世界中で体験した通貨

竹村真一氏(以下、竹村):こんにちは。トーク始めるような雰囲気ではないですけど(笑)。

(一同笑)

司会者が一生懸命柔らかく柔らかくしようとしてるけどぜんぜん柔らかくならないね(笑)。これはお題の設定がしょうがないということですかね(笑)。

ということで一番最初は、一番経済の素人、お金から縁遠い私が出てきました。文化人類学者なので経済学とは程遠い、一番わからない人だと思って聞いてください。

今日は専門家にいろいろうかがう立場ですけれども、最初にちょっとゆるい話をしておくと、僕自身がお金というものの現実を改めて痛感したのは、もう10年以上も前、世界中を旅したりフィールドワークをしたりしていた頃ですね。

一応、文化人類学者と書いてあるように今はずいぶんいろんなことやってますけど、あの頃は世界をほっつき歩いていました。国の数で言うと80ヶ国くらいですかね。1国だったユーゴスラビアが10国ぐらいに分裂しているので、当時は70ヶ国くらいですけど。

そういうことも含めて南極と北極ぐらいはけっこうほっつき歩いていました。南極に一番近いところ、南米の最南端フエゴ島という、アフリカを出た人類が6万年かけて一番最南端まで行った。

そこまで6週間で行っちゃった現代の旅ですが、フエゴ島に行きまして、お金がなくなりました。貧乏学生ですからね、貧乏大学院生。なけなしの1万円をパスポートに忍ばせて行ってたわけです。パスポートだけは肌身離さず、なにを盗られても大丈夫なようにお腹のところに仕込んで。

最後になくなったので、フエゴ島に唯一ある3人だけ働いている小さな銀行、銀行なのかなーっていう感じの銀行に行きまして、水戸黄門のように1万円札を出したわけです。「これが天下の日本の1万円札だぞ、ちゃんと替えろ」と。替えてくれないんですね。みんなで透かして見て、これはお札なのか、と。これが現実だったんです。

お金というバーチャルな存在

竹村:つまり、紙幣なんて考えてみれば単なる紙ですよ。それに1万円の価値があると、我々はバーチャルに思っているわけですが、そういうところに行ってみると現実を突きつけられるんですね。日本国の信用がその1万円の価値を作っていると言いますが、実際ぜんぜん通用しない世界がまだまだあった。

ただ、なにもフエゴ島だけではないです。アマゾンの奥地に行こうが、ボルネオの山奥に行こうが、あの頃はお金を使ったことないですね。ほとんど村人の生活もお金なんか使わないでやっていた。

ところが90年代過ぎたくらいですかね、グローバル経済がワーッと進み始めて、世界の一番最北地の方々もお金を使うだけではなくて、逆にお金がないと日々の食べ物も買えないという感じになってきて。それまで毎日食べるごはんとか水とかをお金で買うなんていう感覚は、世界中のほとんどの人たちにはなかったはずなんですけど、急にこの20年ぐらいでお金がなければ生きていけない世界になった。

だからある意味では、今は1パーセントの人が99パーセントの富を独占しているとか、そういう格差の問題が言われていますし、それはもうみなさん重々認識して今日来られていますでしょうけど、単に1対99という格差だけではなくて、なぜこんなにすべてをお金で買わなければいけない世界になっちゃっているのかという疑問から考えていかないといけない。

ということで今日は、違う未来を考えるためには大きな過去を、未来をデザインするために歴史を勉強します。年号を覚えるためではないですよね。そもそもお金ってどこから始まったの? 資本ってなに? 利子ってなに? そういう過去のことを専門家にちゃんとお話うかがおうということだと思っています。

人間で閉じていない経済について

竹村:それからもう1つだけよもやま話を付け加えますと、さっきクスモトさんが大いに飲め、宴会だ、と言ってましたので宴会の話をしますと、ボルネオの森の奥地に行きまして、つい半世紀前まで首狩りをやっていてドクロがぶら下がっている、そういうロングハウスで宴会がありました。

大収穫祭です。そこでの宴会の作法は一気飲みをして、そこで勢いよく吐く。始まりにこんな汚い話をしちゃって申し訳ないですけれども。

(一同笑)

吐くことに意味がある。せっかくたらふく飲んだやつもったいないじゃんと思うかもしれないけど、とくに若いやつは僕も含めて飲まされて、ロングハウスのベランダにみんな一気に走っていって、そのベランダの下の川に向かってワーッと吐くんです。

