学習自体は本来楽しく、幸福なものである

岡野原大輔氏:こうした背景をもとに、学習の何が難しいのかについてお話しします。

学ぶことについては、すでに多くの教育学者や心理学者の知見がありますが、ちょっとユニークさを出すために、私はこれまでずっと人工知能を研究してきました。心理学にも興味があるので、そういう点から何が難しいのかをユニークな視点でまとめました。

「学習自体は本来楽しいもの」が前提にあります。学びは苦痛だという経験をしてきた人が多いかもしれませんが、学習し成長し、自分の可能性を広げていくことは最も幸せな経験の1つとして知られています。学ぶことで何かもらえるとか、新しい地位をもらえるというような外部報酬ではなく、学ぶこと自体に人間が内部報酬を与えられているからです。

心理学などで知られていますが、プログラミングに没頭して気づいたら5時間経っていたという状態を「フロー」と呼びます。プログラミングだけではなく運動などにも見られるものですが、完全に熱中・集中してのめり込んでいる状態、専念と集中です。重要なファクターとして、自分の限界をやや超えているような感覚でやっているような状態が、人が生きている中で一番幸せに感じる経験の1つだとされています。快楽とは違い、もっと高次なレベルで充実感があって幸せだという瞬間です。

学習に苦痛が多く、成功しない場合が多い理由

フローに代表されるように、学ぶこと自体は楽しいし、幸せなことであるように人間は設計されていますが、学習には苦痛も多いし、学習が成功しない場合も多い。それはなぜか。

これについてはよくご存じかもしれませんが、1つ目に挙げられるのは、学習の難易度がきちんと設定されていないことだと思います。今の自分にとって学習の難易度が高すぎることはパニックゾーンと呼ばれ、非常にストレス過多で訳がわからない、何も考えられない状態です。

例えば、大学の授業が最初からぜんぜんわからなければ、ずっとパニックゾーンで苦痛な状態だし、仕事においても、自分が今できるレベルをかなり超えた仕事をやると、パニックとストレスで非常につらい状態に陥ります。

一方で、青いゾーン(コンフォートゾーン)は自分がよく知っているゾーンなので不安にならないし、慣れているのでぜんぜん問題ありませんが、飽きるという特徴があります。だから、ずっとやっているのはけっこう難しい。

ラーニングゾーンは、未知の領域だけど今の能力でちょっと背伸びすればできるゾーンです。ここが学習にとって最も効果的な領域であり、実際に楽しい。今世の中にあるゲームやゲーミフィケーションは、このラーニングゾーンに入れるように巧妙に設計されているおかげで飽きずに長時間プレイできますが、そうでなければ飽きたり、難しすぎて諦めたりすることになります。

学習内容は、難しすぎるか、簡単すぎるか、ちょうどいいかですが、この難しさの尺度は非常に個人的なものであって、いくら外が設定しても自分で調整しないとちょうどいいものが見つからないくらい繊細です。また、単に難易度という軸だけではなく、合う学習教材や学習方法は個人によって違います。目で学習するのがいいか音で聞いて学習するのがいいかは、脳の構造で決まるので、どちらなのかに早めに気づけば効率よく学習できるし、さらによい教材に出会えれば苦なく学習できます。

学習がうまくいくかどうかは、その人自身の努力はもちろんですが、よい学習教材や学習方法と出会えるかが大きいと思います。この現象を逆手に取って、一般に学習が難しいと言われている、かつ世の中に求められているような分野で、みなさんが専門性を獲得することができれば市場価値はとても高くなります。

例えば、まだ教科書がない、もしくはテキストブックがないような分野の専門知識を持っていれば、ほかの人は学習できません。学習するのも非常に苦痛なので、市場で求められる価値が非常に高くなると思います。

学習の定着に重要なのは“アウトプット”

もう1つ、学習を定着させるためにはアウトプットが非常に大事です。知能の大部分は形式知ではなく無意識の知で構成されているためです。この無意識という部分は、客観的には評価しにくいですが、とても重要です。一方で、自分自身も無意識の領域なので、何を理解しているかが自分でもわからないこともあります。

スライドの右側にある『ディープラーニングを支える技術』。宣伝ではなく紹介のつもりですが、私が書いた本の中でも『ディープラーニングを支える技術』で説明していますが、知能のかなりの部分で、無意識下の処理と意識上の処理が融合しています。どちらかだけではなく、うまくそれらが噛み合っていろいろな知能処理をしているわけです。自分ではそれらをなかなか形骸化できない、どこまで獲得できるのかはわかりにくい。

アウトプットすることによって、何を理解しているのか、もしくはわかっていないのかを理解するとともに、無意識の状態だったさまざまな部分を顕在化できます。また、教える過程では、教えている内容の10倍くらい、あるいはもっと知っていないと教えることはできないので、教えることによって自分自身が学べるという利点もあります。

専門家が新しく学ぶことの難しさとは?

