いもいも教室の自然体験と、普通の自然体験の違い

井本陽久氏(以下、井本):宣伝になってしまうけど、夏休みのいもいものいろんなイベントは、ある意味、子どもたちにそういうのを体験してもらえればいいなと思って。例えば、「森の教室」なんて、東京とは思えないあんな超極上の自然の中で。しかも普通キャンプとかああいう自然体験だと、「はい集合!」「じゃあまずこれからこの川に入るよ」とか、「はい、じゃあ上がって飛び込み」「はい、これから焚き火だよ」だけど。

土屋敦氏(以下、土屋):あと、スキルとかテクニックとかを教えるみたいになってしまうけどね。

井本:そうそう。だけど、いもいもの場合そんなのないし。あと、キャンプ場とかを見るとえっ!? ってびっくりするぐらい人がいるけど、極上の自然を、独占状態の中体験できるので。だから、もし今これを見て、「僕ここに行きたいな」と思ったら、まだ「森の教室」、(参加者の枠)あるよね?

土屋:まだ、いけますね。

井本:夏用に、いもいもの生徒じゃない一般の子たちも来れるようにしているので。

土屋:(森の教室の宣伝スライド)こんなのやってます。ガチの宣伝みたいになってるけど(笑)。でも、これは本当に良いです。沢歩きも最高だし。結局、さっきの学校のでいうと、自然は評価しないし、本のまま受け止めてくれるんだよね。「君、その歩き方だとちょっと将来心配だから、もっと筋肉つけなさい」とか自然は言わないから。ただ歩けばいい。

井本:でも、あれでしょ。そういうの、運動がなかなか苦手な子も、土屋から見ると、20分ぐらい川を歩いていたら「歩き方がぜんぜん変わってるね」って。

土屋:それはあるよね。体の使い方を忘れているだけで、子どもはわりと自分で思い出すことがありますね。

今を生きている子どもから、「今」を引き剥がそうとしてしまう大人

井本:ぜひ、こういうの見てもらえるといいかな。

土屋:(川の中を歩いている子供の動画を見て)数馬ですね。

井本:数馬だね。保護者の人も安心するかもしれない。この時の子どもは、要はまさに今を生きているんだよね。大人は先をいろいろ考えているうちに、今を生きることを忘れてしまってさ。ある意味、今をせっかく生きてる子どもを「今」から引っ剥がそうとしてしまっている。

土屋:常に不安のほうに持っていって、どうしても「今楽しいじゃダメでしょ」みたいにね。

井本:でも、今に向き合っている子どもは、ものすごく顔が穏やかでさ、生き生きしているじゃない。それを授業で、自分たちは教室でもやっているんだけど。そうだね、今の(動画を流して)。

井本:これ音は出ているかな?

土屋:音出ているよね。めっちゃ没頭している。

井本:そう、これね、本当ここには何もない。問題を置いているだけで。奥のほうとか赤い服の子が(寝てる)。ぜんぜんオッケー。椅子の上でやっている子もいれば……この動画、珍しくけっこうみんな座ってるんだよ。

土屋:よく寝っ転がってやっているよね。

井本:そうだね。

(動画)

井本:これは、「地球が真っ平らだったら水平線は見えるか?」とお題を出した。

土屋:へえ、おもしろい。

井本:要はね、自分の考えが合っている・合っていないはどうでもよくて、自分の考えをぶつけ合っているわけ。基本、もう誰も座ってないじゃん。みんな黒板に出てきて。(動画内でカメラの方を向いた子を指して)彼が今こっちを向いてくれたけど、あとの子なんてぜんぜん俺の存在を忘れてるもん(笑)。

(動画)

これも、トランプで遊んでるように見えるじゃん。

土屋:これはすごく感動しましたね。この思考力教材はやばいです。

井本:これは去年考えた教材です。他者性も必要な、超論理思考の問題。こんな感じ。じゃああともう1個、その動画だけ流して。あとこれ、さっき寝てた赤い服の子。

この子は何やっているかわかりますかね? これ、実は卓球の玉を、スタートしてからできるだけ時間をかけて落下させるというお題をあげたら、この子は授業が終わっても40分帰らないんだよ。

土屋:寝てたのに(笑)。

井本:いつも寝てる子が。

(動画)

井本:ぜんぜんできなくても、むしろおもしろい。たくさん学んでいるし、自分でここまでやってきたから。

(動画)

井本:(動画内の子どもが)何か手に持ってるな。彼はもう「森の教室」にずっと来てる子だから、こんなのはズルって思ってないよね。これもいもいもの教室。

自分のやり方でやると、考えるのが楽しい

井本:これもいもいも教室なんだけども、両方ともまだまだ単発で参加できるので。例えば数理でも、いもいも教室でも、いわゆる思考力を楽しくやる。間違えるとかではなくて、「自分のやり方でやると考えるのが楽しい」を体験してみたい人は、今からでも申し込めるので、ぜひ。

