家業を継いだ跡取りの本音、全部話します
業態変換で成功した“アトツギベンチャー”のリアル

トークセッション① アトツギ × 業態転換 #1/3

2019年4月20日、INBOUND LEAGUEにて「アトツギベンチャーサミット 2019 春」が開催されました。「親の仕事を受け継ぐことになった」「婿入り先の会社経営を任された」「後継者だけど、事業転換を考えている」……さまざまな事情により事業の跡継ぎとなった人たちは、事業拡大についてどう考え、なにを成そうとしているのか。このイベントにはアトツギベンチャー社長が多数登壇し、後継者ならではのリアルな体験談や本音を赤裸々に語りました。本記事では、「アトツギ × 業態転換」をテーマに行われたトークセッションから、冒頭の自己紹介パートを中心にお送りします。

跡取りの悩みは、同じ境遇の人にしか理解してもらえない

山田岳人氏(以下、山田):それでは始めたいと思います。今日はソーシャルOKということなので、TwitterやFacebook、Instagramとかに、ぜひ積極的に投稿してください。「#アトツギu34」というハッシュタグを付けてどんどんアップしてもらって、どんどんこの輪を広げていきたいなと思っています。

では最初にちょっと質問ですけど、「今、もう家業に入っている」という方はどのくらいいらっしゃいますか? 

(会場挙手)

お、すごい。じゃあこれから家業に入ろうかどうか迷っているか、これから入るかもしれないという方はどのくらいいますか? 

(会場挙手)

なるほど。今日はテーマのとおり、後継者だけが集まるイベントです。登壇者も含めて全員になにかしら家業があって、そこに生まれた、もしくは嫁いだとか。僕もそうなんです。そういう人たちが集まってくる会になっていますが、こういう会は、たぶん日本にはあまりないんじゃないでしょうか。

後継者といっても、やっぱりそれぞれ境遇がぜんぜん違うというか。経営者の跡取りという悩みは、幼なじみにも仲のいい彼女にも、絶対に理解できないんですよね。これはみなさんも感じる場面があると思います。

僕たちの社団法人では、僕たち先輩……と言ったらあれですけど、そういう経験をシェアすることをテーマにしています。「僕たちはこういう経験をしたよ」ということをみんなで共有しましょう。

攻めに攻めたトークでの、30分1本勝負

山田:僕たちが経験したことが、もしかしたらみなさんがこれから経験することに当てはまるかもしれない。「変に悩まなくていいよね」「こういう経験をして、こういう判断をしましたよ」ということを共有できる場を作りたいというのが、この社団法人のもともとの想いです。

なので、僕たちが一方的にアドバイスするということはぜんぜんないです。そういうつもりもないですし、したらダメだと思っているので。みなさん経営者同士ですからね。そういう意味では、立場としてフィフティーフィフティーです。

こうやってオフラインでお会いできる機会は年に数回しかありません。オンラインサロンをやっているんですよ。なのでオンラインサロンにぜひ加入していただいて。いくらでしたっけ?

スタッフ:月1,000円です。

山田:月1,000円。超格安です。それ以上の価値は必ず提供されますから、ぜひエントリーしてください。手元の資料にあるQRコードでピッとやれば、すぐに入れるようになってまいす。ちょっと先にご案内だけさせてもらいました。

では、今から30分1本勝負で、御二方をお招きしてトークセッションをはじめます。

また、このセッションの記事を書かれるということで、ログミーさんが来てくれています。ただ、僕たちは攻めようと思っているので、「ここカット」と言うところはカットしてくださいね(笑)。

今日は思い切って攻めていきます。攻めた質問に攻めた回答で30分1本勝負をやっていきたいと思います。

西陣織工場を継いだ三寺氏と、農家の娘婿として入った朝霧氏

山田:では、どんなことをやっているのか簡単に自己紹介をお願いします。三寺さんから。

三寺歩氏(以下、三寺):みなさん、こんにちは。ミツフジ株式会社の三寺と申します。私はいろいろなところで取り上げていただいているのですが、もともと京都の西陣織の工場だった家を継ぎました。今はウェアラブルの製品を作らせていただいています。

