大手新聞社の記者だった能作氏が、鋳物の道を歩むまで

能作克治氏(以下、能作):ここでまた個人的な話になるんですが、私は出身が福井県なんです。大阪の芸術系の大学を出て、そのままある大手新聞社の写真部へ入社して、2年半写真記者をやっていたんです。その時に恋愛をしまして、その相手が能作の一人娘だったんです。

僕も長男で妹しかいなかったので、嫁にもらわないとちょっとまずいなと。「こちらに来て」と言ったら、あちらの親父さんが「うちは一人娘やから、これを出したら伝統の火が消えるし家系も途絶える。お前が考えてくれ」と言われて、どうしようかと。妹がいたので、さっそく妹に相談したわけなんです。

妹が、「お兄ちゃん、行ったら? 私がなんとかするよ」と言うんですよね。「え! こいつしっかりしているな。すごいな」と思って僕が(能作に)来ちゃったんですが、その妹は1年後に東京に嫁に行っちゃいました。薄情ですよ(笑)。

そんな中で鋳物のこともぜんぜん知らずに高岡に来たんですが、まず高岡に来て思ったことは、非常に封建的な土地柄だということです。加賀藩の影響も強いところなので、県外から来た人を「旅の人」という言い方をするんですよ。僕も旅の人。「あんた、旅の人け」っていつも言われたんです。

それからもう1つが、お婿さんというのもちょっと下に見られるんです。「あんた、婿はんけ」っていつも言われる。もう1つが「あんた鋳物屋のあんちゃんけ」と言われるんです。伝統産業の鋳物屋は、非常に下に見られている存在だったんです。だから三重苦で高岡に来た感覚ですね。

そんな中で、うちは問屋さんに対して製品を納めているので、まずはとにかく技術を磨いて、高岡で一番の鋳物屋になろうと、18年間ずっと現場で職人をやっていました。

「旅の人なので何も知りません」と言うと、高岡の方は親切に「他には言うなよ」といろいろ教えてくれるんです。それを自分で実証して、「あの人の言っていることは正しい、これは違っている」と思いながら技術を伸ばしたんです。

新聞社から鋳物屋になった時の「カルチャーショック」

能作:10年くらい経ったら、問屋さんから「能作、鋳物がきれいになったな」とみんなに言われるようになったんです。ただその時に思ったことは、問屋さんに評価されてもぜんぜんうれしくないということなんです。実際に使っているユーザーの方の評価を仰ぎたいなと。

ところがうちは下請けで素材を作る役目で、素材を問屋さんに納めちゃっているので、どんな色を付けていて、どこでいくらで売られているかも知らない。完全に技術しか売っていなかった立場で、チャンスがあればぜひ自社製品の開発をしようと、その時に思いました。

新聞社から鋳物屋さんに来た時はカルチャーショックもかなりあって、こっちは8時~17時の仕事です。それに鋳物の仕事って過酷なんですよ。とにかく熱いし、体力が持つかなと、はじめの3年くらいはそればっかり考えていました。

昔の人はよく言ったもので、「石の上にも3年」と言いますが、3年経ったら楽しみがどんどん増えてきました。いかに鋳物をきれいにできるか、あるいはお客さんの声を聞きたいがために、自社製品開発を絶対にするぞという意欲が出てくるわけですね。

チャンスが巡ってきたのが2001年なんですが、よくある地方の勉強会ですね。東京からデザイナーとコーディネーターがやって来て、「製品開発をしましょう」と。そこで参加しているメンバーは「自分の製品を持ってきなさい」と言われて、僕も持っていきました。

すると「能作さん、すごく鋳物がきれいだね。東京で展覧会やらない?」と言われて、2001年に東京の原宿で約1週間、夏の時期に展覧会をやりました。

ただ困ったことに、うちは仏具とお茶道具と花器しかやっていないので、並べるものがないわけですよ。なので、池坊の万年青(おもと)鉢という、正月におもと(観葉植物)を生けるための鉢をコケ盆栽にして出しました。お茶道具の建水に水を張って、ロウソクを浮かべてフローティングのロウソクの器にしたり。

唯一作ったのがベルです。これは自分でデザインしたベルで、特殊仕様で枝を長くしました。ちょっとマニアックな見せ方過ぎたかな? と今となっては思うのですが、「うちは生地がきれいだから、この鋳物のきれいさを見てくれ」というつもりで一般ユーザーに見せたんですが、一般の人には生地のきれいさなんてそんなに関係ないんですよ。

どっちかというと「表面のテイストのほうが気になる」と言われたのが多くて、ちょっとマニアック過ぎたかなという思いがあった展覧会なんです。

全く売れなかった製品が、ある工夫で100倍近くの売り上げに

能作:ただこの展覧会で、うちの大きなきっかけになることが起きます。それは何かというと、東京のセレクトショップが、私が自分でデザインして作ったベルを「扱いたい」と言ってきたことです。