それで空っぽになったなと思われたら、また戻らされて飲まされるという(笑)。何度も何度もそれをやるんですね。

でも、実はこれ人類学の世界ではけっこう常識になっている。つまり経済の根本というのは、そういうお祭りの時に思いっきり大盤振る舞いをすると同時に思いっきり浪費をするんだ。その、浪費をするというのは人間の世界から見ると浪費で消費、消し費やしているんですけど、あの世、違う世界にお返しをしている、なるべくたくさんお返しをするほど向こうから戻ってくるものも大きい、という循環的な感覚があるんです。

ですからできるだけたくさん自然にお返ししなさい、みたいな感じで自然の富の利子であるお米の産物、それでどぶろくを作っているわけですね。それをまた自然にお返しする。

ちょっと汚い話のようですが、そういう人間の世界で閉じていない経済、これからとても重要な話ですよね。自然資本とか自然経済とかそういう概念がやっと出てきたんですけれど、単にサステナビリティとか、自然の元本を壊さないという以上の、地球経済。名言にありますよね。

共産主義経済は市場の真実を反映できなくて崩壊した。資本主義経済は自然の真実、生態系の真実を反映できなくて崩壊するかもしれない。ということがけっこう現実的に今、僕らの経済という概念を少し自然資本や自然経済まで組み込んだかたちにブロードバンド化する必要がある。

自然破壊とかそういうものを外部不経済と言っているような、「経済」「外部」って言っている。これは経済学の経済の概念そのものが小さすぎるんじゃないのか、ということを示唆しているんですよね。

ということで、よもやま話から始まったものの、若い時の私の2つの体験はけっこう重要な経済の本質的な課題をはらんでいたのかなと今ここにきて気付き、お話をさせていただいた次第です。ではここからはちゃんとしたお話をいろいろうかがっていきたいと思いますので、先生よろしくお願い致します。

(一同拍手)

交換によってセミナー用のチケットも通貨になる

黒田明伸氏(以下、黒田):まず先生はやめてください(笑)。

日本の風通しの悪さの1つは先生文化だと思います。先生、先生って言って、大先生って言ったらさすがに怒られますけどね、これってなかなかお互い対等に話し合うという風土をうまーくと閉じ込めてたんですよね。うまーくね。

お金ってなにか、私もそれがよくわからないからずっと研究してるんですけども、ものすごいことのようにみんな思っちゃうんですよね。でももっと簡単で、例えばみなさん今日これ(会場のパス)を持ってきましたよね。

これがないと会場の食事を食べられない。毎週ここに来る、もっと好きになって毎日ここに来る。でもこれがないと食べられない。そしたら間違いなくみなさんの間ではこれが貨幣として通用します。

ここにどっぷりのめり込めばのめり込むほど流通し始めるし、場合によってはこれに投機する人が現れるかもしれない。日本銀行券の紙幣が使えると思っているから使ってるけど、突然日銀が破産宣言して困っちゃったなあと思っても、こうやってで飲んでいる。これって立派なお金ですよね。これがあればちゃんと飲めるということは保証されている。

もっと重要なのは、この会場でセミナーを毎週やる、毎週似たような人たちが集まってくるというふうに信じている。そうすると、信じていることをもとにこれ(パス)を持ってやってくるということが日常化します。そうすると投機できますよね。これを集めて相手を支配してやろうという感じになりますよね。

パチンコ屋はまだボールペンを景品代わりにしてますよね? 最近のパチンコ屋ってどうだろう、みなさん行きますか? 賭博は禁止されているはずの国でパチンコがこれだけ繁栄しているんですけど、お金には換えないで景品に換えて、みんなボールペンにして別のところに持っていくというやり方ですよね。

でもみんなパチンコに行くようになってしまって、別にパチンコに行ってる人の間で交換できますよね。だから、交換したいという人たちが集まれば、それで必ずお金って生まれるんです。

人と人がある程度の数がいて、交換したい、後々交換する自由があるかですね、社会によってはない社会もありますから。それがあれば必ずお金は生まれる。

交換しようと思ったらお金が生まれる

黒田:みなさんは知らないかもしれないですけど、2002年にアルゼンチンは破産しかけて政府が発行する通貨のペソがものすごく値下がりして使われなくなったんですね。その時、僕の同僚で現地通貨運動の研究をしているジョルジナ・ゴメスというアルゼンチン生まれのオランダの学者によると、地域ごとに知り合い同士で余ったものを持ち寄って交換するということを初めたんです。それはだいたい20~30人集まって好感していました。

はじめはお互い交換するのに帳簿をつけていたんです。俺はこれをもらった、お前はこれをもらった、という。だからその帳簿で交換し合っていたんです。でも200人、300人、400人となっていくと、とてもじゃないけど帳簿では管理できなくなった。

