ホテルのパーティーに参加したことがきっかけで意識し始めた上場

菅澤英司氏(以下、菅澤):引き続き、さくらインターネット株式会社の田中邦裕社長にお話を聞きたいと思います。よろしくお願いします。

田中邦裕氏(以下、田中):よろしくお願いします。

菅澤:いきなり起業して、サーバーを立てて、注文が殺到したとのことですが、9年後に上場というのもなかなかのスピード感ですね。

田中:そうですね。そんなに早くもないんだろうとは思うんですが、1996年に起業して、1998年に大阪に出ました。実はですね、その時に上場しようと思っていなかったというか、上場ができるものだと思っていなかったんですよ。上場企業は作るものじゃなくて、入社するものだと思っていましたから。

ただ、DMM.makesを作って、MAKERSで活動している小笠原治さん、彼が設計事務所の社員だった時にサーバーについて教えてくれへんか?と、僕が起業して大阪に出た時にメッセージくれたんですね。僕が起業したことにすごく興味を持ってくれて、自分も独立しようとしているんだみたいなことを言っていました。

その時に、ビットバレーというのが最近東京で流行っていて、京都や大阪でも起業が進むらしいんだ。東京証券取引所が新しく市場を作って、ベンチャーを上場をさせようとしていて、みたいな話をしたんですね。

菅澤:マザーズですね。

田中:マザーズです。その時に宝ヶ池プリンスホテルでパーティーがあって、そこに連れて行かれたんです。血気盛んな、上場するぞと言っている企業家の人や証券会社がいました。

菅澤:いわゆるホリエモン的な人たちがいっぱい。

田中:そうそう。それでうちの会社はITど真ん中じゃないですか。その時は、本当に名刺にメールアドレスを書いただけでIT企業になりましたと言っていた時代だから、IT企業を作って、それを上場させるのはすごく増えていたんです。私たちなんてまさしくITそのものの会社でしたから、すごくちやほやされて、20歳、21歳の頃にはもう上場するものだと思い始めていました。

菅澤:そこのパーティーに行ったのが結構大きかったんですね。

田中:大きかったですね。21歳になった時には、さくらインターネットを個人事業から有限会社にして、ITのいろいろなことをする会社にしようと思っていて、2年後にはさくらインターネットを一事業として捉えていたのですが、上場が色濃く出てきた時に、これは株式会社化して上場目指したほうがいいんじゃないかと、21歳の時にさくらインターネット株式会社というかたちに社名も変えて、それが今の会社につながっています。さくらインターネットという単なる個人の一事業を株式会社化したのが21歳の時で、その時には上場前提で監査法人も入れましたね。

ベンチャーキャピタルと喧嘩して社長の座を退いた

菅澤:好きでやっていた部分もあったとお話されていましたが、上場はけっこう責任があるじゃないですか。不安はなかったですか?

田中:そうですね。21歳の時に会社を作ったんですが、22歳の時にですね、ベンチャーキャピタルさんが入ってきて、「こうせい」「ああせい」とすごく言ってくるんですよね。上場はしたいけれども、それが目的ではなくて目標でしかない。なんで上場すること自体を最優先というか、目的みたいに言うねんとけっこう喧嘩して、2001年の前ぐらいに社長を辞めちゃったんですよ。ただ、VCさんからお金を集めた責任もあるので、会社には残ったんですね。

菅澤:会長になったんですか?

田中:代表権はあるままで、副社長になりました。

菅澤:じゃあ社長を連れてきたんですね。

田中:さくらインターネット株式会社になる時に、同じようなサーバーサービスをやっている人と知り合って、その人と一緒にやり始めたんですよ。もともと私が7割の株を持っていたんですが、VCさんが入る時に株を半々の35パーセントずつにして、社員にも株を配って、同じ株だけ持ってもらって、その人が社長になったというのが23歳の時ですね。

菅澤:当時田中さんはけっこう血気盛んだったんですか?

