商社をメインに就活するも「超氷河期」で全落ち

松下雅征氏(以下、松下):大学生の時に「お金を稼ぎたい!」という気持ちは、たぶん多くの人が持ってると思うんですけど、そこから卒業して、就職先や仕事を選ぶ時に……とはいえ「お金」という観点だったら、もっと給料高い仕事とかもあるじゃないですか。それでも受験をテーマに選ぼうと思ったのは、理由やきっかけがあったんでしょうか。

西村創氏(以下、西村):まず、大学があまりネームバリューのある大学じゃなかったので、採用試験を受けても受かんないんですよね。

海外に住みたかったんですよ。大学時代にバックパッカーでいろいろな国を旅していました。日本以外のところに住みたいと思っていたので、とにかく商社ばっかり受けてたんですよね。海外に駐在できるので。

ただ、大学のネームバリューもあまりないし、当時は超氷河期と言われてた時代で。非常に就職難の時代だったんですよね。このままだったらフリーターになるぞと思って受けたところも落とされたんですよね。全落ちですよね。

就活を塾業界へ切り替えた途端、まさかの「全勝」

西村:これはまずい、どこも就職できるところがない時に、頭の中で片隅にあったんですよ。絶対いけるだろうなと思ってた業界が。これが塾業界だと思いました。

新鮮味はないけど、ここだったらいけると思ったんですよね。大手から全部受けたんですよ。早稲田アカデミーや日能研、首都圏以外の大手も受けました。

それまでぜんぜんで、面接までいったとしても面接されながら「これ落とされるなぁ」とわかったような感じでした。業界を切り替えたら面接官もすごく前のめりに聞いてくれて。全部受かったんですよね。

松下:すごいですね。

西村:「あ、ここの業界だな」と思ったんですね。

松下:ご自身が、海外に行きたいみたいなところもありつつ、どうしようもなくなった時に塾業界や受験業界であれば、いけるんじゃないかなと思って挑戦してみたら、まさかの全勝という。

西村:そうですね。「まさか」も、なかった。自分の中で受かる気しかなかったですね。行けば採用されないはずがないって思ってました。

松下:なるほど、大学時代は塾講師時代に手応えを感じてたんですね。私は恥ずかしながら、家庭教師をやっていたものの、たぶん家庭教師業界を受けても全勝はできなかったと思うんですよ。そのぐらいの手応えはそんなに感じてないなと思っていたんですけど。

先生がそれだけ手応えを感じられたのは、どうしてだったんですか。

西村:塾講師時代に、大学生ですけど、社員やベテランの講師もいるわけですよね。そういう先生たちよりも、授業の生徒からのアンケート評価がずっと上でした。どの先生の授業を見ても、「つまんないなぁ」「イマイチだなぁ」「もっとこうやればいいのに」って思ってたんですよね。

原動力になったのは、学生時代に感じていた「鬱憤」

西村:そういうことは、塾講師をやるずいぶん前の小学生ぐらいからずっと思っていました。自分が塾の先生、塾講師をやる時に、今までの鬱憤が爆発した感じですね。「こうやれよ」ってずっと思ってたんで。

松下:すごいエネルギーを感じますね。この小学生時代から、テキストを捨てたり、ゲームセンターに行くみたいなエネルギーを、すべて自分の授業に還元しているエネルギーの強さを感じるんですけど。

それができるのが、あらためてすごいなと思っています。授業がつまらない不満って、誰しもが思うと思うんですよ。「自分だったらこうやるのに」と思うところ。そして「自分だったらこうやるのに」を実践するところ。この2段階が、にしむら先生が他の方と違うところなのかなと思っています。

学校の勉強だから「自分だったらこうやるのに」と思われたんですか? それとも他のことでも、「自分だったらこうするのに」と思うタイプですか。

西村:ありとあらゆることに思うタイプですね。

松下:日常生活を送ってても「いや、もっとこうなったらいいのに」とか、そういうことを日々感じるみたいな感じなんですか。

西村:特に自分の得意な分野に関しては、そうですね。苦手な分野もすごくいっぱいあるんで、それは言えるどころか「すごいなぁ、自分にはできないなぁ」とは思います。

松下:自分ができるからこそ思いやすいのはあるかもしれないですね。

入社1年目で表彰されても、感じていた物足りなさ

松下:話をまた戻すんですけど、塾業界しかないと思って全勝して、塾業界に入るじゃないですか。そこからずっと全勝みたいな感じなんですか。壁にぶち当たることなく成績をバーっと残されていったんでしょうか。

西村:そうですね。入社1年目の初年度で、全講師社員も含めて、生徒授業アンケート全校舎中全講師中1位で、社長から表彰をもらいました。

松下:(笑)。非常にすごいじゃないですか!