自分は有頂天です。初めてユーザーの一番近いところに製品が並んで、ましてや自分でメッキ屋さんに行ってメッキを付けてもらって、箱も作って、中に説明書も作って、完全な完成品で出した製品の第1号なんですから。

これで製品開発ができると思ったんですが、このベルがぜんぜん売れないんです。13店舗で3ヶ月で売れた個数が30個だったんですね。やっぱり難しいなと思っている時に、女性の店員さんから、「能作さんのベルはスタイリッシュで音がきれいだから、風鈴にしたらどうですか?」って言われたんです。

あの当時は和物から洋物を想像する方が多かったのに、その店員さんは、ベルという洋から和へ発想したわけなんです。「え? 本当にこんなもんで売れるの?」と思ったんですね。というのは、価格も4,000円を超えていたので、そんな値段の風鈴って見たこともなかったですしね。

半信半疑で作って並べたところ、なんと3ヶ月で3,000個売れたんです。100倍です。わかったことは、「ユーザーの一番近いところにいる人たちの意見を聞いた開発をしていこう」ということですね。

ベルが売れなかった理由は、今考えればすぐわかるんですが、日本人はベルを使わないんですよ。レストランかホテルで使うもので、家庭でベルで自分の奥さんを呼んだら、お皿が飛んでくる人がいっぱいいると思うんですよ(笑)。

なので、とにかく店員さんの意見を聞いた製品開発。それとデザインが大事なので、デザインを効かせた自社製品の開発をしようと決めました。2002年からですから、だいたい20年経っているんですね。

もっと身近な製品を作るため、錫を使った食器を開発

能作:もう1つは錫(すず)。2004年から始めたので、まだ18年くらいかな。なんで錫をやったかというと、先ほど「ベルを風鈴にしたらどうですか?」と言った女性の店員さんが、「能作さん、もっと身近なものにいきませんか?」と言ってきたんですよ。

「何が欲しいの?」と聞いたら、「食器が欲しい」と言うわけです。うちは当時、真鍮しかやっていなかったので、高岡に戻って保健所に電話をして「真鍮で皿を作っていいですか?」と聞いたわけです。

食品衛生法で銅は禁止なので、使っちゃダメなんですよ。なのでどうしようかと。うちが持っている技術が活かせて、食品衛生法で大丈夫な金属。考えたのが錫なんですね。ただ、一般的にみなさんは錫をどうしているか。日本には他にも錫の産地・企業があります。他の産地は錫を硬くして加工する、要するに金属は硬くて当たり前だという感覚なんですよ。なので、錫に銅とかアンチモニーという金属を入れて硬くする。

うちの会社はそれを真似ると、他産地の物真似になるわけです。革新性がないので嫌だなと思いました。いろいろ調べてみると、世界で100パーセント錫で製品を作っている会社が1つもなかったので、それにチャレンジしようと。

なんで100パーセントで作る会社が1つもないかというと、ぐにゃっとすぐに潰れてしまうので、機械的に加工はできないからです。粘土に紙ヤスリを掛けると目詰まりしますよね、あの感覚です。でも、うちは微細な鋳造ができるので、事前に1ミリなら1ミリの型で、加工しなくてよくしてしまえばいい。

そうしてなるべく加工の量を減らしたのがうちの製品なんです。だから知っている方はわかると思うんですが、ザラザラとしていますよね。これ、砂肌なんですね。加工していないんです。

「新しいことにどんどんチャレンジしないと、衰退する一方」

能作:それで、チャレンジを始めました。ただ、最初は曲がることは欠点だと思っていました。だって、お皿が曲がったりコップが曲がったりするわけじゃないですか。

その欠点をあるデザイナーに相談したんです。その方はデザイナー的な発想なんですが、「曲がるなら曲げて使ったらいいんじゃない?」と言い出したんです。僕もそれを聞いて「そうだね。別に曲がったっていいじゃないか。お皿が曲がったってコップが曲がったっていいじゃないか」と思い、曲げて使う製品がその時にできました。

よく逆転の発想と言われますが、それが大ヒットしたんです。他の特性としては、錫は非常に錆びにくい。要するに酸化しにくく、色が変わりにくいんです。それと抗菌作用があるという特性もあります。それからお酒がまろやかになり、お酒の味は極端に変わります。

一時、ここに「お酒がおいしくなる」と書いたんですが、酒屋さんの後援会から怒られまして、それから「まろやかになる」というふうに書きました。酒蔵さんにとっては、自分が自信を持って作ったお酒の味を変えちゃうので、ちょっと抵抗があるんだなということが後々わかりました。

これも転換点なんですが、2008年頃になるとすごく製品が売れだしました。よく伝統産業の製品って、(出荷まで)「半年待ってください」とか「1年待ってください」というところがあると思います。でもそれが本当なら、何年経っても売り上げは変わらないじゃないですか。

