共感性が欠如した人に見られる特徴

中野信子氏:さて、mOFC(medial orbitofrontal cortex:内側眼窩前頭皮質)の話に戻りましょう。一番最初の絵を見せる実験で活性化したところですよね。

一方、こちらはドイツの神経科学者の解析による画像で、殺人、強姦、凶悪な強盗事件などを起こした人たちに特徴的に見られる脳です。前頭葉の一部が暗くなっていますね。実は、彼らにはmOFCの活動が見られないというんです。

活動が見られない人には、そのほかにどんな特徴があるのか。最大の特徴は、人に共感することがないという点です。誰かが悲しんでいても、苦しんでいても、何も感じない。何もなかったかのように振舞うことができる。普通の人は、誰かが苦しんでいるのを見ると、自分もあまり気分がよくなくなったりします。でも、彼らはそうではないのです。

これは確かに凶悪犯の特徴ではあるのですが、こういう資質を持っている人が得意なことが、犯罪以外にもあるんです。他人を操作することです。こういう人は相手の痛みを感じることがない。

だからこそ、冷静に人を傷つけたり、苦しめたりすることにも躊躇がなく、バイアスを持たずに観察することに長けていて、その能力をうまく犯罪以外に活かすことを考えれば、人を操ることに適性があるといえます。感情を理解することはできなくとも、感情があるように見せかけることはできる。

ただ、そういうことをとてもうまくやりこなせる能力を持っている場合には、非常に恐ろしい存在にもなりえます。恐ろしいというか、強力なというのか。殺人や、強盗などよりも、もっと大規模に、他人の不利益の上に自分の利得を増やしていくという構造を、意図的に作り上げることができたりします。多くの人から巧妙に搾取する組織を作り上げたり、人心を惑わせ自分のために私的に使役したりということです。

実は社会経済的地位の高い人たちの中にも、これらの要素を持った人が多く、例えば、企業のCEOには一般の20倍くらいはそういう人がいるという調査もあります。組織をまとめあげるには必要な能力なのかもしれません。人に同情しすぎていてはできない仕事も多いということなのかもしれません。

この部分の活動の欠如は、その人が直ちに殺人者であるとか犯罪者であるとかいうことを意味するわけではなくて、その特性の活かし方によっては、その人が社会にとって非常に重要な存在になる、という場合もあるということなんです。

スーパースターも殺人者も既存の善悪の概念にとらわれない

ただ私がおもしろいなと思うのは、この領域と美の認知の領域は実は近傍にあり、一部重なりあってもいるという点です。「美しい」を認知しないという特徴がこれらの人々にあるということになりますが、実際どうなのか。興味深いところだと思います。

「美しい」を認知する力が乏しい、ということになるわけですが、「美」というとなんだかポエティックなようですけれども、「善悪を判断する力に乏しい」というとわかりやすいですよね。倫理の領域、共感の領域の活動の欠如が何をもたらすのか。これって多面的な解釈ができるんですよね。「善悪」を判断する力が乏しいと言うと、その人が非常に「倫理観にかけた不道徳な人だ」ということになりかねませんけれど、でも、逆の言い方もできるわけです。

例えば「既存の善悪の概念にとらわれずに、新しい挑戦ができる人」であるとも言える。両方の側面からの評価があり得る。安定した平和すぎる社会では、そういう人は社会的排除に遭うかもしれません。アンチも多くなるでしょう。

しかし、流動的で変化の大きい社会の中では、多くの人が怖がることを大胆に遂行でき、頭角を現すスーパースターかもしれないんです。殺人者は、治安の比較的よい世の中では、恐ろしい存在です。しかし、もし戦争の世の中に軍人として生きたなら、ヒーローとして畏怖の対象になり得ることもあるでしょう。

「クールかどうか」の価値判断は、周囲の評価に左右される

話を美の基準のことに戻しましょう。美人の基準というのは急速に変遷するという話をしましたね。やや間接的なものではありますが、今度はそれについての示唆を与える研究と言えそうなものをご紹介したいと思います。