西村:ただ、その時の自分の心境としては「つまらない」と思ったんですよね。他の講師に「何十年も勤めてて、この程度なの?」と思いました。もともと就職活動の時に日本を出たい思いがあったんで、余計に日本を出たくなったんですよね。日本を狭く感じたんですよね。

松下:進路選びの軸という観点でいくと、お金を稼ぐという意味で、まずは就職をしよう。できるところを探そうで、塾業界が自分にフィットしていたって話だと思うんですけど。そこでは稼げると思われた。

ただ、自分の感情としては「つまらない」というか、できるが故にもの足りなさみたいな部分があったと思うんですけど。そことはどう向き合っていったんですか。

西村:普通に向き合えなかったです(笑)。そこで表彰されても、社員なので、給料がすごく上がるわけじゃないんですよ。塾業界はすごく給料が低いので……。残業代を入れても年収400万円程度だったと思います。だからお金も安いし、休みもないし。

ふと目にした求人に応募し、単身シンガポールへ

西村:塾の仕事って夜も遅いんですよね。もう辞めて日本出たいなぁって、ずっと思ってました。

松下:それから飛び出たんですか。

西村:飛び出ました。仕事の昼休みに本屋で就職の本を見ながら、『「海外で働く」本』というタイトルの雑誌を見つけて。そこに駿台の海外校講師募集があって「これ、いける気がする」と思ったんですよ。

松下:塾業界だと自分が全勝できるところなので、飛び込んだんですか。どういう時間軸で動かれたんですか。入社1年目ですごい結果を残して、その後、どのぐらい勤めて海外に移られたんでしょうか。

西村:時間軸としては、新卒で入った早稲田アカデミーを出て、その2年目の終わりぐらいに採用試験を受けて、1週間ぐらいで合格通知が来ました。シンガポールか香港、どっちの校舎を選ぶか聞かれました。

香港には行ったことがありましたので、行ったことないシンガポールに行くことにしました。その後、2~3週間後にシンガポールにはいましたね。家族には「日本に戻ることはないから」と捨て台詞を吐きました(笑)。シンガポールに単身渡りました。

松下:行動が早いですね。大学生活Day1で塾講師となるあたりでも感じたんですけど、こうしたいって思ってから、実際に行動に移すまでの時間が非常に早いですね。

3ヶ月休みなしで働いたことも

松下:私も、どちらかといえば早いタイプではあります。みんながみんなそうじゃないと思っています。もちろん良し悪しはあると思うんですよ。

私の場合は早く行動しすぎるが故に、もうちょっと後先を考えればよかったなと思うことがあります。にしむら先生の場合で行くと、大学生活を最初の1年は楽しもうみたいなことではなく、いきなりDay1から塾講師やられてますし。

「もの足りない」と思ってから飛び出るまでの時間がかなり短いんですよね。行動力がすごいなというのは、話を聞いてて思いました。

でもシンガポールに行かれて、働いてみてどうだったんですか。いわゆる勝ち負けじゃないですけど、結果を残せた、残せないみたいな話で言うと。

西村:まず暑かったですよね(笑)。日本の大手塾で結果をずっと出していたので、海外風にアレンジしてけば、それなりに機能しました。

松下:シンガポールでも、「ここが大変だったな~」みたいなこともなかったんでしょうか。

西村:「大変だったな~」は、やっぱりいろいろありますよね。日本以上に大変でしたね。日本の労働環境の縛りがないので。3ヶ月休みなしとかもありました。

そこで認められて、3年やった後、当時29歳でした。駿台の歴史は80年ぐらいだったと思うんですけど、駿台初の20代の校舎長として、香港に赴任しましたね。

「この若造は何者だ」新たな赴任先での苦悩

松下:香港に赴任されてから大変だったことはあります? 

