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『パナマ文書』はこうして取材・報道した(全4記事)

日本のマスコミは遅れてる? 記者クラブより大きな問題は終身雇用が生む「事なかれ主義」

2016年6月2日、早稲田大学にて第17回報道実務家フォーラム「『パナマ文書』はこうして取材・報道した」が開催されました。日本におけるパナマ文書報道の最前線に立った、朝日新聞の奥山俊宏氏、共同通信の澤康臣氏、フリージャーナリストのシッラ・アレッチ氏が登壇。本パートは、前パートから始まった質疑応答の続編です。日本の報道はこれからどう変わっていくべきなのか? フェアな報道を進めるために考えるべきこと、記者同士のノウハウ共有がもたらす価値、非営利の報道機関の可能性などについて言及。澤氏は、日本とアメリカ・イギリスなど英語圏のジャーナリズム文化の違いについても触れ、日本の現状を「ガラパゴス」と表現しました。

非営利の調査報道は1つの夢

質問者6:貴重なお話ありがとうございました。東京大学学際情報学府修士課程の〇〇と申します。ICIJやProPublicaと、海外の非営利組織による調査報道の勃興について興味深く聞かせてもらったのですが、調査報道で時間や人員、訴訟リスクもありますし、そういう点で日本の営利企業においては縮小しつつあるのではないかと思います。

そこで質問なのですが、日本において例えば複数の別の会社の記者を集めて、非営利による調査報道をするということは根づくのか。また根づかせるにはどうしたらいいのか。必要なのか不要なのかという点も含めて、ご意見をお聞かせくださればと思います。

澤康臣氏(以下、澤):非営利の調査報道団体ができて、こういう華々しいスクープ、大きなキャンペーンを仕掛けていくというのは1つの夢ですよね。すごくいい。そういうのが日本にもできたら、私たち既存のメディアにとってもいいなと私も思います。

日本でできるかとなると、すぐはなかなか……。明日できる、明後日できるとか、来年できるという話かどうかはわかりません。ただ、その可能性を広く見ると、ProPublicaや今回のICIJみたいな報道そのものを業務とする組織だけじゃないと思うんです。いろんな知識がある、バックグラウンドがある記者がお互いにスキルを上げながらやっていく。あるいは、こういう取材の仕方があるっていうことを持ち寄ることでもあるんです。

「日本のメディアはなんとかかんとか」って議論をする時に必ず、記者クラブとかそういう話が出るんですけど、そっちよりは実は(別の要因が大きいと考えていて)、記者がぜんぜん転職せず、そうすると署名記事もアメリカほど多くないので、社会的に物議を醸すスクープを放って次のステップを探すというより、ずぅーっと同じ会社にいることが大前提の場合は、「記者としてはあまり揉めない方がよい」という考え方をする人がいることが、けっしておかしくはないわけです。

それぞれの記者が「混ざり合う機会」を増やしたい

そういう文化の違いがあるなかで、いろいろな背景がある記者が混ざっていくということはあまり起きない。一子相伝みたいな感じで秘伝を自分で大事にし ながら、「俺は調査報道をやる」っていうような感じで記者生活が終わっちゃうっていうことがけっして少なくないと思うんですけど、そういう混ざり合う機会っていうのが、もっともっと増えたらいいなって思うんです。

それはけっして不可能なことではなくて、実はこの報道実務家フォーラム自体が、みなさんブログやウェブサイトをご覧になってお見えになった方もけっこういらっしゃると思うんですけども、過去16回やっていて、もともと第1回は核密約スクープをやった共同通信の太田(昌克)編集委員の話だったし、そういう人がどうやってネタを取ったかっていうのをみんなと共有する、学ぶということをずっとやってるんです。今後もそれを続けていきたいと思っています。

だから「ああ、こういう取材の仕方があるのか」「こういうテクがあるのか」、あるいは「こういう考え方があるのか」っていうようなことを知る機会を作るっていうのも、いわゆる調査報道機関じゃないかもしれないけれど、そういうのまで視野に入れながら可能性を追求していきたい。

日本の場合、残念ながら記者協会、ジャーナリストユニオンっていうのがない。今日は新聞労連の委員長(新崎盛吾氏)がいるのであまりここで言うのはどうかとは思うんですが。

(会場笑)

新聞労連はすごくいい役割を果たしています。果たしていますが、新聞社で働く労働者の組合というのと、ジャーナリストユニオンというのは若干違う。リーチできてない問題があるんですね。

日本のジャーナリズム論は“ガラパゴス”

そういうものも含めて、既存の組織との連携もさらに強める必要があるでしょうし、学び合いととかスキル、技術の高め合いみたいなこと。あと願わくば……自分が今、国際派っぽくしゃべって偉そうにして本当申し訳ないんですが、実は、僕が英語の勉強始めたのは35過ぎてからなんです。英語を使えるようになるってことが、どれだけ大事かわかりました。

日本のジャーナリズム論って本当にガラパゴスで、私がふつうだと思っていたことがぜんぜんそうじゃないということもよくわかりました。なので、世界全体で見ると外国の記者の数のほうが日本だけの記者の数よりずっと多いので、スキルとかやり方とか学ぶものがすごくあって、もうびっくりです。そういう、日本国内で(記者の組織を)作るだけじゃなくて、そこからさらに国際的な連携みたいなものも視野に入れながら、いろんなやり方、学び合いみたいなものの連携も含めたところっていうのは、確実にそっちの方向に向かっていると思います。

せっかく新聞労連の話をしたのでしますと、「ジャーナリスト・トレーニング・センター」っていうのを年2回やっていますが、あれもなかなか、自分もちょっと関与したことがあるのであんまりほめるのもどうかと思いますが、取材の仕方とか、あるいはパースペクティブ(視点)の持ち方みたいなこともやっているし、そういう学ぶ場を多層に、大きなものを1個ドンというかたちではなくて、多重・多層に作り上げていくという方向に確実に向かっていると思うんです。

報道における実名・匿名の線引きはどこにあるのか?

