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佐渡島庸平×安藤昭子 『問いの編集力』出版記念トークイベント(全5記事)

佐渡島庸平氏が語る、『宇宙兄弟』のキャラのリアルさの秘訣 「無駄な動き」を排除しがちな新人漫画家との違い

『問いの編集力 思考の「はじまり」を探究する』の出版を記念して開催された本イベントでは、著者であり編集工学研究所の安藤昭子氏と株式会社コルク代表の佐渡島庸平氏が登壇。本記事では、混乱を好奇心に変える「編集力」の重要性について語ります。

人間は常に「無駄な動き」をしている

佐渡島庸平氏(以下、佐渡島):僕が(『問いの編集力』を読んで)「めちゃくちゃいいな。漫画に取り入れよう」と思って、すごく考えたところが、アフォーダンス(人や動物と物や環境との間に存在する関係性)のところです。

「演劇の世界でも、マイクロスリップはキーファクターになる。人がうまいと認識する役者は、無駄な動きを適度に入れている」という部分。ここの「マイクロスリップ」の概念は、非常におもしろいなと思ったんですけど、ちょっとここについて話していきます。

安藤昭子氏(以下、安藤):そうですね。さっきちょっとペットボトルの例でアフォーダンスという話が出ましたけれども。つかむのも、本当は意識はしていないんだけれども、一発で一番良い場所でつかめていないんですね。ちょっとずつ直しながら持っている。

この本の中に出ている、今紹介してくださったところは、例えば役者さんがコーヒーカップを持つ時に、何度もNGを出しながらやっているうちに、一番良い場所をいきなりつかめるようになるんだけれども、それって人間の自然な動きじゃないわけなんですね。

人間は常に「無駄な動き」をやっているわけなので、無駄な動きごと再現できている役者さんが、実はうまい役者さんだということですね。本にはさすがに書かなかったんですけど、その文章の中では「そのいい例は大竹しのぶさん」ってあったりして、なるほどなと。

新人の漫画は「無駄な動き」がない

佐渡島:それがリアルってことですよね。台本があるとやることが明確だから、一直線になり過ぎるのに対して、僕らの場合は一直線じゃない。小山宙哉に「なんで『宇宙兄弟』はおもしろくなったの? 途中からすごく良くなった」と僕が聞いた時に、「人は何かだけをしているということはない」と。

例えば、僕らは今話しているんだけれども、腕を組んでこういうふうに(考えるポーズを)していたり、もしくは飲んでいたり、意外と何かをしながらやっている。だから、「聞いているだけ」ってほとんどないんです。新人の漫画だと、ほとんど作者が伝えたい会話だけをしていて、無駄な動きがない。

(『宇宙兄弟』では)必ず無駄な動きとセットで全コマ、キャラクターを描くから、物語と関係ないものを手に持っていたりします。そのキャラクターならではのものを持っていたりとか、動作をしていたりすると、リアリティが高まって、キャラクターらしい行動が増えていくと感じています。

安藤:ああ、確かに。情報って本来は常にゆらぎがあるものなんだけれども、人間が上手にやろうと思うと、よかれと思ってゆらぎを排除していく方向になることが(ある)。

これって、今のような漫画のキャラクターや役者さんの動きから、例えば組織の作り方とかにも全部関係してくるんじゃないかと思います。無駄とか余白とかゆらぎを、いかにいい具合に持てるかは、たぶん相当いろんな場面で大事ですね。

佐渡島:そうですよね。だからここを読んで、ChatGPTに「線におけるマイクロスリップとは何ですか?」と(質問した)。

安藤:線?

佐渡島:はい、きれいな線。禅僧の描く円のような、かすれているわけじゃないけど、そういうゆらぎを感じるいい水墨画の線とかあるじゃないですか。それと汚い線と、きれいすぎる線と。

「線にマイクロスリップがあるとはどういうことですか?」とか、「コマの間、コマ割りでマイクロスリップがあるとは何ですか?」とか、「ストーリーにマイクロスリップがあるとは何ですか?」と聞くと、すごくしっかり答えてくれます。

安藤:(笑)。

あえて遠回りに見える道を選ぶ

佐渡島:「それがうまい作品は何ですか?」と聞いても、「この作家はできています」と教えてくれるんです(笑)。

安藤:へえ(笑)。そこまでいっているんだ。余白の作り方とか、もしくはゆらぎやマイクロスリップを持っているから「これは優れているな」と見抜くのって、けっこう難しいと思うんですよね。

