メディア全体で「考える」文化を作るには

山口幸穂氏(以下、山口):他にはありますか?

質問者5:ありがとうございます。1つ質問なんですけど、最初のほうで「わかりやすいメディア」についてお話しされていたかなと思います。確かにBuzzfeedとか、すごくわかりやすい記事を出すメディアがインターネットに増えてきたなと思っています。

僕は今年の4月から新聞社で記者になるんですけど、やっぱり新聞ってわかりにくいし、「なんでそんなところに行くの?」みたいなことをけっこう言われたんですね。

僕は新聞とかを読んでいて考えさせられるところがあったんですけど、他の学生の論文やレポートの引用文献を見ていると「Yahoo!ニュース」とか平気で載っけていたりしていて、「本当にこれ、ちゃんと複数のメディアを見て書いたのかな?」と思うんです。

「わかりやすいメディア」が増えたことによって、記者の人間性とか、そういったものの感情とかがわかりやすいものになったと思います。だけど、やっぱり「考える」ってことに関しては、「メディアの情報を見て、一人ひとりがちゃんと考える」っていうものが、インターネットによって薄まってしまっているかなと思っています。それによって、良質な読み物が見えなくなってきてしまっているところがあります。

インターネットで良質な読みものを「探す」……というよりかは「考えられる」ようにしていくためには、何が必要なのか。もちろんインターネットのメディアが悪いってわけじゃないんですけど、新聞とか紙のメディアとインターネットのメディアとで仲良くしながら、考えていけるような文化をつくるには何が必要なんでしょうか。

もう一度うかがえたらなと思います。

佐々木俊尚氏(以下、佐々木):なるほど。それはなかなかいい質問なんだけど、非常に難しい質問です。何から話したらいいんだろう。

「上から目線の文章」と「横から目線の文章」

まず「わかりやすい」と「単純化」は違うよねってことを、ちゃんと考えないといけない。「わかりやすい」を求めるってなると、みんなすぐ「単純化」しちゃうんです。さっき言った水戸黄門的な二項対立にしたりとか、勧善懲悪にしたりとかね。

そうではなくて、世の中はもう少し複雑で、何が善で何が悪で、何が正義かよくわからないよねと。それをきちんと伝える。それをわかりやすく伝える努力は必要ですよ。

「わかりやすさ」で言うと、僕は紙の世界で仕事をずっとしてきていて、そのあとネット主体に移ってきたっていう流れのなかでいくと、インターネットと紙とでは文体が画期的に変わっているんです。

去年のも書いたんだけど、「硬派のジャーナリズム」……新聞とか、総合雑誌とか、ノンフィクションとかの印象って、例えば「その日の渋谷の月は青かった」みたいなところからはじまって、「道玄坂を登ると、そこに一人も人がいない」「ある角を曲がると建物が建っていて」みたいな描写や、堅い文章が続きます。

でも、それをネットで書くと読まれないです。どういう文章がネットで読まれるかって言うと、「渋谷駅って相変わらずわけわかんないよね、工事ばっかりしていて」とかです。

「よくわからない道で、一生懸命に階段を上がって、間違えてヒカリエの裏に出ちゃった。本当は道玄坂まで行きたかったんだけど、腹を立てながら道玄坂まで戻っていったらそこに建物があって……」っていうように書くのがネットの文体なわけです。

どういう視点で書いているのかっていうと、新聞の文体って「上から目線」なんです。硬派ジャーナリズム。「上から目線」の文章って、ネットにはそぐわないんですね。ネットの文体はどっちかっていうと「横から目線」って呼んでいるんだけど、居酒屋のカウンターで横に座ったおっちゃんが話しているのを、おもしろく聞いている感じなんですね。

こういう文体の方が実際読まれるんです。

「わかりやすさ」とは、「単純化」することではない

朝日新聞社でいうと、『朝日新聞』の紙面の文体っていまだに硬派ジャーナリズムの文体で、ネットで読むと読みにくいなって感じるんだけど、朝日がやっている週刊英和新聞の『Asahi Weekly』ってありますよね。あれなんかは完全にネット文体で、実に読みやすかったりする。同じ題材でも文体によってまったく違うように見えるということには、気をつけた方がいいんじゃないかな。

そういう「上から目線」のものは、そもそも今のネットの世界では偉そうすぎて好まれない。あと本当に些細な話なんだけど、例えばネットで「敬称略」は気持ち悪い。「その日、渋谷のトークイベント会場に姿を現した佐々木俊尚は顔をこわばらせていた」みたいに書くわけじゃない?

そういう文章はあんまり好まれなくて、「佐々木俊尚さんは、ちょっと顔がこわばっているように見えました」って書く方がいいわけ。そういう些細な話も、けっこう大事なんじゃないのかな。

これはもはや新聞かネットかっていう話じゃなくて、一体どういう目線で読み手と書き手がつながるのかっていう、わりと本質的な問題にもなってきているんじゃないかと思います。さらにその上で、わかりやすさを単純化しないで、難しい問題は難しい問題であるとして、そこを懇切丁寧に説明していくっていうことが、たぶん求められているんじゃないかな。

我々は日々、いろんな情報に接しています。例えば日韓問題。今、レーザー照射事件で沸騰しているわけですけど、もはや新聞紙面を読んだだけだと理解できないですよね。何を言っているのかよくわからない。

もちろんずっと読み続けていればわかるんだけど、例えば「今日、防衛大臣がこういう発言しました」とあっても、どういう脈略でその発言をしたのか説明されていなかったりします。あるいはその防衛大臣の発言について、どういうふうに受けとめればいいのかわからなくて、コンテキストとともに説明されていなかったりする。そのときにいろんな人の記事を読むわけです。

