田園地帯と都市の良さをかけ合わせた町づくりへ

佐々木俊尚氏(以下、佐々木):さっきから話していることをまとめると、産業革命以降、この200年~300年くらいの間に、我々は農村から都会に来て、都会から郊外に戻り、郊外からまた都心に回帰し、そしてまた郊外や田園都市に戻っていくという、行ったり来たりが繰り返し行われてきて、新しい揺り戻しがもう1回起きつつあるんじゃないかなという感じがしているんですね。

山下悠一氏(以下、山下):国も地方創生とかやってがんばっていましたけど、なかなかいろいろとうまくいかないところもあったと思うんです。

そういった田舎暮らしといいますか。俊尚さんも3拠点生活などをしながら、いろいろケーススタディでやられていると思います。おそらく、今まで田舎で過ごしていたというスタイルとは、まったく違うシフトができるじゃないですか。

佐々木:結局、田園回帰ってよく「移住ブーム」みたいなものがこの10年くらいずっとあって、移住関係のメディアとか雑誌とかWebがたくさん出てきました。見ると必ず、麦わら帽子をかぶって楽しそうに農作業をしている夫婦の写真などが載っているんです。

山下:リタイアしたような?

佐々木:あれはちょっとやりすぎで、もちろんそういうのは楽しい面はあるんだけど、一方でそれをやっちゃうと、今度は田舎特有の人間関係の面倒くささがあったりとか、大変なわけですよ。収入が減ったりとかでね。

だから、僕はあまりにも過剰に就農、要するに農業について移住するということを、もてはやされるのもやりすぎなんじゃないかなということをずっと思っています。どっちかというと田舎で田園都市生活に入るというよりは、今の都市生活みたいなものの発展型を田園地帯にまで拡大していく。

それは決して、田園地帯を高度な都市のようにして「ハイテクで武装せよ」ということを言っているわけもなく、「緑を破壊しろ」と言っているのでもなく、今の緑がたくさんあって気持ちのいい状態の田園に、都市的なものをレイアウトしてかぶせていくという方が、落とし所としてはいいんじゃないかなという感じがするんですね。

「田舎暮らしはエコ」という大きな誤解

佐々木:しばらく前に、『都市は人類最高の発明である』(エドワード・グレイザー著、山形浩生翻訳)という翻訳書が出て、けっこう話題になったんですよ。我々が「田舎暮らしのほうがいい」と言って、「都市が人間的じゃない」なんてよく決まり文句で言いたがるんだけど、実際に田舎に行ってみると、例えばエネルギーを異常に使うと。

都市は人類最高の発明である

それ、わかるんですよ。僕は長野の軽井沢町に家を借りて、毎月のように行っていて、冬とかに行くと灯油の消費量がすごいですよ。

山下:そうですよね。

佐々木:東京のマンションに住んでいればそんなに光熱費がかからないのに、田舎に行った瞬間に、ものすごく莫大な熱を消費して、それによって自分の自宅を快適にするって、エコなのかって言ったら、ぜんぜんエコじゃない。

エコを本当に求めるなら、要するに地球環境をきちんと大事にしたいんであれば、田舎で暖房を炊きまくるよりも、都会の快適な全戸がちゃんと閉まっているマンションで暮らした方が理に適っているよねという話なんです。

だから、「田舎暮らしがエコだ」というのは、ある意味、都会もんのエゴイズムに過ぎないという考え方ってあるわけなんですよね。なにが言いたいかというと、『都市は人類最高の発明である』という本に、なんで都市が発達したのかという理由について書いてあるんですね。

都市が生まれ、発達していく理由

佐々木:1つは、もちろんさっき話したように、産業革命で工場が都市にできるようになって、そこに人を集めなきゃいけない。だから都市にどんどん人が入ってきたんだと。でも、それだけだと都市って持続するか。しないんですよ。

例えば、一番わかりやすい例は、アメリカのデトロイト。あそこは自動車会社のビッグ3が集積している都市で、ものすごくたくさんの人が20世紀に集まってきて、デトロイトは巨大都市になったわけでしょ。

でも、結局、その状態は長続きしなくて、アメリカの自動車産業は衰退すると同時に、デトロイトの街自体もすごい勢いで衰退してしまった。単なる企業城下町でしかなかったわけですよね。