西村:すごく大変でしたね。まず、前任の校舎責任者が生徒・保護者からすごく慕われていたんですよね。年度終わりの保護者説明会があって、前任の校舎長が挨拶すると保護者がみんな泣いてるんですよね。

「では、新しく新任の西村先生です」と、みんな泣いてるところに、若い20代の頼りない人がとことこ歩いてきた。恨みがましい目で、保護者から見られるところからのスタートでしたね。

部下は全員自分より年上で「この若造は何者だ」とみたいな感じで見られていたんですよね。部下を持ったのも初めてだったんで、なかなか大変でしたね。

松下:そこから、どうやって校舎長としての仕事を進められるようになったんですか? 

西村:マネジメント経験もゼロなんで、わかんなかったんですけど。唯一自分に得意なものがあって、それは生徒の受験指導なんですよね。受験指導で生徒を惹きつけて、初年度から香港の校舎史上最高の合格実績を出したんですよ。年上の塾の講師も、授業の指導力があって結果を出せる講師には従うんですよね。

保護者も従うんですよね。生徒はもちろん最初の授業でついてきてくれました。そこからはやりやすかったですね。

松下:なるほど。

「仕方なく」勉強したことが、10年後に意外なところで役立つ

松下:とにかくシンガポールの時もそうだったのかもしれないんですけど、目の前の学校、学校嫌いというか勉強嫌いの生徒を、いかに勉強をおもしろく見せ、おもしろがれる人に変えていくかという。そこを一点突破で今までやってこられたイメージですかね。

西村:そこもあるんですけど、私は高校時代に勉強しなさすぎて、行ける学校がすごく少なくて、商業科しか行けなかったんですよね。

それも商業が好きだったんじゃなくて、偏差値がすごく低くて入りやすかったんですよね。仕方なく、かなり仕方なく商業科に行って、勉強したくもない経理や簿記の勉強をしてたんですけど。それが駿台の香港校の校舎長になって、10年後に非常に役に立ちましたね。

校舎長になると、支社長みたいなものなので、経理もあるんですよね。そこで、昔やったのと似てると思いました。「これはそっくりだ」と思って、高校時代とつながって、そこで経理もわかる塾講師ということで、本部から一目置いてもらえましたね。

松下:そうなんですね。今は淡々と話されてますけど、非常に大変だったと思うんですよ。

たぶんシンガポールに行って、労働環境が3ヶ月休みなしで働いてくださいみたいな話も、普通に考えたら……どんだけやりがいある仕事だって言っても、3ヶ月休みなしで働けって言われたら、嫌になることがぜんぜんあると思うんですよ。

あとは香港の時代も、学校説明会で何十人、何百人かわかんないですけど、生徒・保護者のみなさまの目の前で、慕われてる先生が辞めて、「じゃあ新任の人の登場です!」という時の心情とかを想像すると、非常にやりにくいと思います。でも、続けられてるじゃないですか。

しんどい状況下でも、この仕事を続けてきた理由

松下:ご自身の強みである生徒指導、受験指導をブラさず、生徒とずっと向き合ってき続けたからこそ、どんどん周りの関係性とかも好転していく。そんな働き方のエピソードだと思っています。

どうしてそんなに続けられるんですか。いろいろな節目節目で、非常にしんどかったと思うんですけど。そこはどうしてるんですか。

西村:続ける以外のうまい他の選択肢が考えられなかったですね。探せなかったですね。これより悪いことになりそうな選択肢しか、見つからなかったですね。だから、積極的に選んで続けるよりは、今はこれしかないなみたいな感じでしたね。

松下:この進路指導の軸よりも、なんかやりたいことがあったとか、好きなことを見つけてというよりも、できないことを全部排除していった結果、この仕事が嫌いじゃないし、できる。わりと消去法的に残ったものが、受験指導、生徒指導だったんですね。

ただ、それをずっと続けて積み重ねていった結果、今のにしむら先生につながってるイメージなんですね。

西村:そうですね。

松下:なるほど、おもしろいですね。