土屋:数理でさ、「難問に挑戦」という回がめっちゃ少ないのは、やっぱりみんな「できなきゃいけない」という気持ちが強い。おもしろい問題に挑戦するということだよね。

井本:そうそう、とにかくひたすら考える。しかも、さっきみたいに議論しながらできるから、おもしろいんだよね。もし、保護者のみなさんで気になるなという人はぜひ。あるいは、お子さんでもね。でも、たぶん子どもはもう絶対「森の教室」に行きたいよね。

土屋:数理もいいですよ(笑)。本当におもしろい。数理。

井本:本当に。だってあんなに遊ぶようにやっているとか、しかもあれ、相当高度なんだよ。すごいでしょ?

土屋:1人答えるたびに、すべての論理がまた変わるんです。またそこでガッと考えないといけない。すごい教材です。

井本:実は最初の没頭と字幕を出していたところがあるじゃない。あれは今まで考えたパズルをやっているんだけど、みんな答えはわかっている。そうではなくて、その答えをどう出すかを、あれだけみんな考えている。

土屋:要するに、一番工程が少なく導き出せる方法とか。

井本:一番効率よくとか、あるいはこう考えたら一気に答えが出せる。つまり消しゴムを使わなくてもできる。試しにここを入れて、とかをしなくても、絶対できるやり方をめっちゃ考えている。

土屋:「次は絶対ここだ」と、考えていればわかる。それを重ねていくと全部正解する。

井本:正解を出すのはみんなできるの。

土屋:なるほど。

井本:そうではなくて、どう出すかを考えているよね。だからそういうのをやってみたいという人は、ぜひ来てもらえるといいかなと思いますね。

「勉強しなさい」と言われたら、子どもはどんどん勉強が嫌になる

井本:(次は)質問ですよね。

土屋:質問。Q&Aを見ればいいですか。

司会者:たくさん質問が来ていますので、Q&Aを見ていただきたいんですけれども。今一番「いいね」がついているのが、お子さんからの質問かなと思います。

土屋:拾いながら。

司会者:「テレビの話題です。勉強的なおもしろさが入ったテレビ番組を見ていると、『勉強しなさい』と注意をされます」

土屋:(笑)。

司会者:「勉強していると言っても理解してくれません。どうすればいいと思いますか」という質問がきています。

土屋:勉強的な少しおもしろさが入ったテレビ番組、知りたいな。何だろう。きっと今はおもしろいのが多いよね。あんまり見ていないけど。

井本:でもこの質問、子どもがしたんだろうけど、これも大人が子どもをいろいろ追い込んでいるなと思う。「勉強的な」なんて、別にそんなのもなくたっていいんだよね。

土屋:まあそうよね。

井本:そう。勉強の要素はあるからいいじゃんってなっているけど、なくたって別にいい。いいんだけど、「勉強しなさいと注意されます」。気になってしまうんだよね。

土屋:でもどのテレビ番組も学び的なものはあるんじゃないかな。大人が本もそうだけど、「これは読んでいいけどこれはだめ」とか、どうしてもどんどん判断してしまうんだよね。

井本:俺はテレビをそもそもあまり見ない。土屋も見ないでしょ?

土屋:見ないけど。

井本:これはたぶん、親も黙っておきたいんだけど不安で言わずにはいられない。だからそこは気持ちを理解しつつ、だけどじゃあそれで「自分はダメだ」と思う必要はない。

土屋:お母さんは「勉強しなさい」と言いたいんだなと思って。

井本:そうそう。本当はこれ、「勉強しなさい」と言われたらどんどん勉強が嫌になるんだけどね。まったく効果がないどころか、一番やる気をなくす言葉。でも、テレビでも勉強できるし、いろんなことを学べるんだけど、でもね、もっと学べるんだよね。

テレビやYouTubeは「ドアの外に出る」きっかけにする

井本:テレビとかYouTubeは、ある意味きっかけには最高じゃない。でも、実際これをやってみたいとか、ここに行ってみたいとか、自分がやる。自分を拠り所にして見てみる。知識を学ぶなんて、そんなのどうせ忘れてしまうし、いわゆる自分の心が動かない。

そうではなくて、実際にそれで「じゃあこの夏行ってみよう」とか、「そこに行ってみよう」とか。本当は暇だと行けるんだけどね。常にテレビが見れてしまうと、「面倒くさい」ってテレビを見てしまう。

