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元PlayStationジャパンスタジオの代表に聞く! クリエイター人生で一番おもしろかったプロジェクトは?!(全5記事)

『ときめきメモリアル』は、不採算による“開発中止”寸前だった 開発責任者が下した「あと半年待ってやればいいじゃん」の英断

ゲーム業界で仕事をしているデザイナー、プランナー、エンジニアなどのクリエイター向けに、キャリアデザインをテーマに実施するセミナーイベント「クリエイターヒストリア」。業界で成功を納めているクリエイターは、今までどのようなキャリアを歩んで行ったんだろう……? という、現在に至るまでの努力や道のり、人生の転機など、その歴史に迫っていきます。本記事では、名作『ときめきメモリアル』『どこでもいっしょ』などをプロデュースし、PlayStationのジャパンスタジオ長を経験された桐田富和氏をゲストに迎え、ゲーム業界歴40年の歴史を紐解きます。

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営業担当だったのに、いきなり「ゲーム開発の責任者やれ」

宮田大介氏(以下、宮田):では次に移っていきましょうか。

営業という立ち位置から、実際に野球ゲームをプロデュースするって話に移っていって。そのあと、実際の開発統括部長になられる感じですよね。

桐田富和氏(以下、桐田):ええ、そうですね。「営業をずっと極めていく」って言ったら大げさですけど「ずっとコナミの中でやっていくんだ」という思いはあったんですけど。いきなり、あるタイミングで「ゲームの開発の責任者やれ」って言われて。

宮田:(笑)。

桐田:意味がわからないですよ(笑)。でもいろいろ話を聞くと、当時の家庭用ゲーム機は任天堂さんの圧倒的なマーケットシェアだし、PCエンジンの市場もあって。海外に目を向けると、アメリカはセガの「ジェネシス」というのがあるぞと。日本にも「メガドライブ」というゲーム機があったんですけど。

日本では大きな市場じゃなかったんですけど、コナミの中で家庭用ゲーム機をやるんだったら「セガもやろうよ」という話になって。ただそれを開発する部隊がないから「部署を作るんで、お前が責任者をやれ」みたいな感じで、いきなり降ってきてですね(笑)。何を考えてるんだろう? と思いながら「そう言われたら、仕方ねぇな」と思ってお引き受けした感じでした。

宮田:その時アサインしていただいた方に聞いたりしました? 「どんな理由で僕がそれやるんですか?」みたいな。

桐田:あんまり気にしないので、とりあえず「やれって言うんだったら、やってやるかな」みたいな感じでやったぐらいの気持ちでしたね。

宮田:上長的には、営業での活躍だったり、プロデュースみたいなところを見られてたって感じなんですかね。

桐田:そういう期待もあったんでしょうけど。ただ、実際に担当してみると「これってマーケットはアメリカとか海外じゃん」っていうのが、改めてわかってきて。「日本向けのゲームって作っても売れねぇな」と思いながら。でも、私の中では日本のマーケットしかわからないので。

ただ、やる以上は日本でも受け入れられて売れるようなゲームを、少なくともオリジナルで1本や2本は作ってみたいな、という思いがあって。チームの中ではチャレンジングなことにも取り組んでいました。

『ときめきメモリアル』は、開発中止になる予定だった?

宮田:なるほどですね。トラックレコードのところには書かせていただいたんですけれども、ヒットタイトルとかもありつつ、のちの『ときめきメモリアル』になるチームも、実はそこで参加してきたと。

お話を聞いた時には、実はそのチームは「プロジェクトとして長く開発が続いていて、不採算だから閉じるか閉じないか」みたいなタイミングで、桐田さんのもとに入ってきた感じなんですよね。

桐田:私はセガ向けのソフトを作る開発6部だったと思うんですけど「統括部長をやりなさい」と言われて。それで開発5部って部署が、PCエンジンのゲームを統括してた部署なんですよね。