もう1つ違う観点で、専門家が新しく学ぶ際の難しさについてお話しします。

学ぶことの多くは、まっさらな状態で学んでいくことを前提にしていますが、先ほど申し上げたように、これからの時代は、すでに何かを学んでいる人が新しいことを学ぶことが増えていきます。今まであまり注目されていなかった、専門家が新しく学ぶことが増えてくると思います。

適切な例かはわかりませんが、例えばC++にすごく詳しい人がGoやRustなど違う言語を学ぶこともあれば、画像認識の博士号を持っている人がまったく違う量子化学を学ぶことも出てくるでしょう。すごいエンジニアの専門家がビジネスを学ぶこともあるでしょう。

昔の人と比べて今の人が圧倒的にやりやすいのは、学習環境がそろっているからです。今の人がスーパーマンになったわけではありませんが、できるようになっています。

一方で、複数の専門を持つことは、単に時間がかかる以外に特有の難しさがあると思います。例えば、みなさんが何かの専門家だとします。その専門スキルを活かした仕事はいくらでもあるし、重要なポジションにいるので、そのスキルを活かした仕事が忙しくて学ぶ時間がありません。

もう1つ重要なこととして、その分野で考え方や知識が最適化されているので、新しい分野を学ぶ際に悪影響が出ることが実際にあると思います。さらにあるのが、新しい分野を学ぶ際の効率です。自分の専門分野なら学ぶのも最適化されているので進みますが、新しい分野を学ぶ場合は相対的になかなか進まなくて学ぶ気にならないことがあります。

専門知識の場合は「破滅的忘却」のようなことが起こり得る

ここまでは人間の話ですが、人工知能でも同じこと起きるのかというと実際に起きます。例えば、あるタスクを学習しているモデル、画像認識の犬猫分類器に対して数字を分類するように認識させようとする場合、普通に学習させると以前学習したスキルができなくなります。これは「破滅的忘却」と呼ばれていて、中でいろいろなパラメーターを微妙に調整していたものが破壊されることで起きます。

これに対して人間は、比較的もしくは圧倒的に、今のAIと比べて継続学習が得意です。例えば自転車の乗り方を覚えた後に英語の勉強をしても、自転車の乗り方は忘れないなど、こうしたことは起きにくいですが、専門知識の場合はそのパラメーターも微妙に調整されているので、こうしたことが起きることもあると思います。

印象的だったのは、ピアノの演奏をしている私の知り合いの話です。その方は、ショパンの演奏の仕方を学ぶと、半年くらいチューンしているんだけれど、その時にほかの作曲家の演奏をすると忘れる、もしくは微妙な繊細な部分が失われると言っていました。きっと、同じようなことがほかの専門分野でも起きると思います。

今の人工知能分野の1つのソリューションとしては、最初から特定タスクにするのではなく、汎用タスク向けに学習してから各タスクに特化することが勧められています。

今のGPT-3をはじめとするファウンデーションモデルと呼ばれるものは、とりあえず最初は非常に多くのタスクを解けるように学習しておいて、専門のタスクを学習する。逆はできません。同じように人の場合も、早期にある分野に特化しすぎるとリスクになり得ることが知られています。スライドの『RANGE』という本にそのようなことが紹介されています。

専門家は「探索と利用のジレンマ」と戦い続ける必要がある

もう1つ重要な観点であり人工知能から借りた話として、探索と利用のジレンマがあります。強化学習は、環境と試行錯誤しながらどんどん学習していくような手法ですが、現在すでに持っている知識を利用して収益を刈り取りにいくのか。もしくは、未知の部分があって、さらに情報を集めたほうがもっといい方法が見つかるかもしれないので、あえて収益が低いことをやりにいくのかというジレンマがあります。

同じような話ですが、今日の昼飯を決める際に、いつも決まっているもの、これを食べれば間違いないものを頼んで、その日の収益を取りにいくのか。もしくは、あえてまずいかもしれないがほかのレストランに行って、別のメニューを頼んでみるかというジレンマがあります。経営理論でもまったく同じです。「知の探索と知の深化」という言葉が知られていて、強化学習も経営理論の話も同じCMUで出ているので、おそらく出どころは同じだと思います。

限定された合理性、経営理論や経済理論では基本的に、人や組織は合理的な行動を取ると言われがちですが、実際は局所最適でその人や組織が持っている認知範囲には限界があるということです。専門家についても、どこかで自分の専門性を活かして収益を取りにいくのではなく、自分の強みを広げて探索することによって、もしかしたらもっといいところが見つかるかもしれないというジレンマと戦い続ける必要があると思います。ここまで問題提起をしました。

(次回へつづく)