「美しい」ではなくて、「クール」と「クールじゃない」を判別してもらうという操作をまずします。みなさんくらいの年代ですかね、20歳前後の学生さんにいろんなものを見せて、「これはクールだ。これはクールじゃない」ということを判定してもらうんです。点数化してもらってね。そして、平均点の高かったもの、低かったものをそれぞれfMRIでスキャンされている状態で、見てもらいます。

すると今度は、「クール」に対してmPFCが活性化したのです。覚えていますかね。ブランドの認知に関わる領域と同じところです。恥ずかしさとか、プライドとか、内省をするという認知に関わっている場所です。固まった判断基準があるわけではなくて、社会情勢や自分の周りのコミュニティによって基準が随時変化するようなのです。

「こんな服を着たらみんなにどう思われるかな」「こんなものを好きだと言ったら誰かに何か言われてしまうかな」などという認知です。

例えば、自分には好きな人がいて、その人があまりクラスで人気がある美人ではなかったとか、みんなが好むようなイケメンではなかったとかいう理由で、本当は好きなのに、周りに言えなくなってしまったり、自分の気持ちが盛り下がってしまったり、という経験はありませんか。その相手の価値よりも、「周りの人がその人をどう評価しているか」に左右されながら価値判断を下す場所がここだと考えられます。

ネアンデルタール人も共感性を持っていた?

この部分は、「社会脳」といわれる一連の領域の一部でもあります。我々の社会活動に関連している領域だからです。この部分が活動しないと、我々は社会的な行動をとることができないと考えられています。

フィネアス・ゲージという人がいました。この人は、まじめでよく働く勤勉な労働者でした。それがある日、事故で、この人の顔から前頭葉を貫く形でパイプが貫通してしまいます。奇跡的に一命を取り留めたのですが、その事故の前後で人格が変わってしまった。すべてにだらしなくなり、嘘をつき、快楽に溺れやすくなりました。とても、まじめで勤勉だった事故前のフィネアスと、同じ人物とは思えないほどだ。

亡くなった後に彼の脳が調べられました。前頭葉が大きく損傷していることがわかりました。この人の例から、「前頭葉が人間性の座なんじゃないか。社会性の座なんじゃないか」と言われ始めたわけです。そして、我々が社会活動を営む上で、かなり重要な部分だということがそれからの研究の積み重ねで分かってきました。

これは有名な話だから知っている人がいるかもしれませんが、ネアンデルタール人の化石の周りから、大量の花粉の化石が出てきたというのを知っている人がいますかね。つまり、遺体の周りにいっぱい花があったということです。

意味は、わかりますよね。もともと花が咲いていたわけではないであろう場所なのに、遺体の周りにだけ花粉がある。仲間が死んだときに、そこに花をいっぱい持って行ったということなのではないか、と考えられているんです。

「現生人類だけが仲間を悼むわけではない」ということです。現生人類だけが共感性や仲間意識や社会性を持ったり、美しさを感じたりするというわけではどうもないんじゃないかという。現生人類ほどは発達してはいないかもしれないが、同じような領域が存在するんじゃないか、ということが考えられるわけです。

人々が「美」や「善」に価値を見出す理由

しかし、いったいなんのためにそんな機能があるのか、不思議じゃありませんか? 「美しい」って、実は、我々の生活の中でほとんど役に立たない価値ですよね。まあ容姿が美しければ、いい相手と結婚できる、ちやほやされる、などそれなりにメリットがありそうに思えるでしょう。

けれども、特に女性では、性的嫌がらせに遭うだとか、容姿がよいだけでリーダーシップがないとか、知性に欠けるだとか、能力が割り引いて見られてしまうという調査結果も知られていて、デメリットは意外とあるんです。そして、他に美が役に立つことって、あまり個人の直接の生存というレイヤーではないんですよ。

