしもすべてのご縁が継続するわけではない、とは思いますね。

長いスパンで付き合うべきクリエイターさんとのご縁で言うと、アニメーションプロデューサーをずっとやられている方の力を借りて、アニメを作ることになります。自分としては、たまたま今ありがたいことに多くのチャンスをいただけているので、結果的にそれは良かったんだろうなと思ってるところが大きいです。

20年に一度のアニメ産業の変革、キーワードは「二極化」

数土:はい。じゃ、次いきましょう。

平澤:いきましょう。アニメ産業の変革についてご説明させてください。アニメ産業の20年に一度の変革、キーワードは「二極化」だと思っています。

どういうことかというと、これまで多くのアニメのメインスポンサーは、週末アサアニメだと国内の玩具メーカーや食料品メーカー。深夜アニメだと国内のビデオメーカーがメインでした。けれど、巨大配信プラットフォームや巨大ゲームIPがメインスポンサーとして名乗りを上げてきます。全部が変わるわけじゃありません。一部そういったところに変わります。

ところが、規模や求められる強度、感動してもらわなきゃいけない相手とか。いろんな意味で、どうにもこれまでとは規模や方向性の異なる人たちとお仕事をするようになってきたんじゃないか……というふうに、業界内では言われています。

こうした二極化がどのように進んだかを、変革期前と変革期突入後でご説明していきたいと思っています。

では、変革期前の2010年代前半ぐらいまでのアニメ産業はどういうふうに進んでいたかについて、ご説明させてください。これは、アニメの産業をビジネスの収益モデルという点で、簡単に時系列にまとめたものです。

一番最初にアニメがビジネスになったのは劇場アニメで、戦前からあるにはありました。その後、番組提供型の週末アサのテレビアニメ。割と最近まで平日の夕方とかにもぜんぜんやっていたんですが、これが1960年代に台頭してきます。これは今もございまして、いわゆる番組提供型アニメ、スポンサード型アニメとも言われたりしますね。視聴率をとるのが大事なアニメです。

円ドル相場で、ドルが強く円が弱かった時代には、海外のワーナーさんやディズニーさんのアニメを作画だけ請け負うというような、合作アニメと呼ばれているものも実はありました。

これは今は円が強くなったので、ある時期からあんまり行われなくなって、東南アジアやインドに移っていった時期がありますよね。その後1990年代の半ばぐらいから、みなさんご存知の深夜テレビアニメ、製作委員会型がだんだん登場します。一番最初の深夜アニメは、1996年か1997年ぐらいから出てきました。

というようにさまざまな手法が試されてきますが、現在の大きな主流としては劇場アニメ、週末アサのテレビアニメ、そして深夜アニメと区切ることができると思います。こうしたお金の儲け方の変遷を経て、今のアニメ業界のある種のリスク分散の仕方が形成されてきたと言えます。