けっこういろんなところで登壇させてもらうんですけど、めちゃくちゃ緊張しますね! この圧は何なんですかね。

(会場笑)

ちなみに15時から始まっているんですけど、15時に「今日は打ち合わせがありません」と言われてまして、なんにも……。

山田:はい、まったく打ち合わせしていません。本当に今日初めて会いました。

三寺:よろしくお願いします。

山田:朝霧さん、お願いします。

朝霧重治氏(以下、朝霧):COEDOビールというクラフトビールを作っているブランドのファウンダーで、朝霧と申します。よろしくお願いします。

僕らは埼玉県でやっているのですが、埼玉出身の方や埼玉で仕事をしている方はいらっしゃいますか?

(会場挙手)

いらっしゃいますね。最近というかまたというか、ディスられまくっていて。

(会場笑)

映画の『翔んで埼玉』がめちゃくちゃ有名ですけど、心配でまだ観れていないです(笑)。心して観に行かなきゃなと思っているんですけども。

もともとは農業の会社で、有機農業の生産者の方たちと1970年代から契約栽培をして、それを産直するという流通形態で先代が立ち上げました。私は娘婿なので、妻の実家の家業を継いでいることになります。宿命的な経営者ファミリーに生まれたわけじゃないので、またちょっと違う視点でお話しできるかなと思います。よろしくお願いいたします。

山田:拍手ですよ。ここは。

(会場拍手)

ログミーで「(拍手)」ってなるとこやから、ちゃんと拍手してください(笑)。

(会場笑)

工具問屋の一人娘との結婚条件は「会社を継ぐこと」

山田:三寺さんは何代目でしたっけ?

三寺:3代目です。

山田:3代目。創業何年ですか?

三寺:創業63年ですね。

山田:創業63年。今は代表ですね?

三寺:まあ、社長ですね。

山田:代表になって何年ですか?

三寺:5年目ですね。

山田:BtoBのビジネスなので、会場にはご存知ない方も多いかもしれないですけど、たしか「hamon」でしたっけ?

三寺:そうですね。

山田:西陣織の技術を活かしたIoTウェア、ウェアラブルウェアというのをやっていて、それで今世界を飛び回っているというか。IBMとパートナーシップを組んで、世界中でビジネスをしている京都の会社ですね。

ちなみに僕は大都という会社の3代目です。朝霧さんと同じで、僕も奥さんのお父さんの会社を継ぎました。大学を出たあとにリクルートという会社に新卒で入って、学生のころから付き合っていた彼女と結婚するときに「娘さんをください」と言いに行ったら、「娘やるから会社継げ」と言われまして。

(会場笑)

一人娘だったんです。(朝霧氏に向かって)一人娘でした?

朝霧:二人娘。

山田:なるほど、二人娘。自分の場合は一人娘だったもので、要は彼女との結婚条件がそれだったので、1年後にリクルートを辞めて今の会社に入って。入った当時は工具の問屋さんをやっていた会社でした。

ホームセンターに工具を卸すようなビジネスをやっていたのを、2002年くらいからホームセンターに卸すのではなくホームセンターに来ているお客さんに直接売るという、EC・ネット通販で販売するかたちに変えて、なんとか会社を持ち直したというか。ビジネスを転換してきたわけです。

ビール作りを突き詰めると、必ず農業に行き着く

山田:今日のテーマは業態転換というキーワードですけれども、(スライドを指して)書いてあるとおり「業態転換ってすごく難しいんじゃないですか?」とか「そんなことできるかしら?」とかいろいろあると思うんです。

「既存ビジネスがすごくうまくいっているから、業態転換する必要はないですよ」という会社もあると思います。でもそれは今だけの話です。うちの会社も20年前はめちゃくちゃ調子が良かったので、そんなこと考えていなかったと思います。