けれども、じゃあどうして、私たちは美しいとか、善悪とかいう機能を持っているんだろう? おかしいでしょう? 必要がないのなら、わざわざなぜこんな機能があるんでしょうか? それも、私たちの中には美のためならかなりの時間と手間を割いたり、恐ろしいほどの金額を支払ったり、命すら懸けたりする人もいるというのに。

キーワードはこの2つです。アンチソーシャルとプロソーシャル。アンチソーシャルは反社会的という意味ですよね。その対義語は向社会的で、プロソーシャルと言うのです。美や善という価値は、人間が向社会的であることを促進する効果があるから、人間が社会を作って生きる生き物であり続ける限り、絶対に必要な価値なんです。たとえ個人にとっては一見、必要がないように見えてもね。

社会を作ることは、抜けがけを許さないことでもある

さて、社会を作るというのはどういうことか。コミュニティ――――例えば、村とか企業とかそのほか有機的なグループになり得る人間の集団というのは、この集団を構成するメンバーが各々、その人の持っているリソースを提供することによって、その集団のメンバーでいられるという性質を持っています。

わかりやすくいえば、会費を払う、労力を提供する、時間を提供する、知識でも特殊技能でも何でもいいのですが、なにがしかの自分の持っているリソースを提供することによって、その集団が成立します。会社もそうですね。それぞれが時間を提供する、労力を提供する。

仮に、その中に一人だけ、提供しない人が発生したとしましょう。会費を払わない、時間を提供しない。「来なきゃいけないのに、あいつ来ないね」「会費を払わないね」「みんなが一生懸命なのに、あいつはなにもしないね」――――そうすると、そっちのほうが得ですよね。なにも提供しないけれども、集団でいることの利益は享受する。

「差し引きなにもしない方が得だ」と。子どもでもわかる話です。「なにも提供しない方が得だ」「会費払わなくても何も言われないなら、払わずにいよう」と、メンバー全体がなっていくでしょう。その結果どうなるか。

その共同体は崩壊してしまいます。みんながリソースを提供しないという選択をした結果、その共同体は有名無実化し、存在する意味がなくなるわけです。

それを避けたい。共同体を崩壊から守るためには、早期発見、早期対応が必須です。まず、リソースを提供しない人が発生した段階で、その人をなんとかしなきゃいけないわけです。そこで、制裁を加える必要が生じてくる。「あなたひとりの抜けがけは許しませんよ」と。

制裁することのリスクと快感

このとき、だれが制裁を担当するのか。制裁行動には、リスクがあります。つまり、仕返しをされるかもしれない。この人の抜け駆けを許してはいけないんだけど、その人から復讐される可能性がある。「逆ギレされたらどうしよう」「その人のバックにすごく偉い人がいる」「親が権力者だ」など。けれども、このデメリットを考えていては、共同体の崩壊は免れない。

なので、仕返しのリスクに対して比較的、少なくとも腕力的には強い男性側にその役割が与えられているのです。「あいつだけ抜けがけして許せん」という気持ちは、男性のほうがより強いことを示唆するデータもあります。

余談ですがネット上でも、抜けがけしていそうな目立つ人を、ほとんど見返りもないのに時間というコストをかけて、驚くべき粘り強さで攻撃していくのはやはり、男性のほうが多い印象があるんですが、実際どうなんでしょう。

本当にそうなら、合理性とは真逆の、向社会性の強さがその現象には露わになっているわけで、非常におもしろいと思います。ただこれは印象にすぎない話ですから、もちろん私が間違っているかもしれません。信頼できる性別のデータがあれば参照してみたいところです。

抜けがけして許せない、という相手を攻撃し、ダメージを与えることができたときに得られる喜びはシャーデンフロイデと呼ばれる感情の一側面といえます。制裁の見返りはこれです。一円の得もしない上に時間と労力が失われ、しかも仕返しのリスクまであるわけですから、差し引きマイナスもいいところなのですが、それを上回る快感が脳には用意されているんです。