なので、いくら伝統産業と言えども新しい技術開発を起こさなくてはいけないだろうということで、シリコーン鋳造という鋳造法を考え出しました。要するに、シリコーンの型に錫を流し込む方法です。それで作ったのがシリコーン鋳造です。

一般的にデザイナーさん、作家さんが1個だけ作りたい時には、シリコーンで型を抜いて流し込むんです。1個は取れるんですが、2個目は取れないんですね。だけどうちの技術は、1つの型で500から1,000回鋳造できます。

この鋳造法で、ものづくり日本大賞の第5回で経済産業大臣賞をいただきました。守っているだけではダメで、やっぱり新しいことにどんどんチャレンジしないと、衰退する一方だろうということですね。

変形するのが錫の特性なので、錫のことを考えると、曲がることや抗菌性による医療機器を開発はまだまだ今からできると思います。あと、これからは介護用品ですね。お年寄りが増えますから。なんらかの抗菌性のある介護用品の開発もできると思っています。

自社の技術は隠さず、地域の活性化のために使ってもらう

能作:もう1つは地域の活性化ですね。銅はぜんぜん売り上げが伸びなくて大変なんですが、今は高岡でも約13件ほど100パーセント錫をやっている会社があります。参画しやすいように、うちはあまり技術は隠さないんですね。わりとオープンにしちゃいます。

うちが扱っている外注屋さんに持っていって、「能作と同じように仕上げて」と言えば、すぐにできるようになってるんですよ。あえて技術を隠す必要はないと思っていまして、地域の活性化はすごく重要じゃないかなと思ってやっています。

海外の取り組みの話なんですが、実は12年前から海外展開をやってるんですよ。なんで海外を目指したかというと、海外の評価を仰いで世界ブランドを目指したいと思ったわけです。

実は、日本人は金属が苦手な民族なんですよね。土耕民族なので、焼き物や木製品を見ると「いいね、温かいね」と言うけど、金属を見ても「冷たい」「臭い」「切れる」と言われるのがオチなんですね。

なぜかといえば、金属が大陸から武器や農耕具として入ってきた背景があるもんですから、大陸の考え方とぜんぜん違います。ところが大陸には、金属文化がありました。例えばお隣の韓国では、食事をする時は金属の器に金属のお箸なんですよ。日本では考えられない。どうしてかというと、そういう金属文化があったからです。

あと、みなさんの台所を見たらわかると思うんですが、海外に行くと(包丁などが)キッチンに突き刺しておいたり、後ろの壁に掛けてあるんですね。ところが日本人は必ず下の戸棚にしまって、危ないからと人に見せないんですよ。

そう考えても、やっぱり金属は海外が本場です。競合する相手も多いんですが、世界に通用するかもしれないので、やりだしたところですね。

能作が海外展開を始めた理由

能作:それから、当時は海外の展示会に行きたい中小企業もたくさんいたんです。ジェトロ(日本貿易振興機構)さんがいろいろと世話をしていましたが、中小企業・零細企業には(海外進出は)敷居が高いんですね。

パリのMAISON & OBJET(メゾン・エ・オブジェ)という展覧会に「行きたい」と言うと、すぐに申込書をポンと持ってきます。その申込書自体が全部英語で記入しなくちゃいけないわけですから、それは無理だと思うんですよね。

なので、うちの会社が先に行って海外の轍をつけてあげれば、他の人に提供できるなという思いがあって、海外チャレンジを始めたのがきっかけです。正直、やってきてだんだんとわかってきたこともあるんですが、まずその1つ目は各国の文化を見据えた製品開発。

よく「日本国内ではこれだけ売れてるから、130倍の人口がいる海外に持って行ったらもっと売れるんや」と言う。でも、国によって使うものがすべて違ってるので、売れないんですよ。そこをしっかり見極めた開発をしないことには売れないと思います。

例えば、韓国ではお箸を使うので箸置きを送ったんですが、うんともすんとも言ってこないんですね。ソウルに行って確認したら、韓国は文化的にお箸とスプーンをセットで使うんですね。だから箸置きの大きさが日本の倍は要ることがわかりました。これも文化の違いですね。

おもしろかったのが、一時期ミラノにお店を出した時にお客さまの要望で作ったことがあるんですが、「赤ワインの皿を作ってくれ」と言われました。ヨーロッパはテーブルクロスを掛けて食事をする国なので、赤ワインが白いテーブルクロスに落ちると血の跡みたいに見えるんですね。だから、赤ワインだけはお皿が欲しいと。これも文化の違いです。

そういうことをどんどん吸収したいなと思うんですが、日本にいてはなかなかできないんですね。なので、うちはインバウンドを当てにせずに、アウトバウンド。現地に乗り出ていって、現地の企業と合弁を組んでやろうという考え方で動いてます。事例はまたあとでお見せしますね。