理数系が得意で作ることが好きだった幼少期

菅澤英司氏(以下、菅澤):さくらインターネット株式会社、田中邦裕社長にお話を聞いていきます。

前回お話を聞いて、18歳で創業したインフラエンジニアが9年後に上場する。相当なことだと思うのですが、田中社長はどんな少年だったんですか?

田中邦裕氏(以下、田中):親に聞くと、ずっと1人で積み木を積んだりとか、物作ったり、工作したり、そんな子どもだったみたいですね。

菅澤:やはり作る子どもだったんですね。好きなテレビや漫画はあったんですか?

田中:それがですね、戦隊モノとか、ガンダムとか怖くて見られなくて。

菅澤:怖い(笑)。

田中:テレビは好きだし、ミニ四駆とかも嫌いではなかったけど、そこまではハマらなくて。ビックリマンチョコとかもあったんですが、僕はウエハースをもらうほうだったので(笑)。ちょっとほかの子とは違った子どもだったのかな(笑)。

菅澤:勉強はどうだったんですか?

田中:勉強は濃淡がはっきりしていて、理数系はすごく得意だったんです。中学3年生で高専受験する時は横浜にいたのですが、数学で50位以内をうろちょろしていたぐらいで、数学と理科は得意だったんです。

菅澤:典型的な理系少年ですね。

田中:社会とか国語とか、そういうのはぜんぜんからっきしで。運動はぜんぜんですね。僕、今は座っているからわからないと思うのですが、188センチあって、デカイんです。「運動とかやっていたんですか?」ってすごく聞かれるんですが、基本運動は苦手です。小学校の頃、本当に工作とかパソコンが好きだったので、親がもらってきたパソコンをいじくりまわしていました。

N60-BASICがプログラミングとの出会い

菅澤:パソコンに触れたのは、何歳ですか?

田中:小4か小5ぐらいです。

菅澤:BASICとかですか?

田中:そうです。まさしく、NECのPC-6001だったんですが、N60-BASICが最初のプログラミングとの出会いです。

菅澤:理系でエンジニアになる少年はまあまあいると思うのですが、そこから起業して、例えば営業するというような、田中社長のコミュニケーションのルーツとかはあるんですか?

田中:それでいうと、実は営業はいまだに不得意ですね。

菅澤:そうなんですか(笑)。

田中:サーバーも、実は営業しに行って売ることはほとんどなくて、オンライン販売だったんです。電話で対応したり、メールで対応したり、そういうのが主でした。でも、たまに大口のお客さまだと、慣れないリクルートスーツを着て、慣れない靴を履いて行っていましたね。

サーバーでデータを預けようという営業が、20歳のアンちゃん。おまけに名刺交換の仕方もわからへんようなアンちゃんが来ても、引きますよね(笑)。

菅澤:子ども時代に学級委員やったりとか、そういうのでコミュニケーションがアクティブになったのかなとちょっと想像していたんですけど。

田中:それが、あまりそういうのはなかったんです。

菅澤:ないですか?(笑)。

田中:口達者というよりも、なにかを始めるのがすごく好きです。

菅澤:高専に入る前にパソコンもらって、いきなりプログラミングができたんですか?

田中:BASICのテストプログラムを入れるぐらいですけどね。それでも、最初にプログラミングで感動したのは、配列なんです。for文の繰り返し回数を変えるだけで、無限に生産性が上がる。「プログラミングってすごい!」と思ったんです。

菅澤:(笑)。最初の感動は中学生の時ですか?

田中:それは小学生かな。

菅澤:小学生(笑)、そこまで考えたんですね。学校に入るまでは素人時代じゃないですか。その時はどんなものを作ったんですか?

田中:どっちかっていうと電子工作中心だったので、ありきたりなインターホンとかですね。あと、鉄道模型が大好きだったので、鉄道模型の制御システムを作ろうと思って作ったりしていました。

舞鶴高専に進学した理由

菅澤:中学校からなぜ高専に行ったのですか? いろいろな高校を受けたんですか?

田中:一応滑り止めで県立高校と私立高校を受けたんですが、電子工作の大好きな友だちと出会って、その子とも高専行きたいねという話をしていました。私、中3で横浜に転校しちゃったんですが、それでも高専行きたいなって思いました。ただ、神奈川県には高専がないんですね。

沼津高専の体験入学に行ったんですが、丹波篠山にいた時の友だちが、一緒に舞鶴高専行こうと言ってくれたので、それで一緒に舞鶴高専に行きました。

菅澤:高専に行く時は、漠然と将来の職業とか、将来やることは考えていたんですか?

田中:ロボットのエンジニアになりたいなとは、漠然と思っていたんです。ただ、ちょっと重い話ですが、横浜で言葉の違いでいじめられたことがあって。横浜でその子たちと同じ高校に行きたくないなという気持ちもありました。高専は全寮制なので、多感な中学生時代にすごく悩んでいるんだったら、全寮制の高専はある意味、きっちり切り替えられるチャンスなので、すごくいいと思いました。

エンジニアになりたいというポジティブな理由、横浜で同じ高校に行きたくないというネガティブな理由と、両方があって。だから、受かった時の感動はひとしおでした。ネガティブもなくなるし、とにかくパソコンや電子工作の授業が受けられる。最高じゃん!

今までは、学校で学んだあとに家帰ってやっていたことを、授業の中でできるので、そういう世界を目指して、将来ロボットのエンジニアになりたくて、それで高専に行きました。

菅澤:なるほど。高専ライフはどうだったんですか?