さっきのように、私たちはどうしても主題的なところに目が行くので、周辺視野全部を含めて「あ、なんかいい感じ」と感覚では思えても、それを言語化したりとかは、たぶんすごく高度なことだと思うんです。

でも、編集力が鍛えられていく時は、「なんでこれがいいのかな?」と、そこを自分で問うていく習慣が身についた時だと思うんですよ。

佐渡島:演技だとマイクロスリップ的なものがあったほうがいいというのはぱっとわかっても、僕らが何かプロジェクトをやったりする時は、明確に意図があって、一直線にやりたくなっちゃうじゃないですか。そういうものにおける、マイクロスリップ的なものは何なのか。

安藤:ちょっと雑な言い方過ぎますけれども、たぶんプロジェクトの中でも(大事なのは)一見「遠回りだな」って思うことを入れる勇気なんですね。一回勇気を出して、迂回する道を作れば回路ができるから、後はけっこう「なんだ。回り道をしたほうが早いじゃん」ということは、体験知になっていくと思う。

最初に勇気を出す人がいないと、私たちのやっている活動は、どんどん合理化するほうに進んでいくんです。そうすると結局、全体の動きに余白がなくなり、総合的に見ると非常に効率が良くないみたいなことは、あちこちで起こっていくんじゃないかなと思います。

「心配」と「問い」は紙一重

佐渡島:そのあたりについて、『問いの編集力』はある種同じことを手を替え品を替え言っていて、どうやって見方を変えるかで(変わる)。情報を「地」と「図」に分けて認識する見方も、何をもって総合的に見るのかを、どう変えるのかっていう話ですものね。

安藤:なので、さっきお話に出た「フィルターを意図的に外す」というところについて、どうするとそれが常にできる状態になるかを、ずっと言っていると思うんですね。それさえできれば、いつもだったら驚けないことに「おや?」と思うのは、そんなに難しいことじゃないはずなんですよ。というのは、子どもは常にそれをやっているわけです。

子どもってフィルターがまだ十分じゃないから、おそらくたくさんのことに驚けると思います。けれども、大人の知性を持った状態でいろんなものに驚いたり、フィルターを外した状態になる(のは難しい)。

さっきの話で言えば、松岡さんはおそらくずっとその状態を持ち続けたんだと思いますけれども、確かにおっしゃるように、今そこに向かうための手立てを、手を替え品を替えやっています。

佐渡島:あともう1つ「すごく秀逸だな」と思ったのは、「いつだって『心配』と『問い』は紙一重だ。自分の内側で勝手にぐるぐるまわり続けるブツクサを、どこかで区切って、『じゃあどうしようかな』と思ったとたん、『不安と混乱』は『好奇心と問い』に変わることがある。

今この瞬間にも、せわしなく動いている注意のカーソルを自在に操縦し、世界をあるがままに受け入れながら、不安や混乱を飼い慣らすのだ。それが次の好奇心と問いのタネになる」。

僕もいい作家とずっと仕事をしているんですが、信じられないくらい心配性なんですよ。いろんなことをこっちにも聞いてきて、「大丈夫ですから」となる感じのことがあって。たぶん僕自体も、10代や20代の時ってすごく心配性だったんですが、不安をおもしろい問いに変換する方法を知って変われたなと思っています。

僕はけっこう、「自分が乗りこなせる難しさだと思うとワクワクに変わって、無理だと思うと不安に変わる」と言っています。「不安とワクワクは、同じ出来事に対して、こっち(自分)の能力と、こっち(自分)の余裕が決めているだけだ」という言い方をするんですけど。「心配と問いが紙一重」というのは、そういう意味でめっちゃ共感したんですよ。

編集力を身につけるとストレスフリーになる

安藤:ありがとうございます。まさに本当にここは私も強調したいところなんです。心配事や不安なこととか、一見ちょっとネガティブなことは、ある程度あってもいいだろうと思うんですね。その上で編集力を身につけることをぜひお勧めしたい。

その一番の理由はストレスフリーになるんですよね。自由になるというか、不安なことも心配なことも上手にできないことも、当然いっぱいあるのは変わらないんだけれども。

編集って、今日の冒頭の話にあるように、情報を扱うんですね。相手が情報である以上は、全部編集できるわけです。問いに変えるのも、ある意味で編集しているということなんです。

例えば、自分が今直面している困難だったり、「みんなが言うことを聞かない」とか、「会社の業績、どうだろう?」とか、いろんな心配事があると思うんですけれども。それも全部情報である以上、「どこかで編集できる糸口は必ずある」という信頼さえ持っておけば、全部おもしろい問いに変換できるはずなんです。