田中:今はだいぶ丸くなりましたが、30代中盤ぐらいまではずっと血気盛んでした。基本短気なので怒るし、しょっちゅう辞める辞める言うし。

菅澤:でも、何とかなったんですね。

田中:そうですね。ちょうどネットバブルが崩壊した時、けっこう厳しい時期もあったんですが、私は社長を外れて暇もあったので、「さくらのレンタルサーバー」という新しいレンタルサーバーの開発を1人でやっていました。ブログとかも使えるようなレンタルサーバーを作って、社員も途中から一緒にやってくれるようになって、2004年にはリリースしたんですね。それが思いのほか伸びました。

専用サーバーもGREEさんとかmixiさんとかサイバーエージェントさんとか、アメブロですね。有名なWeb 2.0のコンテンツがほとんどうちのお客さまだったんですよね。だから、お客さまが伸びると私たちのサーバーも伸びるみたいな時があって、それの勢いもあって2005年に上場できたという感じですね。

菅澤:プロダクト開発には一貫して関わってはいるんですね。

田中:そうですね。むしろプロダクト開発を中心にやってきました。

分野拡大は失敗、サーバービジネスを中心にしたら成功した

菅澤:今また社長に戻った感じなんですか?

田中:2005年に27歳で上場して4番目に若かったんですが、上場してからゲームのビジネスをやったり、いろいろ分野拡大をしていたんですね。それが全部ポシャって、2007年に社長お願いしていた人が辞めちゃったので、私がやるしかないなと社長に復帰した感じですね。

菅澤:10年ぶりぐらいですか?

田中:2001年から7年ですから、6年ぶりぐらいか。

菅澤:6年ぶりぐらい。そのあとはけっこううまくいったんでしょうか。

田中:かなりリストラクチャリングはしたんです。人は別に減らしてはいないんだけれども、投資もやめましたし、新規事業も全部やめちゃったし。新規事業をやめると、チャレンジしたい人はどんどん辞めていくわけなんですよね。当時は経費も厳しかったし、社員が辞めたら、それはそれで経費が浮いたので、辞める自体は悲しいけれど、ホッとした側面もあったんです。実際、社員数もその頃は純減していて、ただ、利益率はどんどん上がっていったんですね。最終的には2割近くの営業利益率まで回復したんです。

それで2011年に、利益を上げるためだけにやっていたっけ? みたいな、もっとお客さまに対して価値が出せるビジネスをやっていかないと、というのがあったんですよ。証拠として、実際に売上の成長率がほとんど上がらなくなっていたんですよね。だから、売上も純減するんじゃないかというところまで来ていたのが2010年、2011年ぐらい。

もっといいデータセンターを作りたかったはずじゃないかと、その時に一念発起して北海道の石狩に土地を買って、データセンターを作って、「さくらのクラウド」というクラウドビジネスやVPSとか、今の主軸になっているデータセンターとか、新しいサービスをどんどん出していきました。

菅澤:今振り返るとインフラ系のサーバー系でけっこう成功して、ほかの領域にもいろいろ手を出したけれどなかなか厳しくて、こっちへ戻ってきたらまた成功したという感じなんですか?

田中:そういう感じですね。「やりたいこと」を「できる」に変えるが私たちの社是で、インターネットで「やりたいこと」を「できる」に変えるというのが世の中に訴えていきたいところで、サーバービジネスを中心にやると、結果としてうまくいく感じですね。

菅澤:逆にほかの領域に手を伸ばしていたのはどうしてだったんですか?

田中:当時ですね、サーバーはこれ以上伸びないんじゃないかという頃だったんですよね。よくよく考えたらサーバーは伸びるんですが、戦略的に自社のサービスを捉えずに手っ取り早く売上が上がるところに執着したのが敗因なのかなと思いますね。

クラウドビジネスはこれから絶対に伸びる

菅澤:世の中が激変していますが、事業領域とか、新しいことはどう考えていますか?

田中:クラウドビジネスみたいなのは絶対に伸びると思ってます。あともう1つはですね、DXはバズワードではなくて、今まで原価ではなくて販管費として、つまりコストとしてITを使っていたんですよね。コスト削減のためのITだったんだけれども、ITは、それこそサーバーがないと、その会社のビジネスが成り立たない域まで来たじゃないですか。例えば通販だったら、サーバーがなかったら通販できないわけですし。

ITそのものがその会社のビジネスそのものになり始めているんですよ。だから、ITが前提で、かつ、クラウドが前提の社会になってきて、それを私たちが手助けすることによって、私たち自身も成長する。そういうストーリーを描いてます。

菅澤:お時間が来てしまったので、ぜひまた今度お話できたらと思います。ということで、あっという間に時間が過ぎてしまったんですが、この番組に呼んでる人は、本当に共通しているのが、好きでやっていたらいつの間にかこうなったということなんですよね。好きなものを見つけて、そこに無邪気に飛びついて、なんなら事業化もしちゃうことで道が開けるのかなと思いました。