質問者7:〇〇と申します。無職です。ここ10年くらいのことはよくわからないんですが、日本では匿名でない報道が激しくて、そのために非常に報道被害が出ているという論議があったので、そうだったのだと思います。匿名になるかならないかは力関係で決まるということなのか。広告代理店という言い方をするのか、電通と言うのかということなのか。それとも刑期が終わったらそのことについてはほじくり返しませんよといったふうなのか、このへんについて教えてください。

:これは非常に範囲の広い話なのですが、例えば会社の名前を出すか出さないかという問題と、刑事事件や刑事手続に関与したことについて個人名を出すか出さないかという問題は、それぞれ別個にある問題だと思います。

会社の名前についても、なんか奥歯にものが挟まった、例えばトラブルになるのを避ける目的で書かないっていうようなことは、明らかに英語圏のニュースの書き方と日本語圏では違う。ただそれがなんでかって言われると、そういうふうに報道文化が違っているとしか答えようがない。

刑事事件に関しては確かにおっしゃったように、1970年代ぐらいから実は日弁連なんかを中心に議論が起こっていたんですけど、どれだけ名前を伏せるかというような議論っていうのは進んできました。

議論の出発点は、単なる被疑者の段階では、本当に犯罪をやったかどうかわからない、警察はやったと思っている・やったと言っている、でも本人がそうじゃないと言っている人の名前を書くのはおかしいんじゃないかという議論から始まったわけなんですけれども。ただ、残念ながら議論の方向は名前を伏せるかどうかという論点で進んでしまって、フェアに書くためにどうするかということにならなかったのが日本の特徴だと思います。

それで「え、そうなの?」と思われたことに関して言いますと、まさに「ええ、そうなの」です。私自身、イギリスに1年研究に行って、アメリカ3年半、特派員として生活して現地の報道を見て分析して、ものによっては実際に統計を取ったりしましたが、紙面に出てくる人物の名前を伏せている比率っていうのは、日本はやっぱり英語圏のニュースに比べて、突出して匿名が多い。容疑者や関係者名前を出していても、本人は否定しているし、そうじゃないかもしれないよっていうこともちゃんと書くというやり方か、「いや、まず名前を伏せておきましょう」という態度というのは、ちょっと議論が必要なところだと私は思っています。

「マスコミが書いて終わりではないからこそ意味がある」

ただ、企業の話と1つ共通するのは、よく英語圏で言う「パブリック・スクルーティニー」、日本語で言うと「大衆的な検証」とか「大衆的な探索」といいますか。例えばなにかを公開する、なにかをオープンにする、情報公開をするという場合にも英語では「パブリック・スクルーティニーのもとに置く」、大衆的な探査、大衆的な検証に置くという、ちょっと婉曲的な表現をすることがあって、結局さっき言った調査報道の話とつながってくるんですが、こういうものっていうのはマスコミが書いてそこで終わりではないからこそ意味があるんです。

ICIJがデータベースを公開した時に、やっぱり名前も住所も出ているわけですけど、結局それは最終的には市民が一次情報にできるだけ近いものを持って議論をしたり検証したりするためです。

そういうものなので、今、言った議論というのは、たしかに書かれる人を、傷つけることからどう防ぐかっていうことは極めて重要なことなので、それをないがしろ蔑ろにすることはよくないと思うんです。

ただ、本来の目的、我々の報道倫理というのは誰に対しての倫理なのかというのは、それは市民全体に対する、歴史に対するもの。そういうことのバランスの上で考えないといけないんだけど、そこのバランスが日本と英語圏では相当異なっているのではないかと考えています。

(実名公表の具体的な基準は)ケースバイケースでしかないんですけど、簡単に出るものと、あるいはこれはまったく個人的な意見ですけれども前例踏襲的に出ているものと、なんとなく日和っちゃってるって思われてしまいかねないものもあるのかもしれないなと、今の話を聞いて思いました。

市民は非営利団体による報道を求めているのか

日下部聡氏(以下、日下部):シッラさん、最後にこれだけは言っておきたいっていうのがあれば。

シッラ・アレッチ氏:先ほど、日本でも非営利団体を作れるかどうかというお話があったんですけども、すごく才能のある記者は多くいると思うんですが、市民たちが非営利団体を求めているのかっていう話も大事だと思って、つまり日本の読者が調査報道をやる非営利団体があったらサポートするかということも考えなければならないと思います。アメリカでは寄付があるんですけど、読者が寄付をするので、日本ではいかがですかね? 記者ではない人たちにも考えてほしいです。

日下部:ありがとうございました。まだ手がいっぱい挙がっているのに、本当に申し訳なく思います。ここにいるとなにか、食い入るような感じでこちらに向かってらっしゃることがすごくよくわかります。心苦しいんですけれども、ここで締めさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

(会場拍手)

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