心配や怒りの周りには、自分の人生に重要な問いが転がっている

安藤:もう1つだけ加えさせていただくと、さっき佐渡島さんが「ある作家さんのすごく特異なところを自分がどう見抜けるか」というのをお話ししてくださいましたけれども。

松岡が作ったイシス編集学校では、一般の人たちが編集力を鍛えるお稽古に来てます。例えば「このコップをなるべくたくさん言い換えてみてください」というシンプルなお題に答えるわけなんですけれども。

師範代と呼ばれる指導陣の人たちが、本人は気がついていない、その人がなんでそれに注目したのかというところの、奥で動いている思考を取り出してきて、指摘してあげるんですね。

師範代は、カウンセリングをしているつもりは一切ないはずなんですけれども。回答して指南をもらっている人たちは、おそらく心も整っていくみたいな、不思議なことが起こるんです。

そうしたやりとりを、私たちの言葉では「エディティング・モデルの交換」と言うんです。相手の中にある編集のあるモデルを取り出してきて、「このへんがおもしろいよね」と言って戻してあげる。もしくは、師範代のほうにあるエディティング・モデルを乗せて戻してあげる。

そういう交換状態は、さっきちょっとお話しした、それが情報である以上はいかようにも編集できるという信頼関係の下じゃないと成立しにくいんですが。そういう目で見ると、あんまりつまらない回答ってなくて、全部おもしろくなる。

それをちょっと応用して考えると、さっきお話ししたような、日常生活の中に起こる困難や不安や恐れを、全部「問い」というかたちで、自分の中で好奇心に変えていけると思います。

佐渡島:すごく共感します。心配や怒りという自分の心のセンサーはあったほうがいいんですけど、心配や怒りを感じたのは自分なので、自分で対処したほうがいい。

なのに、それを「誰か外部の要因があって自分に湧き起こった」と思って怒っちゃったり攻撃したりすることがすごくあるじゃないですか。

でも、そうじゃなくて、心配や怒りを自分で編集しにいくとその状況を変えられて、おもしろいことになる。一瞬の不愉快なセンサーなんだけど、そのセンサーの在り方をすぐ変えられるようになる。刺激物だったというふうに処理して、「おもしろい問いが見つけられた」となりやすい。

だから、心配や怒りの周りには、自分の人生にとって重要な問いが転がっている可能性がすごくありますよね。

安藤:本当にそうですね。

中国人であることを隠そうとする漫画家

佐渡島:今朝、僕は中国人の漫画家と打ち合わせをしていたんですけど。中国人が日本に憧れて漫画を描く時って、中国人ということをすごく隠そうとして、ファンタジーを描いたりしがち。

日本の漫画に憧れて来ているから、別に自分の話をしたいわけじゃなくて、漫画を描きたいと思っちゃっている。でも「いやいや、中国人が中国人のまま漫画を描いたほうが、中国本土でもウケる可能性が高いから、隠さないほうがいい」と思っています。

中国人漫画家に「中国人としての漫画を描くように」と言いたくて打ち合わせもやっています。

ファンタジーがどんな世界で、何をトラブルにしたいのかわからなくて。彼に「中国でどんな生活をしているの?」とか、いろいろ聞いたりしていておもしろいのが、彼は今学校にいるけど、ビザの問題で1年以内に連載をとらないと帰されてしまうと。

だから、日本人を見ていると「ゆっくり原稿を描くなぁ。僕はすぐにでも完成させて、新人賞に出さないと駄目なのに、ずるいなぁって思う」と言っていました。

「どこに住んでいたの?」と聞いたら、「大学は北京なんだけども、もともとは地方です。チャイティーには塩を入れるんです」と言っていました。「それは今の家ではやるの?」と言ったら、「いや、家ではやらないけど、実家ではやっていました」とか。

ふだんは父親との電話でこういうことを話していて、とかを聞いていると「いや、そんな留学生の姿って、めちゃくちゃおもしろいよ。そういうのを描きなよ」と言いました。

自分でしゃべったことを、僕が「それ、めっちゃおもしろいよ! こうなんでしょ?」と言い換えて、同じように言ってあげるだけなんだけど、(彼は)親への気持ちとかが湧いてきて、「確かにおもしろいかもしれないですね」と言っていました。

1回も描こうと思っていなかった、自分が日本で漫画を描いている様子をエッセイ漫画にしたいって本人が言い出したんです。

まさにそれって、相手のおもしろいところを、編集によって気づかせていくという行為だなぁと思います。

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