田中:おもしろかったです。最初に教科書を買うんです。大学と一緒で、自分で教科書売り場に買いにいくわけなんですが、指定されたすべての教科書がおもしろいんです。

例えば、プログラミング演習とか、物理の力学とか。あと、電子回路とか電気回路とか。数学だとか化学だとか、そういうのは得意だけど、やはり全部がよくないと日本の中学校では評価されないわけです。

高専行ったら、技術を持っている人はやはりすごく重視されるので、そういう点ではすごくよかったです。

17歳の時に初めてインターネットに触れた

菅澤:高専生の中からいきなり起業する人はいたんですか?

田中:まあ、もちろんいなかったですね。

菅澤:いないですよね?(笑)。絶対いないですよね(笑)。

田中:私、起業を目的としてやったわけではないんです。やはり起業をするというよりは、サーバーのビジネスをやりたかったんです。なんでかというと、私が、インターネットに初めて触ったのが17歳の時で、もともと、ロボットを設計するためのコンピューターネットワークが高専にあって、全部ファイルサーバーで集中管理されていたんですが、そのファイルサーバーの構造にすごく興味がありました。

コンピューターとコンピューターがつながることにすごく感動して、16歳の頃からずっと、パソコンからサーバーにログインして、あーだこーだやっていたんです。

ちょうどその時に、LinuxとかFreeBSDとか、オープンソースのUnixライクなOSがどんどん出てきて、それを自分のパソコンに入れて、自分がサーバー管理者になれたんです。おまけにTCP/IPでLANをつないで、イーサネットをつないで、ネットワークの設定したら、自分もネットワークに参加できる。TCP/IPで隣のサーバーと通信ができる。

菅澤:なるほど。

田中:その当時、いつかはこれがインターネットにつながって、インターネットはお互いにつながっているネットワークのインターコネクトだから、インターネットワークで、どんどんつながっていく。いつか、舞鶴高専もそこにつながったら、世界にこれがつながると思っていたんです。

それが、17歳の頃につながったんです。突然つながって、そこからが恐ろしいのが、自分のサーバーがあっという間に世界からつながるようになったんです。

趣味でやっていたサーバーの貸し出しがビジネスにつながった

自分のサーバーは、Webサーバーを立ち上げて、学内専用で友だちに貸していたんです。Windows 95が出た頃なので、ブラウザーから見て「楽しいね」とやっていたんですが、それがインターネットにつながると、世界からアクセスがあるんですね。

学内の友だちにしか貸していなかったサーバーを、ネットで知り合った人にも貸していくと、どんどんサーバー使う人が増えていきました。

菅澤:もともと友だちに貸していたんですね。

田中:友だちに貸して、友だちの友だちに貸して、友だちの友だちの友だちとか言ったら、もはや他人ですけども。なので、実はサーバーを誰かに貸すというのは、さくらインターネットを始める前からやっていたんです。

菅澤:もうそこで始まっていますね(笑)。趣味でやっていたんですね。サーバーを貸すのが楽しかったんですか?

田中:そうです。貸していたサーバーに、外部からアクセスが来ていて「すごい!」と第一印象で思いました。世界につながったと。そのあと、ロボコンの全国大会があった時に、秋葉原で部品買っていて、ふと見るとインターネット体験コーナーがあったんです。

ここからインターネットアクセスできますよというので、おもむろに自分のIPアドレスを入れたら、自分のホームページとそこにチャットコーナーが出てきたんです。チャットコーナーに入力すると、高専に残ってる友だちとチャットができたんです。

菅澤:おー。

田中:感動ですよ。当時、電話は東京ー大阪とか東京ー舞鶴とかだと、30秒で50円とか100円とか取られちゃう時代ですから。高かったじゃないですか。

サーバーはタダでつなげるし、インターネット体験コーナーってタダじゃないですか。もちろん、プロバイダー契約をしないといけないですが、従量制だから、本当にタダに近い状態でみんなとお互いにつながれる環境というのにびっくりしました。

とにかく、世界中の人が一瞬でつながる世界が来るんだというのが、雷に打たれるとかそういうことだと思うんですけど。

菅澤:秋葉原でドーンっと来たんですね(笑)。

舞鶴のプロバイダーにサーバーをタダで置かせてもらった

田中:秋葉原でドーンっと来たんですよ。もう1つきっかけがあって、トラフィックが増えてきたことで、学内に置いていることがけっこう問題になっちゃったんです。「そのサーバーすぐ撤去せい」みたいな話になっちゃったんです。

これは持続可能じゃないなと思ったものですから、舞鶴のプロバイダーさん、サンシャインにサーバーを置かせてもらったらタダでバイトしますよとダイレクトメールを送りました。

菅澤:(笑)。

田中:当時、サーバーエンジニアなんかいないから。結局、バイト代7万円をもらいながら、サーバーをタダで置かせてもらうというのを、当時ウメキさんという舞鶴のプロバイダーの社長にやっていただきました。

まずはドメインを取らんとあかんとなって、どのドメインにしようと探していた時に、当時独自ドメインはないから、わかりやすいアドレスじゃないとダメだったんです。

友だちがやってたゲームが「サクラ大戦」で、「さくらはいいぞ!」

菅澤:そこから来ているんですか?(笑)。サクラ大戦から(笑)。

田中:はい。まあ「サクラ大戦」からということはないんですが、わかりやすいドメインじゃないといけないなというのがもともとあったので、さくらだったら打ち間違わないじゃないですか。

菅澤:なるほど。時間が来てしまったので、次回は、高専卒業して、いきなり起業してどうなったのかを、ちょっと追いかけていきたいなと思います。本日のゲストの、さくらインターネット株式会社の田中邦裕社長でした。