日本でもよくあるじゃないですか。企業城下町で大きな会社の工場があるんだけど、その工場が撤退して、どこか海外に移転しちゃった瞬間に、街がバーンと寂れて店が全部なくなっちゃう。これはぜんぜん持続性がない。サステナビリティを持っていないよね。

さっきの『都市は人類最高の発明である』という本の中には、都市が発達する理由として、産業革命で工場に人が集まるというのは1つあるんだけど、それだけじゃないと。もう1個重要な要素というのがあって、それはなにかというと、結局「人」が集まってくる。

優秀な人たちがたくさん集まってきて、例えばみんなでセミナーをやったり、パーティーをやったり交流したり、あるいは一緒に働いたりする。人が集まることでアイデアやイノベーションやビジネスの種が、どんどん生み出されるという、種的な要素。そういう都市としてのインキュベーター的な意味ですよね。そこが実はすごく大きいんじゃないかと。

その本はデトロイトについて書いていて、自動車産業はなぜデトロイトにおいて勃興したのかというと、もともとフォードが開発した、いわゆる「大量生産方式」ですよね。フォードのシステムを開発するための要素みたいなものは、多様な人たちがデトロイトにいて、デトロイトの人たちがフォードのシステムを作った。そこから発展していったんだよね。

ところが、フォードのシステムが発展しすぎて、デトロイトが単なる工場城下町になってしまった瞬間に、イノベーションの土壌がどんどん消滅してしまって、結局、フォードやクライスラーやGMがダメになってしまった時には、もはやイノベーションの素地がなくなっていたと。

街を栄えさせるのも衰退させるのも人

佐々木:これは今の日本でもまったくそうです。企業城下町でなくなって商売が成り立たないので、人が減っていくとかさんざん言われているんだけど、街を再生するためには、結局「人」でしかないんですよね。

そこにおもしろい人たちが集まってワイワイやっていて、いろんな会話をすると。その会話をして一緒に小さなビジネスをやったり、取り組みをしたりするところから、なにか新しいビジネスやイノベーションやアイデアが生まれていって、それが街を転がしていくという。

だから、どうやってそこに人を集めるのかということが大事になってきている。しかもそれは、もはや移住して農業に就くというだけじゃなくて、別に東京の人間や大阪の人間が多拠点生活で回遊して、全国を移動しながら暮らしている。

移動しながら暮らしている中で、時折、ある街に立ち寄る。立ち寄った街で、例えばゲストハウスに泊まり、コワーキングスペースで集まり、いろんな会話をする。一緒に作業をする。その時に生まれてくる、ある種のアイデアやイノベーションみたいなものが、その街をさらに駆動させていく。そういうテクノロジーによって作られる人の回遊ですね。

グルグルまわって行く人たちと、地方の街とか郊外とか田園都市みたいなものが、どうやって触媒されて発火するか、というところしかないんじゃないかなという感じがしますね。

人との心地よい距離感は時代や国によって異なる

山下:うーん、なるほど。僕と俊尚さんで共通の友人がいて、熊本に三角エコビレッジSAIHATEというすごいおもしろいところがあって、1万坪の土地にクリエーターの人たちが住んでいたりするんですね。

そこがまさにちょっと未来形を表しているのかなと思うのは、本当に熊本の最果てという、すごく遠いところにあるにも関わらず、最近だとテスラの車が横付けされているとか、連日おもしろいイノベーターの人たちがどんどん集まってくるんです。

やはり、距離が関係なくなることだとか、あるいは場所が関係なくなってソーシャルディスタンスがあっても仕事ができる環境があれば、ライフスタイルや人がおもしろいところに、どんどん人が集まってくるんじゃないかなという気はしますよね。

佐々木:そうですね。社会的距離の間合いというか、気持ちよさをどう設定するかがたぶん大事なんじゃないかな。これって、例えば時代によっても変わるし、民族によっても変わるし、個人によってもひょっとしたら違うし、いろいろなんですよ。

それこそ、例えば世界的に見ると、アメリカ人やヨーロッパ人、欧米の人よりも日本人の方がかつては距離が近いとか言われていたりした。昭和の頃はそうですよね。でも、最近の日本人って、そんなにみんなと距離が近くないよね。もうちょっと距離を置いている方が楽しいかな。