それで、クーポンで交換するんです。これってもう通貨ですよね。だから、交換したいって人間がある程度いたら必ずお金って生まれてしまうものなんです。

そうすると、カフェの通貨がある、隣のカフェの通貨もある、地下鉄に乗りたい人のための通貨もあるとなってくると、お金ってどんどん生まれるんです。マルチプルな感じになってしまって不便だなという感じがしてしまうんですけれども、実際200年くらい前までは、人類の半分、いやもっと、9割くらいはこんな感じでいろんなお金を使っていたんですね。

市場(いちば)に行って使うお金、ちょっと遠くから来た商人に払うお金、場合によっては商人でも塩を運んでくる人と米を運んでくる商人とで別々の通貨を持っているんです。それで交換する。面倒くさいなと思うかもしれないですけれども、要するに政府なんていらないんです。もちろん政府は税金を集めますから、政府に税金を払うためのお金はあるんだけれども、そのお金とふだん飲み食いしているお金が一緒である必然性は必ずしもないんです。

というのは、その間だけで自由にやっていけますし、自由に決められますから、政府がたくさんお金を刷ってこれが通貨です、なんてことはないですからね。この間でやっていれば。そういう感じでお金って実はもっと簡単に、人が集まって交換したいなと思えばできちゃうものなんです。

お金というのは定義した時に富の蓄蔵だとか価値の尺度とか交換の手段とか、みんな教科書に書いてありますよね。交換の手段、ミーンズ・オブ・イクスチェンジ(means of exchange)、たくさん学者いますけれども、これを否定する学者は1人もいないんです。だから交換しようと思ったら必ずお金が生まれるっていうはこの話なんです。重要なのは、交換って、もっと交換したいということ自体が一様じゃないことなんです。

匿名による交換と記名による交換

黒田:この会場間で交換したいと思っていることと、ここにいる人たちが隣の町と交換したい場合、ということとはだいぶ違うんです。それから、この会場間で交換する場合も、こんな記号を使って流して交換すると、別にこれに名前を書かない限りは、まわしている限りは匿名でいけますよね。

そうじゃなくて、名前を裏書きして、交換した人間はタケムラ、クロダと書いていくという方法もあるんですけど、記名的に交換していくのと匿名的に交換していくのってかなり違いがあるんです。

記名的に交換していくと、いくら物がまわっても誰かが嘘をついたらわかりますから、交換した後を辿ればいい。その代わり、自由がないですよね。誰がなにを買ったかすぐわかっちゃうし、必ず人間関係がついてきます。それがイヤだから交換しようとするわけですから、そうするとなんにもかからないですね。バッと交換して。

人間の交換の欲って2つあるんですね。確実に記名的にやっていきたいという交換と、そんなのイヤだから自由にやりたいという欲求があって。この2つは人間の根源的な欲求ですから、満たさないといけないんです。だから小切手での交換は記名的なもので、小切手じゃなくて名前のないコインで流通させようと思ったら匿名的になりますし。ここだけで世界が完結していたらいいですけど、そうはいかなくてここだけで完結すればするほど、やっぱり他の町と交換したいなと思うのが人間の欲求ですから。

そうするとですね、交換と言っても匿名的と記名的、自由があるのと確定的な欲望がある。もう1つ重要なのはパッと集まってみんなでネゴシエイトできるかという点なんですね。でもそれだと一緒に集まってネゴシエイトできる、値切り合いできる範囲が限られますから、せいぜい1,000人とか10,000人ですからね。

それ以上にやっていくと、どうしてもブローカーというか媒介する人間がいないと交換できないんです。匿名的、記名的、それから一応ローカルで交換していくのと、インターリージョナル。この4つですね。

昔から人間社会ってこの4つでうまく組み合わせて交換してきたんです。このレベルで交換するんだったら小銭でいいし、別に銭じゃなくてもいいんです、ボールペンで構わない。

でも隣町と交換したいと思ったらちょっとボールペンじゃまずいから、何か実のあるものにしなくちゃいけない。輝いた金ピカのものだとやりやすいかもしれないですね。それから、ここで記名的に交換したいんだったら、帳簿で、ブックキーピング。でも、よその町と交換したいんだったらおそらく為替手形ですかね。

という感じで、それぞれ社会の属性に合わせてうまく4つの交換を制御してきたんです。4つとも属性が違うから別に4つ違う通貨があって構わないということなんです。本来お金って需要に合わせてもっとバラバラになれるものなんですけど、この100年から150年くらいの間に「政府と中央銀行の出すものがお金だ」とがっちりなってしまいました。法律的にも、通貨的なものは出してもいいけど、本当にそれを通貨として使うと違法だというふうになっています。