うちの場合は問屋業が真っ赤っ赤だったので、「このままいったら潰れる」というところまでいきました。そこでもう「転換せざるを得ない」ということで転換していったわけです。

先ほどちらっとお聞きしたら、朝霧さんのところはもともとお父さんがやっていたビジネスから転換して、今はビールをやられているということですけど。

朝霧:そうですね。

山田:そこの切り替えのタイミング、なぜそこでビールにいったのかと、その背景をちょっと教えていただけると。

朝霧:実際にビールをスタートさせたのは先代からなんですよ。なんでビールを始めたかですが、もともとは野菜の会社だったからなんです。

山田:うん。

朝霧:サッポロビールさんでも「ビールも農産物である」というのは言われているけれど、結局突き詰めると必ず農業に必ず行き着くんですよね。

農業の会社が畑の土作りをするために、麦を農家の方たちに植えてもらうことを推奨していたのですが、それは畑にすき込んで(注:肥料を畑に加えながら耕すこと)しまうんです。「緑の肥料」と書いて「緑肥」(注:栽培した植物を土と一緒に混ぜて肥料にすること、その植物)というものにして終わらせていた。「それはやっぱりもったいないよね」というのが着想の原点です。

ビールの製造が中小企業に開放されたきっかけ

朝霧:そもそも会社にはそういった種がありました。でも当時の日本では、小さな規模でビールを作ることが法律で固く禁止されていたので、勝手にそんなことはできなかったんです。

そういう時期を経て、規制が緩和されたのが1994年。日本ではバブルが崩壊して、東京だけでなく、大阪、名古屋などの大都市や地域経済も大きなダメージを受けたころでした。行政でも「産業政策として、なにか地域に産業を作らなければいけない」みたいな中で、なぜかビールが中小企業に開放されたんですよ。

それはもしかしたら、我々が行政に対して相談をしていたことが1つの起爆剤になっていたこともあるかもしれないです。

一見して「農業とビールはぜんぜん関係ないじゃないか」みたいな意見もあると思うんですけれども、そこは実際につながっていて。ご存知ない方も多いかもしれないですけど、当時は「地ビール」という売り方が中小規模ビールメーカーに対してはメジャーな呼称でした。観光地の土産物みたいな、どちらかと言うと粗悪なものづくりのように社会的な位置付けがされてしまったんです。

先ほど「埼玉県人です」と申し上げましたけども、埼玉は長年「ダサい」とか言われ続けていて、心に傷を負っているんですよ。

(会場笑)

ダサいプロダクトだった地ビールが、クラフトビールとして生まれ変わった

朝霧:地ビールも、まさにダサいプロダクトの代表格みたいになっていた時期があるんです。そういう中で先代が始めた地ビールは、会社にとっては残念ながらお荷物状態で、初期のころは立ち上がれなくなってしまって。そういう中で事業を承継しました。

そして今に至るわけです。今はクラフトビールという言い方のほうが一般的になったかもしれないですが、そのときに「クラフトビールというコンセプトやマーケットを日本でも新しく作っていこう」と、これからの時代を見据えて僕が始めたというわけです。

山田:ビール事業は何年に始めたんですか?

朝霧:ビール事業がスタートしたのは1996年で、全商品を終売にして、まったく新しいものとして今のCOEDOがスタートしたのが2006年です。

山田:なるほど。ということは、ビールの事業を朝霧さんが変えたというか……そういうイメージになるんでしょうか。

朝霧:そうですね。いわゆる地ビールは日本ではぜんぜんお話にならないような状態で。当時であれば、「地ビールに新規参入なんて、本当によほどのバカだな」というような時代だったんですよ。それを、きっと魅力的なものになるだろうと思ったんです。

山田:なるほど。2006年ということは13年くらい前ですね。

朝霧:ちょうど干支が1周回りましたね。

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