例えば、北欧なんかはわりに距離が遠くて1人暮らししている人が多いという話があったりとか、時代によって距離の長さが違ってくる。距離が近すぎるのも自分にとって良くなければ、やはり気持ち悪いわけです。

夫婦で長く暮らすには、少し距離を置くくらいでちょうどいい

佐々木:例えば、都会から地方に行くと、とくに伝統的な農村などの共同体が残っている地域になればなるほど、ものすごく密接な付き合いを求めたがる。「お前はもう俺の村の仲間だから逃げるなよ」という感じのけっこう抑圧的なことを言われたりして、みんなそれが嫌で逃げたりするのもあるんですよね。

かといって、伝統的な共同体の人が都会に来ると、今度は都会の距離のわりに遠いと。遠さというよりも、都会の人間ってみんな、与えられるんじゃなくて自分で人間関係を選ぶじゃないですか。その感じに馴染めなくて、なんとなく「都会は冷たい」と感じてしまう。

人によって距離感の気持ちよさが違うので、そこをどうやってすり合わせするのかがけっこう難しいし、たぶん、ポストコロナの時代にはまた少しズレてくる可能性があるんじゃないか。

これはもともと、みんな無理しているところがけっこうあったと思っています。例えば、恋人とか夫婦、家族の関係でいうと、「近ければ近いほどいい」と思っている人が多いじゃないですか。「夫婦は愛し合ったほうがいい」とかね。

でも、僕はこれ、前から取材受けると必ず言っていて、あまり距離を近づけすぎると、恋愛関係でワーッと盛り上がっているときはいいけど、長く何十年も夫婦で暮らすためには、あまり接近しているよりも少し距離を置いているほうがいいかな。

実際、今回のコロナの自粛生活でTwitterとかを見ていると、「毎日毎日夫が家にいるのでコロナ離婚」みたいな話になっていたりするわけでしょ。近すぎるから嫌になっちゃうってあるんですよね。

うちなんか、夫婦で同じ屋根の下に四六時中一緒に暮らしているんですけど、2人ともフリーランスで自宅生活ですから、昼間はあまりしゃべらないようにしている。連絡があるときは直接言うんじゃなくて、Facebookメッセンジャーで連絡したりするんです。

例えば、今はダメですけど平常時に、夜にどこか飲みに行くとか週末にどこか行くというときも、どこに行くとか誰と会うとか、一切お互いに言わないと決めている。

家族・友人や職場との関係性を最適化していくタイミング

佐々木:お互いの関係をあまり詮索しない。じゃあそれは冷たくてドライな関係なのかというと、そういうことはないんです。週の半分くらいはなるべくご飯を食べるようにしていて、一緒に会ってご飯を食べる時、「ご飯を食べる時は相手の話をちゃんと聞いて、相手の気持ちに寄り添うということをきちんとやりましょう」と。

四六時中ベタベタするのでもなく、かといって、つっけんどんになるのでもなく、大事なときと大事じゃない時、それぞれのプライバシーがある時とは、切り分けて考えましょうという考え方が大事なのかな。

ある意味、コロナ離婚するくらいだったら、男女間というのは平安時代の貴族の通い婚みたいに、たまに会った方が仲良くできるんですよ。そのくらいの距離感のほうが実はいいんじゃないかなというね。たまにしか会わないと、お互いを大事にしようと思うじゃないですか。

山下:うーん。

佐々木:四六時中ベタベタ一緒にいるから、だんだん嫌になっちゃうわけです。距離感ってやはり、今までみんなが無理していたのを、今回のフィジカルディスタンスが注目されることをきっかけに、もう少し適切にお互いに最適化していくという。

それが夫婦間とか家族間だけじゃなくて、会社の上司や同僚の関係もそうかもしれないし、あるいは友人との関係、あるいはもっと大きく社会全体における我々の人間関係の距離みたいなところも含めて、もう一度最適化させていくということが必要なんじゃないか。

しかも、それをちゃんと支えてくれるSNSとかメッセンジャーみたいなツールも出てきているわけですから、(少し距離を取ることを)やってみてもいいんじゃないかなと思うんですよね。