ネットはゴミ溜めだと思っている人は、ゴミ溜めしか覗いていない

新聞記事以外にも、例えば日韓問題だったら神戸大学(大学院国際協力研究科教授)の木村幹さんという方の記事を一生懸命に読んだりとか、あるいはミリタリー系ですね。軍事評論家の方の記事を読んで、韓国が発表したあの対潜哨戒機P-1の写真が、本当に正当なものなのかどうかと読んだりね。

あらゆる方面の記事を読んで、専門家の意見をたくさん見ると、いろんな本質が見えてくるというのが、必ずあるわけですよね。そこを今の新聞はやっぱりカバーしきれていないよね。

多面的な価値観についてはさっき、若い人の方がいろんな意見があるってことをネット上で確認できているという話をしたけれども、いろんな価値観で見て、たくさんの視点、たくさんの視座みたいなものをどれだけ自分の中に取り込めるかってことが大事なわけです。そこをもっと、やっておくべきなんじゃないかなと思います。

質問者5:僕が見ていると、新聞とか本だと情報はちゃんと考えられるためのツールになっているなと思ったんですけど、インターネットだとググって最初に出てくるのがWikipediaみたいなところがあるので、インターネットっていうもの自体が「考えるためのツール」になっていないんじゃないかと疑問に思います。

佐々木:新聞やテレビって、パッケージでそこに存在するじゃないですか。今日現在、『朝日新聞』がそこに存在していて、40何ページかしかないから、どこのページにどの記事が載っているか、全部見られますよね。ネットの世界はとても広大なので、今日のインターネットって言って、同じように説明できます?

質問者5:難しいですね。

佐々木:ですよね。見ている人がぜんぜん違うんです。昔、鳥越俊太郎っていうタレント的なジャーナリストがいて、2ちゃんねるのことを称して「あのインターネットの掲示板には、女子アナの悪口しか書いていない」って怒ったことがあってですね。それに対して、SNSで「鳥越さんは女子アナ板しか読んでいないんですね」って言われちゃったんです。

(会場笑)

こういうことなんです。ネットがゴミ溜めだとかいう人がいっぱいいるんだけど、それはゴミ溜めしか見ないからそうなる。当たり前の話です。インターネットには素晴らしい記事もたくさんあるし、非常に突っ込んだ分析をしている論文も大量にあるんです。

探せばそれなりに自分で得られるものがある。それをゴミばかりだっていうのは、ゴミしか見ていないからだってことは肝に銘じておくべきだと思います。

質問者5:はい。ありがとうございます。

コメンテーターに求められるのは視聴者の代弁機能

Erjon Mehmeti 氏(以下、Erjon):それでは最後にどうぞ。

質問者6:本日はありがとうございました。理想的なリーダー、カルト化していなくて、信用・信頼できるリーダーが求められているというお話があったと思うんですけど、それって信用というものが重要視されずに、だんだん失われてきてしまったということなんでしょうか?

佐々木:そもそも誰もいなかったんじゃないでしょうか。メディアの中心地っていうのは、テレビのニュースがワイドショーになっていった段階で失われてきたわけですね。

例えば、僕は朝8時からいつもジムで走っているんですけど、そうすると見たくないんだけども目の前にテレビの画面があって、『スッキリ』とかに自分が出演していたりするんです。くだらないと思いながらつい見ちゃうんだけども。くだらないと思いながら走るのは健康に悪いのでね……。

(会場笑)

あそこで求められるのは専門家の意見じゃないんですね。僕は何度かテレビに出たことあるのでわかるんですけど、求められているのは視聴者の代弁なんですよ。

例えば他の出演者が「韓国はレーダー照射を認めませんでした」って言ったら、「いやあ、けしからんですね!」って乗ったり、もしくは防衛大臣がそれを否定したら「いや、素人目で見てもあの否定はおかしい!」って言ったりとかね。

素人目で見た意見なんかどうかとは思うんだけど、なぜ素人目で見た意見をしゃべるかというと、それは視聴者の代弁だからです。

そこに存在するのは、視聴者っていう漠然とした塊、全国民みたいなものを背負ったかげろうのようなものであって、実体としてそこに存在する思想というものがないわけですね。その状況がずっと続いている部分があって、インターネットの中でも変わっていないんですね。

先週言ったことと違う発言をしても怒られない、不思議な世界

要するに、インターネットのなかでオピニオンリーダーとしての信頼を持たせようって思ってやってきている人は、マーケティングとかの分野にはいるけど、少なくとも政治の分野にはいなかった。そこをもう1回ゼロから構築していくっていう作業は、僕はある程度必要なんじゃないかなと思います。

どういう世界観で今の世界が見えるかっていうのを、人々に伝えていく人間は必要なんじゃないかな。視聴者の代弁をしているコメンテーターって、本当にかげろうみたいなもので、特段信念とか何もないですね。

テレビっていうのはおもしろいもので、今でこそYouTubeでアーカイブされますけど、ちょっと前まではアーカイブは存在しなかった。だから先週言ったことと、今日言ったことが違っても怒られない。そういう世界だったわけです。

常に、その時その時に「視聴者がこう感じているだろうな」ということをなんとなく、ぼんやりと代弁していれば、みんながなんとなく「そうだよね」って納得する。そこから脱却する作業がたぶんどこかで求められるんじゃないかなっていう感じがします。

質問者6:ありがとうございます。

山口:はい、ありがとうございます。では、お時間になりましたので、一旦ここで終了とさせていただきます。佐々木さん、ありがとうございました。

佐々木:どうもありがとうございました。

(会場拍手)