むかつく相手にダメージを与えた時に喜びが得られると。我々はそういう仕掛けを持っているわけです。この快感が、女性よりも男性に、より強くもたらされるという実験結果があるんですよね……。

シャーデンフロイデはドイツ語で、「相手の損害がうれしい」という意味の学術用語です。社会性の現れ、ということになりますから、決して不必要な機能でもないし、みんなのためには基本的にはいいことなんのはずなんですが……。

「みんなのため」という正義中毒の恐ろしさ

「みんなのため」という正義原則によって、他人にダメージを与えることそのものが快感になる、という仕組みが、ほとんどの人の脳に脳に埋め込まれているんだ、というのが、なんだか暗い気持ちになっちゃうんですよね。正義中毒、とでもいうかね。まあ、暗い気持ちになっても、どうしようもないんだけど。

本当におそろしいのは、この快感が暴走していくときです。本来なら責められるべきではない人たちが、制裁の快感、正義中毒の人たちのために犠牲になっちゃう、ということが起こる。

集団を守るための、行き過ぎた社会性は、「本当はなんの落ち度もないんだけれども、この人はなんか仕返しをしてこなそうだから制裁を与えてもいい」「別に悪くはないけど目立ってるし一人だけ得しててずるいから制裁を与えてもいい」という判定スイッチを入れちゃうんですよね。

スイッチが入ると、この人が自殺してこの世からいなくなったとか、坂を転がるように落ちぶれて今はみじめな生活を送っているだとか、美しかった容姿が見る影もなく太って地味になっただとか、そんな風にでもならない限りは攻撃が止まらないくらいには、正義中毒というのは恐ろしく強力なんです。

いくら「いじめをやめろ」といっても、これまでに理性で止められた人なんていますか? ジャンキーに狙われたら、「自分を攻撃するとあなたもただではすまないよ、しっぺ返しがあるよ」ということを十二分に示すか、それができないのなら、狙われないところまで一刻も早く逃げなくてはなりません。彼らは中毒者であって、話の通じる相手ではないからです。

息苦しいが平和な社会と、気を抜けないが自由な社会

さあ、我々が美の認知と善の認知をする理由について、ここまで語ってきましたが、ちょっと複雑だったでしょうか。共同体を維持するためには、絶対に必要なものです。ただ、どうでしょうね? みなさんはどっちのほうがいいでしょうか? 

「社会性が高い、美しさを愛する人たちの平穏な社会。ただし、社会が求める善良さから逸脱することは許されず、息苦しい社会。けれども、治安は良く、安心して暮らすことができ、平和である」という社会。

そして、「すべて自己責任で行動することが求められ、気を抜くことができない。殺伐としている。一度落ちたらなかなか這い上がれない。けれども、誰も自分には干渉してこないし、美しくも、善良であることも、同じであることも求められない。新しいことを自由にでき、挑戦し甲斐がある」という社会。

今、遷移状態にあるのかもしれません。どちらに向かっていくのか、まだ定まっていない。ただ、災害が異様に多いという特殊な地理条件から言って、日本は自己責任の社会にはなりにくいと中野は考えます。

極めてプロソーシャルな社会と、個を重視する社会と、どちらに振れていくのか。ただ、テクノロジーの発達によって、共同体を作らなくても生きていける世界が来るかもしれませんから、かつてのようなプロソーシャルな状態に完全に揺り戻しが来るということにはならないでしょうけれど。

そういう時代に美の認知・善の認知がどうなっていくのか? 脳そのものも変わっていくかもしれませんしね。変わっていく時に、なにが起こるのか。楽しみですね。

この講義は19時までということなんですけれども、残りの時間は質問の時間にします。バイトとか、いろいろみなさん事情もあるでしょうから、帰りたい人はもうお帰りになって大丈夫ですよ。ご清聴ありがとうございました。

(会場拍手)