当時のPCエンジンの市場も、ほぼほぼ終盤に来ていて。タイトルを出そうとしても、開発が遅れて出ないっていうプロジェクトがいくつかあって。「じゃあもう桐田、全部一緒に面倒みろ」って話になって。「面倒みろ」=「潰せるものは潰せ」みたいなオーダーがあったので「えぇ〜」と思いながら引き受けてた感じですね。

宮田:(笑)。

桐田:当時はそういう名前じゃなかったんですけど、その中に『ときめきメモリアル』っていうタイトルがあって。「これはもう長いことやってるし、終わりが見えないからお取り潰ししなさい」みたいなオーダーがきたんです。

「まぁ仕方ないな」と思って、現場のスタッフのヒアリングをしながら開発している光景見てみていると「あと半年ぐらいやればできる」みたいなことも聞こえるし、長いことやってるけどプロジェクトに対する一人ひとりの熱い思いを相当に感じて。

なので「あと半年我慢すればできるんだから、待ってやればいいじゃん」と会社に進言したんです。これをやめさせることのマイナス要因が大きすぎるな、というのもあったんですけど。そんな過程があって、ちょっと無理を言って、コナミのPCエンジンゲームの最後として、リリースできたんですね。

宮田:なるほどですね。今になって振り返って聞くとすごく英断だなというか。当時のヒットタイトルで、長く続く『ときめきメモリアル』が生まれるきっかけになるというところで、ジャッジポイントとしてはすごいなと。

でも当時は、そのジャッジをする上で反発も大きそうというか。相当難しかったんじゃないですか?

桐田:難しい部分もありましたけど「半年ぐらい」っていうことでそんなには。それまでに2年半〜3年を掛けているワケだから「半年ぐらいいいじゃん」って、会社側も判断してくれたと思うんですね。

宮田:なるほど。ここから花開いたクリエイターの方もけっこう多いですもんね。「もともと『ときめきメモリアル』やってました」みたいな。『悪魔城(ドラキュラ)』の五十嵐(孝司)さんとかも、実はこのチームにいらっしゃったんですよね。

桐田:そうですね。彼もプログラマーとして、相当苦労したと思いますけど、本当によくがんばってましたね。

宮田:本当にそういったことが続いたおかげで、次のヒットタイトルが生まれて、今に歴史が続いていくワケですよね。

アメリカオフィスの倉庫には、在庫が山積み状態

宮田:『ときめきメモリアル』みたいな話もあれば、大変だった話もあるとお聞きしてますが(笑)。

桐田:要は国内の市場はわかりますけど、海外の市場はやっぱりわかんないので。「海外でもオリジナルで勝負したい」ってことで、オリジナルタイトルを作ったんですけど。

統括部長という立場だと、営業に対して強気な発言も含めて指示できるんですよね。海外でオリジナルタイトルを出すということで、本来売れる数以上のROMを作っちゃいまして。ROMなんで3ヶ月前ぐらいに発注しなきゃいけないんですけど。かなりのデッドストックを作っちゃうというね。

宮田:なるほど、在庫がたくさん(笑)。

桐田:会社に大変なダメージを与えてしまったことがあるんですよね。

宮田:今と違ってモバイルやダウンロード型じゃないので、実際に物を作んなきゃいけない。売れないとそれがそのまま残ってしまうのは、すごく大きいですよね。

桐田:そうなんです。当時はシカゴにコナミのアメリカオフィスがあったんですが、隣接する倉庫に在庫が山積み状態で。当時の社長に「お前、シカゴ行ってどんだけ倉庫あるんか見てこい!」って言われて。

宮田:(笑)。

桐田:本当に申し訳ないですね。

宮田:経歴だけを見ると、華々しい成功だけの人生みたいな感じですけど。

桐田:いえいえ。ぜんぜんそんなことないですよ。

宮田:実際には大変な思いや苦労されたこともたくさんあったということですね。

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