土屋:ここでテレビをずっと見てしまう。

井本:たぶん子どもたちも実はずっとテレビを見ながら、ずっとYouTubeを見ながらも、「これはちょっと違うな」と感じていると思うよね。

土屋:本当にそうしたいわけじゃない。逆に「YouTubeがやめられないんです」みたいな相談が、子どもから来たりするので。

井本:そうそう。

土屋:僕らの中で、依存性とか中毒性のあるものと本当に好きなものは、切り分けたほうがいいなといつも考えていて。そこは保護者の方も見て、とってあげたほうがいいと思いますね。

井本:でもさ、そうやっているところに「テレビをやめなさい」とか「YouTubeをやめなさい」と言われると、やめたくなくなってしまうんだよ。だからそこもなかなか難しい。

土屋:「あなたは1日12時間YouTube見なきゃだめよ」やめるかな(笑)?

井本:(笑)。

土屋:「ノートにまとめなさい」

井本:ねえ! 中毒性のあるもの、すぐ刺激をもらえるものはやめられないから、実は子ども自身も、ちょっと違うなと思ったら、とにかく自分でやってみる。自分で行ってみるとか、動くこと。

土屋:動いたり感じたり。

井本:そうそう。感じたり。テレビはさ、あくまでも目と耳じゃん。

土屋:偽物なんでね。

井本:そうそう。でも、せっかくそこでおもしろいと思ったんだったら、もっとそうではない要素をそこに加える。

土屋:それをきっかけにね。ドアの外に出てみるといいなと思うんですけどね。

表現する人間にとって「失敗」は全部おいしい

井本:そうそう。次の質問。「私の学校のクラスは、宿題をしなかったら先生に黒板に名前を書かれます。黒板に名前を書かれることが嫌ですが、宿題をしたくない。どうしたらいいと思いますか」。これは先生がしちゃうんだよ。

土屋:これ、やっちゃいけないんじゃない? いいの? 俺たちは、(名前を書かれても)「イェイ!」くらい言えるタフさがあったからな。

井本:俺とか「イェーイ!」みたいな感じだよ。

土屋:自分の名前の周りに、飾りとか描いてよけい怒られたりとかね。

井本:忘れ物表の棒グラフが、俺のペースで紙が継ぎ足されていたから、それは「イェーイ」って感じだったけど、みんなはそう思えないもんね。でもこれは良くないよな。

土屋:わりと大人になったら、飲み会のおいしいネタとかにはなるかな。

井本:まあ、そうだね。

土屋:僕はものを書く仕事をずっとしていたので、書くとか表現する人間にとっては、失敗は全部おいしいんです。

井本:おいしいよね。

土屋:うん。

教育は「レッテルを貼る」ことから始まっている

井本:大きくなってから自分の成功した話や自慢なんて、ぜんぜん使えないじゃん。

土屋:誰も聞きたくない。

井本:聞きたくないし。

土屋:私がここで「いつも宿題やって先生に褒められていたんだ」と言っても誰も聞かないけど、「毎回名前書かれてさ」のほうが絶対に聞いてもらえる。

井本:恥ずかしい思いをしてね。

土屋:共感がありますね。

井本:そうそう。ここでしていい話かわからないけどさ。

土屋:言うの?

井本:俺、そういうのぜんぜん平気だったのよ。恥ずかしくもなかったんだけどさ。唯一恥ずかしかったのが、毎年あったぎょう虫検査。

土屋:(笑)。

井本:俺、ぎょう虫検査が毎年、ひっかかるの。今は絶対しないけど、当時先生が「今回のぎょう虫検査、このクラスでは陽性は井本くんでした。再検査です」って、朝、みんなの前で朝礼で言うんだよ。あれは恥ずかしくてさ。

土屋:いろいろ食べてたもんね。落ちてるもんとか(笑)。

井本:俺、ボール遊びとかしてドブに落ちたボール、またそのまま使ってたから。たぶん口から入ってるんだろうけど、でも今からするとめちゃおいしい話。

土屋:そうだね。

井本:だからこの子の今のつらい気持ちは解決できないけど、でも本当に嫌なんだったら、自分で先生に言ってみる。あるいはちょっと言いにくかったら、親に頼んでみる。

土屋:言ってもいいと思いますよ。これ。

井本:これはダメだよね。

土屋:昔の古い本に、そもそも教育とは辱めから始まったみたいに(書いてある)。

井本:ああ、そうなんだ。

土屋:要するに鞭で打つことと、「あなたは頭が悪いです」みたいな帽子を被せるのが、もともと教育のルーツにある。

井本:レッテルを貼る感じだ。

土屋:そうそう。名前を書くのは、ある種その系譜にまだつながっている気がしますね。

井本:そうか。いもいもにおいでという感じかな。いもいもも、学校でいろんな思いをしている子も来ているからね。